14.連中・中 ゠ 横暴と傲慢の話

 たとえば結論に固執して、そこへ至る前提をろころ変えたりするような連中が、どれだけることか。


 極端な場合を挙げるとするなら、英気を養うために湖へ立ち寄る。

 へいした兵たちの、慰労のためにそう決めて進んだはずが、そこには敵が潜んでいる可能性が有る、と指摘されたとたん、敵をらすために湖へ立ち寄る。

 そんなふうにひるがえされたりするのは初中後しょっちゅうだ。

 無論これは、湖へ立ち寄るという目標に違いが無いだけで、慰労という目的としては完全にぎゃくのこと。

 しかしどうやら、れんちゅうにとって肝要であるのは、自身の決め事がそのとおりに進行することのみ。

 その理由など……英気を養う必要のある部隊に、戦闘をさせた結果などもはや、どうでもいいらしい。

 手段と目的がと簡単に逆転するどころか、敵の掃討を果たせば休養はかなうのだから、約束をたがえるわけではい。

 そんな、言わないほうがな説明付けまでが、しゃあしゃあされたりもした。


 こうまでさんさいはいを、されてしまえば皆だって当然、その怒気もいんぱくようこんの底よりほっし、その怒髪はすさぜて天をく、というところまで至る。

 しかし実際には、上からの指示になど、そむくわけにも行くまい。

 それでその皆が、無理にがんって何とかしてしまうせいで、問題がけんざい化しないどころかしろ、手柄にすら成ってたたえられてしまったりする。

 結果、皆が無理をするのが当たり前、というよろしくない気運へ、んどんかたむいていってしまっているのだ。


 ところが、人がっとも効率よく背負える荷物など、実は全力の三割程度に過ぎないもの。

 単純な話、限度を超えたらば疲労がふつうに蓄積し、当然のごとく普段どおりにどうできなくなるからだ。

 だから筋力にしたって、火急の場をのぞいては、三分の二ほどが普段から休眠している。

 作業能率にしたって、毎日のどう時間が日の三分の一をただ超えるだけで、途端に急低下してしまう。

 本当に当たり前なのだが、人には一定の休息時間が必要であるのだし、常態的に全力どうをさせても、やはりならない。

 れきじょうこうせきのこしたものひといちばいやすみ、ねむったけいこうる、とだって聞かれる。

 だと言うに連中はどうも、全力を出させたらば出させただけ、長時間働かせたらば働かせただけ作業はしんちょくするもの、人は成長するもの。

 そんななぞの信仰に御執心であるらしく、しかしこれが完全に逆効果である所がもう、どうにもしがたかった。


 そんなふうに、決め事の理由がどれほどいい加減だったとして、だがこれを改めさせるは、至難の業。

 どういうわけかその彼ら、相手のその様子から心理状態を読みとるかいせき能力が、またそれに応じて相手の弱点をつく言葉のけんさく速度までもが、異様に高かったりする事が多いのだ。

 そして、その能力を駆使するなどして他者へ対し優位に立ち、これを積極的にあやつろうとする気質をも、そなえていたりするのである。


 まあそのような連中、どうも共感性というものをいちじるしく欠落させ、それにより良心を、極端に希薄なものとする傾向にあるようだ。

 もし、他者の気にさわることがまったく気にならないならば、その挙動のつぶさを冷静に無遠慮に観察でき、かいせき材料がよくるいせきするだろう。

 また、ひとの内心が思考に介在しないならば、つねに自身の内心のみが思考を支配し、少女のった自意識というものも、じょうほんとうするだろう。

 それに、人目やきたりにとらわれておもうようにふるまえない、そんな人らを共感性なしにながめたらば、見下したくなるような愚かしい姿にも映るだろうし、その影響で高慢な性分へも至るだろう。

 くわえて、そうやって他者への遠慮が発生しないならば、これを侵すにも抵抗を感じないだろうし、だったらばとうとおのがさまのために、いように操縦してやろうともおもつだろう。

 そんなふうに、非行に対する罪悪感を感じないならば、目的のために手段だってえらばなかろうし、それがふつうに反復試行されたならふつうにこなれ、そういった能力がふつうに獲得されるもの、とは思われる。


