20.過去 ゠ 人に最も大切なものは何か

20.過去・前 ゠ 冷房と覚醒の話

すずしいな」


 そのへやに入っての、私のだいいっせいはそれだった。


 今ここは、魔王の寝室。

 まあ、そうだ。

 どうやっても結局、あの状態で執務など、続けれようはずも無い。

 そのままり止めにせざるを得なかったのである。

 ただ、長話をしていたとはいえ、何百部もったあの書類の大半はきっちり裁かれわっていたのだから、そこはすがというのか、何というのか。


 広さはこそこ有るものの、置いてある物はやはり、そう多くない。

 入口わきにちいさなたなって、小物が置かれ。

 その入口から中央寄りには、しのみのついてがり。

 その奥、一応はてんがい付きであるものの、垂れ透いたうすちりめんのほかにはまるで飾らない、真っ白な寝台。

 そのそばに停めてある台車、そこに載った水差しとしょくだい、召替え用のものと思われる木綿製らしき服。

 それらだけが、全部だった。


 いや。

 寝台のまくらもとんもりと積まれた、大量のぎれについては、あえて目に入らなかったことにする。


 しかし、夜が訪れたとはいえ、今は夏。

 与えられた絹衣のおかげでしのげてはいたものの、ふつうに熱気はただよっており。

 それにしてはこの寝室の中だけは、たかもどうくつの奥であるかのように、冷んやりとしていたのである。

 やや湿っぽくも、どこか心を洗うかようににおう空気が、にもそれらしい。

 これこそ魔術か何かか、そう私は思ったのだが、しかしこれもどうやら違ったようだ。


「あ、はい。冷房にしてあるんですよ」


「れいぼう?」


「この本宮って、がけ穿うがつようにして建ってるんですけど、その中の水脈に近いところに穴を通してですね。そこを陶管で継いで、水力の風車で風を送ってるんです。そうすると空気が地中で冷やされて、すずしい風を得れるんですよ」


「ほう、地の冷たさを利用するわけか。よく考えたな」


「改良の余地はります。今の規模だとりょうふうをそんなにたくさん得れなくって、食材房といくつかの休憩室くらいにしかまわせてなくって。あと、配管で軽減はしますけど、地中の湿気をかなり拾ってきちゃいますから。へやのなかの物はえらびますし、に換気したり掃除したりしないと、そこらじゅうがびちゃうんですよ」


