シロクロたかちゃん
青井栄
第1話
シロクロたかちゃん
「もしもし、野良猫に餌をやるのはやめませんか、近所から苦情が出てるんです」
「わしの勝手じゃろうが、わしゃあのう、こいつらが腹空かせとるのを見るとがまんできんのじゃ」
「猫の嫌いな人もおられますけえのう」
「そんな奴ァ人間じゃあない」
「そう言われましても」
「つべこべ抜かすなあ、警官じゃいうて許さんど、まあ、ええわ、今日はこれくらいにしといちゃるわい」
普段は無口で無類におとなしく、シロクロたかちゃんと呼ばれて付近の住人から親しまれているこの男、猫のことで何か言われようものなら、人が変わったように怒り狂う。
田辺孝雄、五十一歳、十代で殺人未遂事件を起こし、少年院に入った経歴の持ち主。
高校から帰ったとき、かわいがっていた飼い猫のシロが、目の前で保健所から派遣された猫取り男に獲られるのを目撃した。駆けつけたときは、シロはすでに死んでいるらしく、ぐったりしており、男がオートバイの後ろの座席に積んだ箱に入れるところだった。シロは誰にでも抱かれるおとなしい猫だったので、手もなく殺られたらしい。
何メートルか離れたところでもう一匹のクロが、聞いたこともない異様なうめき声を上げている。
「こんないつぁ、何するんじゃ!」と孝雄は男に掴みかかり、オートバイごと押し倒した。箱はまだ蓋の鍵がかけられておらず、シロの他に二匹の猫の死体がころがり出た。
男は小柄だったので、組み伏せられたまま、抵抗もせず、恐怖と謝罪がない混ぜになった、なんともいいようのない目で孝雄の顔を見上げている。
「孝雄さん、やめんさい」と叫びながら、男の首を絞めにかかっている孝雄の体を後ろから羽交い締めをするように抱きかかえたのは継母の真千子だった。
「わけがあるんじゃけえ、やめんさい」と叫んでから、「すみません、今日は帰ってください」と男に言った。
その夜、父の孝太郎が、その「わけ」を説明した。
真千子は生来、猫が嫌いであった。しかも前妻の稔子がかわいがっていたのを知っていただけに、よけい、この二匹を嫌った。その気持が手に取るようにわかるため、孝雄は真千子を憎んだ。
病弱だった稔子は、死の半年くらい前から寝込むことが多く、飼っていた秋田犬は世話が大変なため人手に渡し、シロとクロは孝雄が面倒を見た。
二匹の名付け親は孝雄だった。二匹は兄弟であったのか、いっしょに庭にいるところを孝雄が見つけて飼い始めたのである。シロは長い尻尾を除いて全身真っ白だったのでシロと名付け、尻尾が十センチ足らずと短い和猫のクロは、白黒まだらだったが黒い部分が広かったのでクロと名付けた。シロは和毛で手触りがしっとりとしておとなしく、クロはややこわい毛並みでやんちゃだった。二匹とも寝るときは孝雄のベッドでいっしょに眠り、どちらかが孝雄の胸の上に横たわったりするので、孝雄は、重さのあまり息苦しくて目が覚めることがよくあった。
孝太郎は、このままだと新しく迎えた真千子が家を出ていかないとも限らないと思い、機嫌を取るため、孝雄の同意を得られる自信もないまま、二匹の猫を猫好きの姉夫婦に引き取ってもらおうと相談した。色好い返事がもらえれば、引き取ってもらうつもりになっていたが、返事が来る前に真千子が勝手に保健所へ処分の申し込みををした。
シロとクロは、孝雄にとって、死んだ稔子の身代わりだった。
稔子は、孝太郎が家族の反対を押し切って嫁にもらったことから、親類じゅうから嫌われていた。そのため、通夜の帰りに孝太郎を除いた親族の間で後添えの話が出た。もちろんこのことは、再婚後も孝雄には伏せられたままだったが、感受性の強い孝雄は感づいていた。しかも孝太郎の義妹が通夜の直後に後添えの話が出たのを快く思わず、帰宅後、娘の陽子がいる前で、夫と激しく言い争った。孝太郎の再婚後しばらく経ってからだったが、稔子にかわいがられていた陽子が、秘密の話じゃけど、と前置きをして、そのことを孝雄に告げたため、孝雄は稔子の実家の戸田の家に入り浸るようになった。田辺の親類筋に対しても心を閉ざすようになり、真千子の実家、町田家へは一度も顔を出したことがない。
