15.面倒・中 ゠ 因業と可罰の話

 もちろん、その間違えが罪ならば、それに対しては罰も必要なのだろう。

 しかし、基本的には罪のみが憎まれるべきで、犯した人までが憎まれるのは行きすぎなのだ。

 いかに不届きな所業とはいえ、その原因を突き詰めれば案外その大半は、本人以外の存在がそうせていたりするからだ。

 過失ならば、そうざるを得ない状況に。

 故意ならば、そうざるを得ない心境に。

 人がただそこへ追い込まれ、不可避的に発生するのが罪、という事だ。

 ことに故意の場合、そんなはずが有るかと、全て本人の裁量であって他のどこかに責任が所在するわけが有るかと、多くの者がそう否定するに違いない。

 だが、果たして本当にそうなのかと、私は疑う。

 それは無論、しっせきの例をもっても説明可能だろうし、れんちゅうの共感性欠如にしたってそうだ。


 共感とは、他者の感覚や感情がどうさつされること。

 ただそれは、同様に感覚や感情をもつ彼らにも十分可能というか、より高度にされるからこそ、効果的に他者を操縦できるのだろう。

 一方で、共感性とはそのどうさつの内容を、我が物として感受してしまう性質のこと。

 転んだ者を、単に見掛けただけの他者がたたと顔をしかめる、といったものがこれだ。

 そういう同調的な実感が、自主性というものをそうさいし、他者を自己同様に尊重させるに至るわけである。

 しかし視覚を生まれ持たない者が、色という概念を獲得するのが至難であるのと同様、他者感応を生まれ持たない彼らが、他者尊重という概念を獲得するのもやはり至難。

 紫を紫としかえないように、実感をことばで説明し果たすのはおよそ無理な相談で、他者に教えられて感受できるようになる性質のものでもい。

 これでは考慮も配慮もしようが無く、だから尊重のさる粧得まねだけはきても、尊重そのものをとくするは永遠に不可能だろう。

 もちろん、それにより発生する自分本位な横暴だけは、心底憎い。

 にしても、たとえ本人が問題意識を持ち、改善にり組んでみたところで、本人の努力ではどうにもならないことは、想像にかたくないのだ。


 ではさて、ゆがまるほど抑圧されたは、ないし許されぬほど欠落を抱えて生まれたは、本人が責か。

 あらずんば、それらに起因する非行にかぎり、行きなり本人の全責任となるは、わけがらか。

 紫へまで辿たどりつけぬ、哀れな迷子の情状もまずに、ただちがいの極悪人として囲いなぶるは、本当に善か。

 そういう疑問を、持ったわけだ。

 彼らに対してそこまで私が強く出れない、理由のいつでもある。


 しかし

 色覚なき者に彩色をになわせれば、滅茶苦茶な絵画がえがかれよう。

 んなじに、しき所業を野放しにすれば、被害も増える一方だ。

 だれか人が罪を犯したらば、他者尊重の線を侵したならば、可能なかぎりの改善はめて、うながさないといけない。

 ところが、罪によりて人を裁く。

 これをさんとするとは、それこそ高度な判断が必要になるような、至難をきわめるわざでもあった。


 たとえばどんなぐうってでも、させてしまうならおやにはるのか。

 えたのために、たべものぬすみをはたらくのはけっしてゆるされないか。

 おなじくこんきゅうしているのにせっしゅしつようにくりかえされ、なんめてもせいできないものさつがいするのは不許だめか。

 おやかたきたいふくしゅうたすは、みとめられないか。

 ふくしゅうたいするふくしゅうは、きんか。

 ふんそうこんぜつするためだとしても、とうみなごろしをはかるはぜったいあくか。

 おうさつていしたせいでげきがくりかえされたなら、そのていをしたものせきにんはどうか。

 しゃがいのうせいをただつだけでゆるされないなら、すべてのものきることゆるされないのではないか。


 れぞれつみさだめてけいばつすなら、そのけいしゅていりょうこんきょなにか。

 こくふくぼうきゃくもされうるしこんたねにもなりうる、そんなというものもそもばつてきすのか。

 しょくざいとはけいばつたいするつとめをまっとうすればせいりつするものか、そんがいたいするつぐないをまっとうすればせいりつするものか。

 それともばつけてなおあがないがせいりつしないなら、そんなってもくてもあつかいにちがいがないけいばつひつようせいるか。

 あるいはがいしゃかんけいしゃゆるしをもってあがないのせいりつとするなら、それはちからかんけいおもわくなどによってりょうけいきんこうしょうじてしまうけいではないのか。

