15.面倒 ゠ 罪と罰の正体は何か

15.面倒・前 ゠ 是正と叱責の話

「うん? 何がだ?」


 私のその感想は、少女の予想していたとおり。

 そう言ったところの意味とは何か、そう私が首をひねっていると、やがて少女のほうからその答えが、このようにもたらされた。


「似てる、って思いまして」


「似ている?」


「はい。だからこの話は、単独行動で成果を挙げてきた貴女あなたには、ふつうに通じる。そう思いましたよ。……はい、これはにん


 ──ペラリ。


 そう言って、また次の書類も渡してくるこの少女、こうして独裁をいているらしい様子である。

 確かにある意味、それもまた単独行動、とはえなくないかもしれない。


「……」


 ──トン。スッ、トン。


 判をしながらおもい返す。


 独り者である私が、いくつも問題解決をしてきたのは特段、私に飛び抜けた才覚がそなわっていた、などという御都合主義的な話なんかではい。

 戦士としての腕前ならば、こそこの自負もれど、それだって多対一で面とかわなければ、の話。

 なにより私が、判断違いなどしてあまあすのは、御覧のありさまのとおりだ。


 それでいながらいさおを挙げることがきていたのは、お粗末な話。

 解決へ向け、だれとして動かなかったがために、問題が問題としてそのままそこに残されていた、つまり解決済みでかったから解決できた。

 そんな、非常にほうくさいくつのような話なのだ。

 ただればよかったこと、本当に他のだれが解決していてもよかったはずの事なのに、どういうわけかだれもがそうしなかったゆえ、私が解決するにいたった。

 それだけの事でしかなかったのだ。


 そこに仕事が有ったなら、基本それはだれってもいい。

 だから私としても無論、いろいろ案を上へとていじはした。

 たとえば敵意を持った相手の出方、これを完全には読みきれないにしても、判断の正確性を高めるためにより多く観測をし、より多く情報をあつめる。

 これがせっこうというものの仕事だろう。

 しかしそんな意見に対し、こういった事には高度な判断が必要になるなど、なにやらよくわからない言葉を、並べ立て。

 彼様ああでもい、此様こうでもいと、めるに始終し。

 れんちゅうは、ついに動かなかった。

 これは、しもじもあづかる責任を持った身分としては、なき案でなければ採用するわけには行かない。

 そんなはがねの意志にもとづく英断なのであるが、物はよう、とのことばも有ったもの。

 当てが空振りするなど、不安要素の捨てきれない案を採用したせいで問題が起きてしまった場合に、その責を手前が問われるのは御免こうむりたい。

 そういう保身でしかないのだとも、穿うがってれば受け取れよう。


 私に言わせれば、そのように方針決定でめるのは、判断材料に足りていないから。

 だからまず、自分らにどのような情報が必要なのかを洗い出し、それを実際にしゅうしゅうしてこないことには話が始まらない、という事になる。

 にもかかわらずそれをらないのならば、要は高度な判断とはそういう意味のことばなのだと。

 別段難しくもないことをも至難であると錯覚させて、じんより意に染まぬ介入をさせないがための、かくらんに過ぎないことばなのだと。

 そう私は理解した。

 責よりのがれて何が責任者か、そう疑問を投げ掛けたくもなるが、しかしそんな彼らについても実は、擁護の余地が無いではかった。


 そこに失態あらばあげつらい、そうだたきにする。

 人とはびゅう的なもの、どうしても間違えるものだとうに、そんながらい風潮が、確かに存在するのだ。

 これにより、どうでもいい枝葉末節までがされて、過度に問題視をされてしまうのである。

 指摘をきた者はまあ、たけだかになって得意るものだが、そこにとどめて是正への行動をなんら取らないならば、めてどう改善すべきか具体的に提言しないならば、それはあまりにもひとまかせの極致。