 共感性の欠如こそ横暴の根源。

 そんな至極当然なくつを、そのまま体現するような性格ならば、他者との健全な関係など築けるはずが無い。

 つまりはきょうかんせいけつぼうしょうこうぐん、とも呼べるもの。

 これにかんした者は、自身で涙することは有ってももらい涙をすることは無く、至って無慈悲な生きざまてっするのだ。

 ゆえに、聴こえのいいまんというものを矢継ぎ早にち出し、周囲を閉口させるような事を次ぎつぎと、も呼吸でもするかのように平然とってのけるのである。

 これは手に負えない。


 たとえば会議において、他者から気にわない意見を出されたらば、その案がうまく行かなければ全部お前の責任だぞ、などといいつける。

 これには発案者も、確かに自分が言い出したと乗せられてしまうし、それはその場でのけんせいにもなれば、決議ののち問題へ発展した場合に責任のがれの口実にもなる。

 しかし、決議さるならどうろうとも独断でし、の意見を差しきながらに共同でれと決定したわけだから、その責は全員で負うがとうなはず。

 ところが逆に、自身が発案者である場合には、あつましくもそう主張するのだ。

 それもこれも尊大な態度で、最強の案だの採用しなければ大損失だの、自説を持ちあげては大きな声により語り。

 もしくは他者の意見を、わいしょうだの確然ぜったいに失敗するだの、ろくもないものとして強くべつするにくわえ。

 実績もないくせに、失敗の前科があるくせに。

 議員としての自覚はどうしたか、いまらずしていつるか。

 そんなふうに人格をおとしめては、あおことばまでもが追い含められるものだから、くつや正当性とは関係ない部分で、場は制圧される。


 まったくうまいやり方だ。

 相手のきょうや、責任感を圧迫するのがそのじょうとう手段だが、無論そんなものは意見の正否に、いっさいの関係が無い。

 つまり少女がうところの、うそだ。

 だがその内容によらず、落ち度らしいところを強く追及されれば、人はそれで弱腰になってしまう。

 あまつさえ、そんな話は関係ないと反論しようが、関係ないわけ無いだろう! と根拠も示さずごうするわけだ。

 すると、そうまで自信満々にきゅうだんするのなら、あるいは一理も有るのでは、と見る者の疑惑をよく誘う。

 ひるがえって、怒鳴られたほうとしては大抵が、ふつうにたまて不穏になるだろうに、それでしゅくした姿などみられようものなら、その指摘は的確だったと。

 ちょっと突っ込まれただけでひよる程度の、るに足らない主張だったと、そんなしへと至る。

 それは最終的に、指摘者は有能、発案者は無能と、事実てんとう逆相然あべこべいんしょうとして定着するのだ。

 関係ないわけが無い、と大声で叫んだその根拠が、まったく示されていないにもかかわらず、である。


 しかもこの評価は、めっくつがえらない。

 被害者が精神的にへこまされて、これをうったえ出ないからだ。

 やっかいなことに、人は追い詰められているその最中で、何かを強く断定的に言われると、それをそのまま受容してしまう性質を持つ。

 これは、判断力をそうしつさせられたせいで起こるもの。

 だから仮に弱っているとき、不理だめな意見しか言えないお前は拙為だめな奴だ、そう言われたらば本当に自分は拙為だめだと思い込み、さらなるしょうすいを招くのである。

 そこへ一転、おれが導いてやる、守ってやるからもう大丈夫などと、甘言を垂らされれば頭から信じ込み、もうもく的に依存してしまう。

 実はこれこそ、洗脳の手口のひとつ。

 人は、自身を苦境から救ってくれそうな存在にすがってしまうだから、そんな状態へ追い込めば操作も容易、というわけだ。

 よってそこへ、様子が畸怪おかしいとみた他者が事情を聴取しようとも、き込まれたまんのほか、へいによる考えのまとまらなさ、自身の供述がなお否定的に追及されるかもしれない

