4.腐敗・中 ゠ 強弱と血液の話

「……」


 ふと、アンディレアのことをおもい出す。

 あれは、何なのだろうな。

 どうしてうとむどころか、あんなになつかれてしまったか。

 私にくみしても、なんの得も無いだろうに。

 いやしろ、不利益のほうが多いのでは。


 まあそれを言うなら私も、彼女から不利益をうむっているのかもしれない。

 まえにいついかつにも、彼女の長い金髪をめてみたら、あなたのくりも伸ばせばれいなはずだからと、なんの権限あってか散髪禁止を言い渡され。

 そうして私の髪はいま、背中のなかをも覆い隠すまでと、い成ってしまっており。

 うっとうしいし、暑い。

 手入れも面倒だ。


 ああもう、切りたい。

 刈り上げたい。


 ──ふう。


 め息も漏れである。


 いやまあそんな禁止令、律儀に守る義務ももちろん無いのだが。

 そうすれば彼女はちねちと、つこくめてくるに決まっている。

 なんとなく、破る気にもならなかった。


 そうそれ、そういえばその、アンディレアである。

 争いを基本好まず、普段は穏やかなあの彼女が、どうして戦いの場においてはそのふるいを、あららせてしまうのか。

 実は私には、その察しがついている。

 それは、こういった旅への同行を彼女に求めることがきない、最極いちばんの理由でもあった。


 あれはおそらく、虚勢なのだ。

 自覚がるものかどうかは、わからないが。


 どうもアンディレアは、その肉体のきょうじんさに反し、精神にはややもろい部分を宿しているらしい。

 つまり争いごとをきらったり、ああして私のことを気にける、なわちひとの消息にこころのあんねいを依存するなど、そのあらわれなのではないかと。

 その弱い部分を、気概のみでおぎなわんとする結果、肝心の場面でたけり狂って相手を威圧し、自らの弱点をかせまいと。

 そうして自身のもろさを、隠しおおせようとするに至るのではないかと、そう私は考えるのだ。

 これは彼女のみにとどまらず、しんの弱き者、すべてに共通するところだろう。

 悪い言葉を引用するならば、弱い犬ほどよくる、そうわれるそれでもあった。


 もちろん、そういったかくに成功しつづけるかぎり、確かにその弱さはけっしてていしない。

 だからただちにそれが、まづい姿勢だとまでは言えないだろう。

 だいたい、戦地でのアンディレアと言ったならそれはもう、獣王もかくとばかりの叫声と、狂気にすらまる豪絶なじん

 これによりたすら、その場をじゅうりんするものだ。

 相手からしてみればあんなもの、もはやこの世のあらず、とでもったところに違いない。

 見ていて正直、敵が可哀そうになってきたりもする。


 とはいえ、これを本当の意味で強いとうべきか、弱いとうべきか。

 そこは微妙なところだ。

 そしてこれは、私の感覚で言うならば、を圧倒する力さえ有していればかならずしも強い、という事にはならないのではないか。

 そう思うのは、そんな事では本当のという場合、簡単に折れ果てやしまいか、といったあやさをはらむからだ。

 実際、相手に何をれようと、周囲に何を言われようと、状況に対して自分のきることが、急に増減するわけではい。

 そう割りってしまっている私のような者には、そんなかくなどとんど通用しないものでもある。

 正直、なにかえているが、だからどうした。

 そんな程度の感想を、せいぜい持つくらいだ。


 つまり自分で言うのもなんだが、だから私はアンディレアよりも、おそらく強い。

 まあそれも単純に、かくは私には通用しない、というだけの話。

 くり返すが万事同様、万能の手法などどこにも存在せず、結局は相手や状況による、という話に過ぎないだろう。


 いずれにしても、そんなような人物には成るべく、それこそ危ないことなどにいってほしくはい。

 単なるわがままに過ぎないであろうが、それが彼女に対する、私の内心でのおもいだった。


 しかしそうすると、ひとを気にけることで自らの気の静穏をはかる。

 それは私も、同じなのだろうか。

 そして思いりとは、利他主義とは愛他主義とは、結局は自己満足やら自己保全、利己主義的なものに過ぎないのだろうか。

 だったらば利他など、単に弱さをはらむだけの、余計な物でしかないのか。

 そういう事であるなら、本当の強さとはひとをまったくにも掛けず、意にも介さないこと。

 なわち、孤立する事なのであろうか。


 もし本当にそうならば、孤高こそが至上であるならば、そんな強さなどいやだと、そんなものは要らないと私は思う。

 それが幸福などけっしてもたらさないと、だれよりも知っているつもりだ。

 だいたい孤独である者など、群れが敵に回ればおよそ敗れるのだから、そんなものが最強であるはずが無い。

 それに根本的なところで、そうやって強い弱いを判定できたとして、だからどうした。

 それこそ、そんな感想へちついて終わったりはしないか。

 能力が基準たり得ないなら、それは果たしてほかの何かの足掛かりにでも、なってくれるものだろうか。


 そして、アンディレアが気にけてくれることで、私の心が救われるのならそれは、彼女がその弱さによって私を救った、という事ではないか。

 だとすれば、つよきがくにあたもので、よわきがくをもとものながよわきがらば、すなわよわきもつよき。

 そんな定義すら、可能にならないか。

 であれば一体、強さとは、もそも何か。