 いや、任せるも任せるで、それ自体はべつに悪くないが、つまり自分がそうるべしとする状態の実現を、他者に肩代わりしてもらうわけだ。

 それならそれで、委任の責と礼節、というものも発生するはずだろう。


 文句をいう資格、との言葉は少女が出したが、不当がそこにるのに文句のひとつも出ないならば、それは不健全としか言いようが無い。

 つまり文句が漏れる自体は正常で、感情たるろんとはそういう物でもある。

 ただしそれが意見たる輿ろんなわち現状に対しこの手法はこんな効果が有る、けれどこんな副作用も有る、それでも差し引きこんな利点が有るがどうだ。

 そういった建設的な提案として、十全に通用すると考えるのは思い上がり。

 願望だけえがいても、計画にまで落とし込まねば、実行へは移せないのだ。

 つまりろん輿ろんもとても、輿ろん当体そのもの不得為たりえず、それ単体ではなんの役にも立たないわけである。

 口出しをする資格、というのが間違いなく存在するもので、つまりはろん輿ろんに、感情を提案にまで昇華させ、かつその発言に責任を負うこと。

 これこそがその最低条件なのであって、だから問題の指摘自体はおおいに結構としても、ただそれを放言するだけなら、偉いどころか単なるいや

 なんら実らせないまま、場の空気を悪くするだけの迷惑な物に過ぎず、だからそんな風潮に大義など無いのだ。


 そこに仕事が有ったのなら、基本それはだれってもいいのと同時に、だれかがらねばならない事でもある。

 ところがどうも、役割というものに固執が持たれており、かんかつ外の問題について看過をしがちで、かつわくみを越えようとする者をもきつとがめんとする。

 そんな風潮もまた存在した。

 もちろん体制など乱されたり、仕事の抱え込みすぎでたんされたりすれば、それはそれで困ったもの。

 だからある程度の線引きを要するし、そのいつだつよろしくないとれる。

 しかし、世の問題のうち少なくない場合、役を乱す不利益よりも、問題を放置するそれのほうが深刻だったりした。

 そしてその問題が、すべての担当のらちがいるならば、ないしらちないの担当に、対応へ乗り出す気配がみられないならば。

 しがらみを越え、らちに甘んずるよりほかに、解決の見込みなど無いだろう。

 だと言うに、やくわりちゅうどくしょうこうぐん、とでも呼ぶべきそれがまかり通り、問題解決のじゃをしているのだ。


 それは例えば、明らかに理不尽な指示なのに、親のいいつけだからと聞き分けてしまう。

 活劇的な生きざまあこがれるのに、女だからとあきらめてしまう。

 本気の恋心であるのに、師弟や主従の関係だからと抑え込んでしまう。

 貧困にあえぐ集落を哀れに思うのに、任務だからと徴税を遂行してしまう。

 そんなふうに、自身の役柄にそのまましたがうはつうせきと認識しながらに、それでも自分はしょせんこういう分際なのだからと、不本意なまましたがってしまうのがそのしょうじょうだ。