 そんな感じのものにじゃされて、十分な証言は得られない。

 ゆえに大抵の場合、真っ当なことを言えていたかもしれない被害者は、それをくじかれたまま泣き寝入りに終わるのだ。


 そんな、人心の性質を巧みに利用しての、相手をるそのやり口は、きわめて卓越したものと言わざるを得ない。

 無論、表情を読むのにけているのだから、相手をおだてるもまた造作ないようだ。

 だから事情を知らぬ者がこれを見れば、理想高くて自信もあふるる飛びきりらつわんな魅力ある奇才、要するにかっこういい人物として映る。

 くよくふりかえれば、そういう人物はろくないさおも挙げていないことが多いのだが、そんな表面上の姿に、まずだまされ。

 それにより得られたかりそめの階位にも、まただまされ。

 すでに乗せられた、周囲の者たちからも畳んでかさねてだまされて、何だかんだで人はいいように操作されるのである。


 ざといとは、まさにこのこと。

 そのひとさばきのさまをるかぎりでは、けっして頭も悪くないはずとは思うが、それにしては畸怪おかしなことに、発言の整合性がどうにもうかがえない。

 まあそれは、ただ相手をり込めるためだけにことばえらんでいれば、そんな結果にもなろう。

 ひどい場合には、アンディレアがしていたあの黄金きんの小隊長のように、直前の発言とすら矛盾。

 冷静に評価されたらば、全然その場に沿わない無効な主張ではないかと、そう周囲に理解されようはずの、支離滅裂なことばだらけ。

 しかしそれら個々単体は、まさに少女と挙げ合った布教のことばのように、ながら聴こえだけは大変良い。

 くわえて対面においては、即時性がもとめられもする。

 んざん心をぐらつかされた状態では、ろくに検証も追いつかず、場の勢いでけむに巻かれてしまうのだ。


 だが、そのようなおじょう者は実際、即時性が絡まず、言外で威迫する手管も成立しない、筆談という場においてはからし弱い場合が多い。

 発言に整合性が無いのだから、論述で弱いのもまあ当然だが、それでのらくらりとこれを避けようとするものか。

 話し合いは相手の顔の見える状況でなければ難しい。

 決断にはじんそくさが肝心。

 そういうことばがまた、よくち出される。


 そう挙げられたところで、しかし少女の言葉のとおりだ。

 言い負かし合いたる、討論の場でし。

 出し抜き合いたる、こうしょうの場でし。

 け合いたる、おしゃべりの場でし。

 おぎない合いたる議論の場であるかぎり、変わらず重要なのは意見そのもの。

 表情や態度などはしろ、論考を乱す要素でしかない。

 ましてひゃくぶんいっけん不如しかず、意見は文面のほうが伝達精度が高いし、くわえて図示などをあわせれば、整理やぶんせきも容易になろう。

 なにより人がちついて考えていれるのは、自身が簡単におびやかされない状況に限られる。

 正しい解を求めたいなら筆談こそって付けであり、こばむ理由など無いはずなのだ。

 無論、曲解によりて会話を崩壊せめるは、いくらでも可能。

 だがその事情は、口談でもなんら変わらないどころか、会話の経緯が記録としてのこらないぶん、もっとひどい事態へとおちいるだろう。

 だからこそ重要な会議ではおよそ、こまかな発言までが議事録に収められるのだ。


 また、きゅうてい被令されるはおうおうきんきゅうあらず。

 言い出した者がただ短気なだけか、ちついて考えるゆうを与えまいとする悪意によるもので、その期限にれっきとした根拠が無い場合が多いもの。

 ひとはんだんしっぱいりつこうかんはんれいるゆえ、いくら他方でせっそくたっとぶべしとわれていようとも、それが適応する状況などいちじるしく限定される。

 どころか、いわんや間違いの許されない局面であるほど、そんな考え方は採用できない。

 どんなに遅くとも構わない、とはかろうも、多くの場合には短慮な判断をけ、保留というものをておくほうが、ずっと有効な選択となりるのだ。


 とまあ、判断の正確性を求めるならば自然、こんな結論になろう。

 つまりは結局この両方ともが、聴こえのいいまんでしかなかった。

 そしてここまでそろえば、連中のその能力のぜんぼうは、知れるというもの。


 なわち彼ら、ただ対面において相手を威圧するのが得意なだけなのだ。

 そしてそれを利用して、理を尽くせないという自らの弱点から、たすら逃げまわっているに過ぎないのである。

 そう、横暴とは要するに逃げなのであり、逃げを打つには弱みがそこに有るからなのだ。


 とすると、対面でなければ話し合いは難しいとは、じんそくさが肝心であることも含めて、彼らにとっては本当の事なのかもしれない。

 だとすればなんともらしい、そんなものは問題解決に対して臨むべき姿勢などではなく、彼らが好き勝手にふるまえるうてへの、単なる誘導でしかないわけだ。

 そんなものを紹介されたところで、浅ましきかな、としか言えなかろう。


 んだ絲瓜へちゃくれであったものだ。

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