 話を単純化するなら、強いか弱いかはやはり相手と場合による、という事なのだろうが、だったらば強き者とは弱き者とは結局、どういう事か。


 頭の中が愚茶ぐちゃだ。

 自分が何のために何について考えているのかすら、もはやわからない。

 つまり、私はなのだろう。


 だから私は、考えるのをやめた。


 まあそんなような、り留めのない思考をする間にも、馬の歩みは着々と進んでいる。

 しかしそれにしては、小麦畑が続くばかりで、民家がかなか見えてこない。

 と言うよりこれは、集落とはちがう方向へ来てしまっただろうか。

 基本的に農村の道というものは、家と家、そして農地や牧地や水場、それから村外。

 これらをつなぐ物でしかないはずで、だから辿たどっていれば何かへ行き当たるだろう。

 そう見込んでいたのだが、どうにも周囲の木々の密度が、こゆくなってきている。


 馬もすがら、使ってしまった。

 そろそろ休ませるべきだろう。


 そう判断し、適当なところで馬を降りると、野宿を決めこむ。

 べつに、する事はそれほど無い。

 馬からくらをおろし、そのからだを冷やさないよう汗をかるくぬぐい落としてやったあと、荷をまくらにしてべたで寝るだけである。

 ここは人里近いから、獣けの火は無用だろうし、この馬だってつながなくとも、勝手に理由なく離れていったりしない。

 すぐそこに丁度よく、用水路も通されているし、草だってふんだんに生えている。

 粗略てきとうにそれをみ、粗略てきとうのどうるわしたあと、粗略てきとうに眠りにくだろう。


 そう、軍馬はかしこい。

 まあ順序としては、まずかしこい馬が、のちに軍馬として育成されるのではあるが、さてき。

 このように粗略てきとうな感じであつかってやれば、こうもそれを察して、こちらをいい加減にあつかってくれる。

 人と交わるたぐいであれば、ただ複雑に考えないというだけで、動物の思考など人のそれと、だいたい同じ。

 乱暴にあつかうは当然論外にしても、んまりていちょうあつかいすぎても良くない。

 甘っ垂れて言うことを聞かなくなったり、逆にぼねを折って疲れてしまったりするからだ。

 だからこれくらいの距離感で、丁度いい。

 これなら……たとえば何か有って、私とはぐれる事になってしまった場合でも、に待っていたりせずに、どこか適当な場所へと向かってくれたりする。


「お疲れ様」


 ──バルルッ。


 馬は、ちょうど私のその言葉に応えるかのように、ひときした。

 それを聴きつつ、すぐ近くの木のもとに、そべる。


 その姿勢について、寝転んでしまってはというときおくれをとると、野宿の際には木のみきなどに、もたれて寝る者も少なくない。

 だが、本当にきわい奇襲でも受けたなら、半身起こしていようがおくれはとるように思う。

 だいいち私は、それでは休めない。


 そも、人のからだなど休憩さえれれば、いくらでもえるはず。

 なのに、なおかつすいみんまでをももとめるのは、頭脳もまた安めて、精神をやすためだと考えられる。

 そして眠る際、なぜ人はその身をよこえるのか。

 そう考えたとき、思い浮かぶのはもちろん血液であり、これはからだみずみまでをめぐるもの。

 ゆえにようと活力を全身にとどけ、各部位の疲労を取り去るのだとわれる。

 かつこれは、立ち上がれば頭部から退き、倒立すれば昇るわけだが、横になった状態であればおそらく、丁度いいぐあいにめぐるのに違いない。

 まあ真っ平らだと、頭に昇りすぎるからその調整のために、まくらもまた用いるのだろうが、ともあれ。

 立ったままでは眠った気がしないのも、精神力がよく回復しないのも、きっとそんな理由なのだろう。


 なお話が少々飛ぶが、しゃけつとよばれる風習が最近になって、登場してきた。

 血はようを運ぶとともに、各部位から疲労を取り去ることで毒素もまた運ぶ、とれており、それは私もきっとそうだとは思う。

 しかし、だれがそんなことを言い出したかは知らないが、だから腕あたりを切り、そこから一定量の血液をしゃしゅつさせることで、病状の改善、健康の増進が得られる。

 そんななぞの説が、語られ始めたのだ。


 実際のところ、人体の機序はさほど解明されておらず、何がどう作用するかもっきりとはしていない。

 だからどんな療法も、とりあえずってみる、という所から始まるものではある。

 しかし、たとえ毒物を飲み込んだとして、致死性のそれでなければ時とともに持ち直すわけだ。

 だったら人の肉体には、もそも解毒機能がそなわっている、そう考えるのが自然ではないか。

 どころか、せっかくのようまでをもて去ってしまうだろうし、むしろがいするのでは。

 そうとも疑われるもので、なのに皆で好んで流血しては悦に浸っているわけだ。

 一体これはどうとらえたものだろうなあ、というふうになまあたたかい目で、見守ってはいた。

 本人の気が済むならそれでいいのかもしれないが、そのまま押し付けられると言うのであれば、さすがにかんべん願いたい。


 もっともそんな、血液がどうのという話をち出すまでもなく、私はどうも夢見のわるい傾向にるらしい。

 あまり深い眠りへと、ち果たせたためしが無かったわけだ。

 ゆえに眠るとは、寝転ぶもの。

 これ択一の私にとって、その際の姿勢をどうするかなど、無縁な話だった。

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