 ただこれは世情や、他者からの圧力など、本人にはともしがたい物にも起因する。

 実際には根拠に足りない事だったとしても、無念ながらにまされてしまったりはするだろう。


 しかしこのしょうこうぐんさかにも取られ、もっと面倒くさいしょうじょうをもまたていするのだ。

 挙げてみるなら、しっぺいかかっている者なのに、責任を果たせと働かせる。

 完全にいやっているのに、お前は手前の妻なのだぞと束縛をする。

 そんな必要性など何ひとつ無いのに、弱者やらくしゃはそうれて当然なのだと加虐冷遇をほどこす。

 目の前のごみなど自分ですぐ拾えるのに、目につく役人を捕まえては何とかしろと詰め寄る。

 そんなふうに、役柄にけ込んだり付けばかりに精を出し、荷を他者へ積極的に負わせようとも考え至るのだ。

 それでおもわしい結果を得れない、人を動かせないとなったその果てには、何かがうまく行かぬもすべてはほかだれかのせい、との愚考にまでりんらくしてしまうのである。


 まあ確かに何か問題が有ったとして、それが自分のせいにらない事ならば、文句のひとつも言いたくはなるだろう。

 それでもだれのせいかにらず、どうにかしたいというよっきゅう当体そのものは、はつせたほんにんみがとうしゃのはずだ。

 ならば、そういったものは担当もなにも無く、極力ずから解消されるべきではなかろうか。

 それは是か非かではなく、現実論の話だ。


 つまり、腹は減ったが自分は炊事の当番ではい。

 そんな言い分にどれほどの正当性が有ろうとも、えてしまうならその正しさは役に立たないし、そこに執着しつづけて餓死にまでも至るなら、もう救いようもない愚か者だ。

 決め事のみにこだわって、食事という本題をとおけるなら、それはけて当たり前。

 円滑な社会のいとなみのためには、規定は尊重されるべきとしても、へんこうしてしまえばその最悪には、命までをもおびやかすわけだ。

 要は、役目のさだめが有るならば、役割はすべらくそれによって果たされるべき。

 との主張は飽くまでも、そうであればい、という目標の定義。

 しかし残念ながら、総員これに沿うなど、実際にはり得ないのだ。

 それはなぜか。


 まず人が、何か目標をかかげるのは、それぞれ持たれる理想に応じてのこと。

 ゆえに、何様どんもくひょうせっているがと、かたるにじゅうはなしことを、ひとそうろんぶ。

 もちろん、理想を持たなければ進むべき道にも迷うから、それ自体は否定されるべきではい。

 とはいえ、ただ単に目標だけが提示されたところで、どうすればそれを実現できるのかが、だれにもわからないのだ。

 現存する問題とどうき合えばその目標へと近づくのか、その解法もまたあわせて語られなければ、どんな理想にも到達のしようが無い。

 そして、そのかいほうそをせいろんぶもの。

 俗には、くつがえしようのないくつについてそうったりもするが、そういった命題が真となるくつは真理と呼ぶもので、意見たる論とは違う。

 問題を正面から解決せんとする意見、それこそを正論と呼ぶわけだが、これが提示されないかぎりは総員が理想へ向くことも、また無いのだ。

 だからこそ理想論ということばは、実現できやしないそらごと、という意味でも通用するのである。

 目標をかかげるだけでは不理だめなのだ。


 ところが、正しさとは正当性とは、定義に即すかどうかという話になる。

 ゆえに解法を説く正論よりも、目標を定義する理想論に、こぶって判断されがち。

 つまり逆説的ながら、せいとうせい被認みとまれことは、せいろんことしょう不為しないわけだ。

 語られるべきは結局、役目を果たせ、という目標ではなく、どうすれば役目を果たしてもらえるのか、という解法。

 せいとうせいとは、せきにんしょざいけっていときやく不立たたなもので、問題を解決したいときに出してもかたが無いのである。


 だから仮に、お前の隣人がえている、可哀そうだから何とかしてやれ。

 そういいつけたところで、従う必要性を本人が感じないなら、たとえそんな義務が有ろうとも、それは永遠に果たされないだろう。

 くり返すが善悪ではなく現実論での話、言われる側にとっては名目や大義名分など、他所よそに根拠をもとめる軽薄なもの。

 あまつさえ、手前がこうおもうからお前はそのとおりに動け、との要求に至っては、横柄なわがままの押し付け。

 相手のそんな考えに歩み寄れもしない者が、別のだれかを案じろなど、ただたすらにおこましいごうまん

 可哀そうと思うなら手前でどうにかてやりゃいいだろ、そう言い返されて終わるが精々の、説得力のかけひらもない高慢

 と、人によってはそんな理屈すら、正当と考えるのだ。

 このような者に対し、ただ義務を果たせ、是正せよとだけ言いつづけたところで、どんな成果が挙がろうものか。


 そんなふうに、自身が動かないなら他者もたいてい動かないからこそ、問題は問題としてそこに残される。

 ずから行動しないとは、結局そういう事だ。

 だいたい文句を言いながらだって、手はいくらでも動かせるはず。

 それが自分で処せる事ならば、実際そうしたほうが労力やすく、解決手早いものでもある。

 にもかかわらず、自分の仕事ではい。

 ただそれだけを理由として、に行動しようとしないほか総勢を、だからかたなしに私が代理し処す、というまで行きついたわけだ。

 その結果としてけむられるのならば、私もまあ何のために何をっているのだろうなと、そんな気にはせられないでもい。

 そこで飢えている者に、どうしてしょくを与えたら、責めを受けねばならぬのか。

 あるいはそれに対するほうしょうが、ねたみを買っているのかもしれないが、だとしたらようあつれきものらば、ほうしょうゆうがいそんざい、というわけか。

 やれ。


 なんにしても、だれかへの文句さえとにかく垂れていれば、その事について自身は何もしなくてよい。