 そもそもつみたいしてほんとうひつようなのは、せいさいこうせいか。

 せいさいりておさめるならばかいしんどころか、さかうらみやいんぺいはおろかこうほうしゅまでをもうながしはしまいか。

 こうせいりておさめるならばむをつみへのばつしょうめつし、がいしゃけいしゅだんもんしゅまねきはしまいか。


 こういった設問に、万人を納得させうる明快な答えを出せた者は、未だ現れていない。


 ただ、この例において言えることがるとすれば、より早い段階でゆるされるほど、よりひどい惨事にまで至らなかったはず、という事だ。

 発端からして、労働力不足で十分にかせげず、備蓄も融通も期待できない。

 そんなようなきゅうじょうならば、働き手確保のために子を次ぎつぎ産み増やしていくより、ほかりようが無かろう。

 ところが、つきとおをもって後のきんなど予測困難なもので、それにより子のうえじぬるをくも困難、きょうこうを見越してぎをくもまた困難。

 だからこそ口減らしという風習が存在したのだし、土地によってはなお現存してすらいる。


 とはいえ、それを見る者の感情としてはしのびなきに尽きるから、可能な事ならば救済されたい。

 そう考え至るも自然だが、はるかそこを過ぎて、揺るがぬ罪と決めつけ。

 そんな事はとんもない、許されぬ事との観念を強いたからこそ、判断を狂わせ、そのかいのみにとらわれ、別件の凶事へと発展した。

 ゆるされないから罪へ走った、しかられるからこそ罪へ走った。

 そういう事になるわけだ。


 神が、人をめるな、ゆるせ。

 そう説くのは優しさなどでし、こういった事を理由としていたはず。

 つみてい不芳かんばしからじょうきょうれば、然様そんものみだりにていては不行いけない、というのはとうな判断のはずだ。

 問題ありとさだめらるる行為であっても、個々の可罰性も考慮せずにしゃく定規の裁きをしていては、かえって世はとどこおってしまうだろう。

 そしてそれは情状をむという、問題へと首を突っ込むなら当然示されるべき、基本的な態度を放棄したからこそ生じる問題なのだ。

 寄り添わないから、戦争が起こるのだ。

 それが道理ではないか。


 しかしながら一部の声の大きい者ども的には、軽微な失態に至るまで、万事が飽くまで成敗されねばならないようだ。

 人を裁くとは、ひとの人生を左右すること。

 きわめて責任重大なこの行為すら、どうも彼らに掛かっては、大義のもとに悪者がっつけられると、がすがしい気分になれる。

 そんな、れんな娯楽に過ぎないものと化すらしい。

 せつ的な満足が最優先で、それをらばその後どうなるのか、という当然考慮されなければならない部分が、っそり抜け落ちているのである。

 どうやら、その不心得のせいで自分もまた問題を生じさせている、戦争の種に火をけては風をあおいでいる、その自覚はまったく無いようだ。

 くどい、度を越しているとはこの事だが、その結果としての現状は、ほうりんばんたいげんる。

 などという、果てしなくゆがみきったものだった。


 そもそもろんばつとは何か。

 それは力に秀でるかんゆうが、手前の気をそこねた者に対し、酸鼻をきわむおぞましきちをほどこして、こう成りたくなくばおれ様に従え、と周囲に見せめ。

 恐怖によって脅しをつけた、真っ当とはとても言えない野卑たる行いが、罰だ。

 説得不能の狂人も実在する以上、ある程度の執行はまあ、避けがたいかもしれない。

 にしても、結局はゆうざいうばい、くはしんたいないそんげんきずつけ、あるいはいたしめようばんこうが、ばつなのである。

 これはどんな言い訳をしたところで、実際にされることの本質が、そのざんこくさが、変わるわけではい。


 一方で、よろしくない行為を罪と定義するのは、その改善をし、より良い社会の形成をうながすところを目的とするもの。

 それが教えやさとしなど、ほかの方法で達成できるのならば、そんな本質的に善くはい、飽くまでむを得ないというだけの必要悪になど、たよる根拠に欠くはず。

 よしんば言って聞かせるが成らず、かたなく及ぶとしたって、どんなとががそこにろうとも、善しからぬはずの虐待をるのだ。

 だったらば、だんざいじっこうにはいた不伴ともなわうそではないか。


 にもかかわらず、その加虐によってっきり良い気分になれる、と言うのであればそんなもの、もはや科罰とえるかすらあやしい。

 他者が苦しむことによって自身が快楽を得るなど、一般に善しからないと考えられている悪行そのものではないか。

 とすればそれは、公益よりも自身の感情を優先した便乗ぎゃく、とでも呼べるような、すべきものでしかなかろう。

 自分が何をっているのか本気でわからないものか、そんなような非道をたしなみながらに、人道を説く。

 こんなようなうそきが、正義をとなえてまない世こそが、このうつなのである。


 野蛮。

 嗚呼あゝ、野蛮だ。


 そう。

 世の中はいろいろと、面倒くさいように出来ている。

 出来てはいるが、しかし世をそうめているのは結局のところ、世に暮らす人びと自身なのだ。

 なさけひと非也ならず、ともう。

 皆が今より、ほんのすこしかんようになるだけで、ここはとても住みやすい場所になるはずなのだが、まあ意のままには成らぬ、というのも世の世たるゆえだ。


 にまったく、世の中は面倒くさいように出来ている。

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