「そうか。しかしこれは、快適だ」


 温暖な土地に暮らすなら、夏の熱気による寝苦しさというやつには、だれしも悩まされるもの。

 ときには休息すらよくれず、そのままからだてさせてしまう事も有ろう。

 適応する地形をいちじるしくえらび、かつ一定の欠点も抱えているとはいえ、それをどうにかてしまったというのは、素直に快挙と言える。


 まあ、そのほかには特に何も無かったので、私はとりあえず寝台に腰掛けてみるのだが、少女が寄ってこない。

 やはりはづしさが先に立つのだろうか、なにやらじもじとしているようだから、何か話をすることにした。


「まあ、あれだな」


「はい?」


「こんな事が有ったんだ。やはり毒見は、せたほうがいいのではないか?」


「それは……もう、今更ですし」


「だいたい、げんせいとやらはもそも必要だったのだろうか。単に愛の告白なら、性のいとなみまで絡めなくともよかったはずだ」


「確かにその必要は……でもまあ実際、私を動かすには効果的で……あ」


 ここで少女は、赤も赤らむほど真っ赤に染まり、恥も恥らうほどはづしそうにした。


「どうした?」


「こ、これは……その、げんせいのそれは、私が自分で何とかしますから……」


「それはられ損だろう。だいいちお前のその隣で、私はどうしていたらいいんだ?」


 と言うかこれは、もし私が少女の求愛を振っていたら、どうするつもりだったんだろうな。

 まああの女侍従長ならば、その場合について何も算段していなかった、という事も無さそうだが。

 まあ今はとりあえず、目の前で拙為だめになっている少女がおもしろかったから、気にしないでおくことにした。


「そ、それは……で、でもあ……貴女あなたに好きでもない事を、せるわけには……」


「確かに趣味ではいが、相手がお前なら興味はるかもしれないな」


「……っぇ」


 それはながちうそでもない言葉ではあったが、これでこの魔王はどうにもならなくなったらしく、その口はわななきながら珍妙な悲鳴を漏らした。


「あ、貴女あなたが……わ、私……の、に……?」


「物は試しとうだろう。ってみなければ、気に入らないかどうかはわからない」


「ほ、本当に……その、私と……。本当にいいん、ですか……?」


 大変な事になってしまったのは少女のほうなのに、なぜか私のほうだけが気にされている様子だったから、私はり言ってやる。


「そうか。純なりでも、やっぱりお前のほうには抵抗が無いんだな?」


「……あっ! ああぁぁあ違うんです、違うんです……違うんです……」


 もはや何について、どう違うと言っているかもさっぱりだが。

 しかしこれは、なんといぢいのることか。

 たのしいことはこのうえも無いが、そんな感じで完膚なきまで拙為だめになった少女を、私は手招きする。


「まあ、いいから。こちらへ来い。話をしよう」


「……」


 言ってやってしばらくして、やっと少女はおもむろに、わふわたよりない感じで私のほうへ歩み寄ると、んと落ちるように腰を下ろした。

 そのまま固まってしまったが、私は問い掛ける。


「どうしてなんだろうな」


「は……はい?」


「お前がどうして、そこまで私に思い詰めているのか、という話だ。私は、お前のことをよく知らない。お前は、私のなにを知っているんだ?」


「……」


 その質問に、少女は一瞬黙った。

 そののち、こんな事を言うのである。


「実は私にも、それほどっきりしたおぼえは無いんですよ」


「なに。何でもおぼえているはずのお前でも、忘れることが有るのか」


「それはそうですよ。私も以前は、結構なでしたし」


「いやそれは、ちょっと想像がつかないな」


「そうですか。でもあのほら、たまに聞く話だって思うんですけど」


「うん?」


「そこまでは何もかもがぼやけてるのに、いろいろ知識を詰め込んでるうちに、ある時点を境にして行きなり視界がめいりょうになる、みたいな話って聞いたこと無いですか?」


「む」


 ほうほう、それか。

 その話を聞くとは思っていなかった。


「有るなあ。私にも有った」


「ああ、やっぱり貴女あなたもですか。私にもそういう事が有ったんですけど、その開らけた視界がんまり、鮮烈すぎたのかもしれません。それより前の出来事が、んまりよく判らなくなっちゃって。ええ、残念でなりませんよ。ほかでもない、貴女あなたの事なのに」


「ふむ。そうか」


「……あ、いえ。何でもおぼえてるなんてことは、さすがに……」


 例によってぼやきが漏れてくるはいいとして、私はそれをだいめと呼んでいる。

 であるのは自負するところだが、かといって今まで別に、何も得れずにきたわけでもい。


 つては自身も愚鈍だったと、いま少女はそう告白したが、まあそれは私もそうだ。

 とはいえ生まれてしばらくは、だれもがの状態であるはず。

 そしてそこから成長するにつれ、自我も意識もおのと確立されるものだが、まずはこれが第いちの目覚め。

 とりあえずそれが果たせれば、人は一個の人としてちあがっていける。

 ただ、その目覚め以前の事は、ほぼおぼろであるのが普通だろう。


 ここで、さらにたすら知識を蓄積していくと、それが一定のいきを超えたとたん、まるで山野の密林をぬけて、地平までつづく平野でも目撃したかのように、突然に視野が広がる。

 そんな瞬間に出会うのだ。

 これは不思議なたいけんである。

 それを得たとき、判断をしなくとも、ただ知るだけで勝手に物がわかったりする。

 しんげんでもたまわったかと、れいを聞いて一が知れるのではと、そんなごうまんな錯覚におちいってしまいそうなくらい、物事をりょうぜんれるようになるのだ。


 まあ単に目が利くようになるだけだから、それが得られたからと言ってそう大層な事には至らないが、それでもそれは、以前までの自分とは何だったのかと。

 第いちの目覚めと同様、過去の自分が現在のそれと、別個の存在であるかのように思えるほどだ。

 だから成長を果たしたとうよりは、また新たに目覚めた。

 そうったほうが適切と感じたから、そう呼ぶことにしたわけだ。

 少女のぼやけとは、これを指すものだろう。


 人は、物のれつに対して一定の法則が見つかると、それをおそろしく効率よく処理する能力を持つ。

 そしてその法則の発見は、標本が多ければ多いほど達しやすいもの。

 少女の挙げた、塩味の例もおそらくはそれであり、物がよくれるようになる機序とは多分、そんなところなのだろう。

 そういうわけで、んまり知識を詰め込みすぎると処理しきれず鈍重になる、との説をまに聞くが、果たしてそれはどうか。

 ほどにじんそくであろうとも、ぼやけた視界で判断するゆえに本質まで至りきらぬのならばそれは、かんがやすむにり、とわれるそれなのではないか。

 そんなふうに、疑われるものだった。


「まあ、しかしな」


 それはそれとして、おもい出せないなら少女のこの、熱烈な恋慕は結局どこから来るのか。

 そんな疑問もまたくわけで、やはりそこは追及したくなるわけだ。


「はい?」


「それにしては、おぼえていないにしては、かなりの入れ込みようではないか」


「ええ……はい、そうですね。かしたら、会えない分だけおもいがつのった、って事もるかもしれません」


「いや、そうかもしれないがな。さっきまで散々、私を信じるとも言っていたではないか。その理由としてはすこし、弱い気がするな」


「ああ……それの理由、ですか」


「そうだ」


「それは、その……」


「うん?」


「……無いんですよね」


「無い? 理由が?」


「はい。私はただ、貴女あなたを信じたいだけだったんですよ。根拠なんて、何も無かったんです」


「ふむ」


 単なる願望だった、と。

 なるほど知ってしまえば、単純な話ではある。


 私はこの少女を、ではいと判断した。

 しかしそれはどうやら、少しばかり思い違いであったらしい。

 真にかしこいのであれば、そんな信頼など持とうとはしないはずだからだ。

 こんな、愚にもつかず、不確かで、いつどのように裏切られるやも知れぬ、はかなく切ない……持つだけで自分を苦しめるような、期待など。


 少女が自分で言ったとおり、ときにさかしさは他者へ不快感を与える。

 そして、愚かしさはその逆だ。


 私はそのくちもとが、すこしゆるんだ。

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