 こんなでたらめな暴君思想にがんられている以上は、いちゃもんけられぬよう保身へ走ってしまおうが、それもむなし。

 そう言えなくない部分があまたに有ろう。

 どれほど立派なこころざしたづさえていようとも、詰まらぬいほい失脚させられていては、どんなごとだって達成しうるはずが無い。

 落ち度なきに越したことは無いが、いっさいそれを見せぬ無欠の人物など、世には存在しやしないのだ。

 少しでもあらば交代せまる、そんなやり方はしろ最低に近い、下策中の下策と言えるのである。


 ならばと改善を要求するにしても、怒気をともなっていきいめたてるようなやり方をするならば、ほぼ良い結果にはならない。

 たとえば子がっかりと物を壊してしまい、もしそれを親から隠そうとするならそれは、正直に報告すればしかられてしまう、との経験則からそのかいこころみるもの。

 そして、なぜそのようにしっせきが忌避されるかと言えば、抑圧を受けると人は、正常な精神状態を保てなくなるからだ。

 それでは余計に判断力をそうしつさせてしまう、という事のみならず、さらなる重篤な被害までをももたらす。

 精神のこうじゃくは、身体の衰弱を直接招くのだ。


 その証拠は、いくらでも転がっている。

 たとえばちょうちゃくを受けた、そう強く思い込んだなら、勘違いだったとしてもそこにあざが生じたりする、といった不可思議な話も聞かれるもの。

 そこまで行かなくとも、長きに精神を苦しめられた人や動物は実際、肉体的な責めが無かろうとも、すぼらしく無残な姿に変わり果ててしまう。

 精神のへいが、皮膚や毛髪、五臓やろっなどのこうはいをひき起こしたり、おうしゃふくもよおさせるのは、よく知られていること。

 ほか、ふさぎ込むことによるきょしょくや過食、不眠や過眠や活動減少なども当然に、健康をがいするだろう。

 つまりやまいら、ことばようるにがんってれではく、みに不痍きずつけるなとなのだ。


 なによりゆうを失えば、きっせた極度な後ろ向き、ないしげとげしく寄りがたい性格に、変じたりもするだろう。

 あるいはひとの気にさわるような、いびつな表情やぐさも身について、それが高じれば最悪には、顔付きやこっかくまでをもひしゃげさせる。

 そうやっていんしょうしゅうあくってで、きゅうひつようものほどけい被見捨みすてらちになってしまう。

 ゆえに人や動物は、これは生存上でいちじるしく危険だと、本能的に感じるのだ。

 だからこそ抑圧は忌避されもするし、とおけるためかくに走りもする。

 要するに、しっせきたいそもそきんなのだ。


 しかししかるほうはしかるほうで、しかってやらねば悪い所は直らない、とこれにぜんとした態度でいる。

 無論その理屈は詭怪おかしい。

 失敗を失敗と認識し、再発防止策を講じ、それをじっせんする以外に人の成長などり得ず、その機序にしっせきはいっさいまないからだ。

 まあまあ、だんとして改善をこばんでいる者にならばむなし、ではあるかもしれない。

 だが、その場合でもきょの理由をまずに、相手がまず悪者、という前提で詰め寄ったりすれば、それはいたづらにこじらせるだけだろう。

 間違っていない、あるいはかたなくこの状態にる、もしくは少しずつでも直してはいけまいか。

 そう考えているところを行きなり他者からなじられたら、どう思うか。

 ひとの気も知らないで! と叫ばせて終わるなど、想像にかたくないだろう。

 だったらそこにれ者がいたとしたなら、それはれさせたほうの責任ではないのか。


 なのに間違えれば、何をっているのだとまずしかり。

 そして不注意とはおよそ、認識のによらず制御しがたいもので、なのに再び間違えれば、何度言えばわかるのだとまたしかり。

 そんな事ばかりされていれば、しゅくいやも当然招くに決まっている。

 どころか怒気のともなわぬ、間違いへの純粋な指摘にすらしっせきを想起させられ、じょう反発してしまうようになるだろう。

 なわち間違う自体よりも、それを他者から指摘さるるこそが大問題。

 なわち間違いを素直に認めるなど、愚策。

 なわち失敗を隠し抜かんと、りし結論を固持せんと、そうおもい立ててしまおうが、だれにも責められやしないのではないか。


 要は、しっせきは人を追い詰めるがゆえに、追及の本分を失効せめるのだ。

 しかるから受け止められず、だから失敗は隠され、そのせいで失敗はくり返される。

 当たり前の話だ。

 そも、初めのうちには大抵の者が至極素直、そのうちならば言われるだけで、姿勢を改めることだろう。

 そして、なおそれで失敗を避けれないならば、それは独力では解決し得ない問題なのだ、という事に当然なる。

 ならばその場合に必要なのは、しっ激励ではなくぶんせき介助のはず。

 導かるべきは、失敗してはいけない、という目標ではなく、どうすれば失敗せずに済むのか、という解法のはずだ。


 そこへ、まずしかるが当然と考えるならそれは、単に指導が面倒だからと、全部わかったうえでとぼけているのか。

 それとも自身が、過誤など無いと慢心、あるいは怠慢を働くゆえに、自省という概念を持たない気質だからか。

 っそ、何ひとつ考えておらず、周囲の者がそうだからと、ただならっているだけか。

 正直それくらいしか、しっせきの必要性が支持される理由を思いつけないのだが、だとしたならしかるほうこそが、一方的に落ち度あるように思えてならない。

 しっせきは人を害する、とのちゅうを受けても耳すら貸さないのなら、そちらのほうがよっぽど邪悪にまみれているはないか。

 あるいはそのような連中相手だったらば、しっせきも禁じ得ないか、とは思うものの。


 情けない。

 この事について、私の感想はそれに尽きた。

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