孝太郎はもちろんすべてを話したわけではないが、孝雄は聞きながらブルブル震えていた。と思う間もなく、いきなり立ち上がると、台所へ向かった。戻ったときには片手に包丁が握られていた。
「わりゃあ、殺しちゃる!」
と言うなり、真千子の脇腹を刺し、そのまま家を飛び出していった。
行くあてもなく、公園の公衆便所に潜んでいたところを警官に見つかり、パトカーで本署へ連行された。
一命を取り留めはしたものの重症を負った真千子は、救急車で救急病院へ搬送され、手術をして、そのまま入院、退院後も実家へ帰ったまま、田辺の家へは戻らず、半年後、離婚の話が出た。孝太郎は引き止めることもせず、離婚に応じ、世間体を慮って引っ越しをした。引っ越しをするときに残った一匹のクロも連れていき、孝雄だと思って大事に育てた。
孝雄は、少年鑑別所から少年院へ送致され、十八歳を迎える直前に退院した。
孝雄は、県内でも一二位を競う進学校に通っていた神童の誉れ高い少年だったが、退院後、引越し後の自宅へ戻ったものの、事件を起こしたことに対する反省はまったくしなかった。
それどころか、口に出しはしなかったものの、真千子を殺し切れなかったことを悔いていた。
それと関係があったかどうかはわからないが、結婚するつもりはまったくなく、孝太郎も勧めることはしなかった。
自分も猫好きであった孝太郎は、孝雄の気持ちがわからないでもなく、真千子に気を遣うあまり、子の気持を理解してやらなかった親としての後悔の気持ちもあって、事件のことには口を閉ざしたまま、ふたりは、はたから見ると不思議なほど仲良く暮らした。
そうした二人の暮らしは、七年ほど続いた後、孝太郎の交通事故死によって突然の終りを迎えた。それから間もなく、クロも天寿を全うし、動物霊園で火葬に付してもらった。
先祖から受け継いだ土地と莫大な財産を相続することになった孝雄は、墓から稔子と孝太郎の骨壷を取り出し、二人とクロの遺骨を小さなケースに詰めて、お守りのようにして肌身離さず持ち歩いた。シロの遺骨も一緒に入れてやりたかったのだが、激怒のあまり、シロの亡きがらを取り返せなかったことが悔やまれてならなかった。
仕事にはつかなかったが、贅沢三昧の暮らしをするわけでもなかったので、相続した預貯金が尽きてからも、借地借家の家賃収入で不自由することもなく暮らしていけた。猫と犬を二匹ずつ飼って、それぞれシロとクロと名付け、それ以外にも熱帯魚とオウムを数羽、庭には生け簀を掘って上に金網を張って金魚を飼った。孝太郎の死後はほとんど家を空けることはなかったが、年に一度くらいは気晴らしに旅行に出かけた。そういうときは、親類筋でただ一人心を許してくれ、動物好きでもあった従妹の陽子が世話を引き受けてくれた。
公園などで餌を目当てに集まってくる猫は、どの猫もシロかクロと呼んでかわいがった。世間体を憚って孝太郎が、事件直後に引っ越しをしたこともあって、昔の事件のことが人の口に上ることもなくなり、いつの間にか、孝雄はシロクロたかちゃんと親しみを込めて呼ばれるようになった。
趣味といえる趣味はなかった。読書好きで色々な本を書店から取り寄せて読んだり、事件を起こす前にはまっていたロックを聴くことが趣味と言えば言える程度だった。インストルメンタルナンバーが好きでシャドウズとベンチャーズがお気に入りだったが、プレスリーなどのボーカルも好きで、出かけるときはいつもそれらの曲をiPodに保存してヘッドホンで聴いていた。
いつものようにベンチに腰掛けているのを見かけた警官が、
「もしもし、野良猫に餌をやるのはやめませんか」と言いかけたとき、何かの異変に気づいた。
ひざに餌袋を載せたままうなだれているのだが、まわりを取り囲んでいる猫の鳴き声がいつもとは違う。ねだっているというよりは、誰かに何か異常を訴えているような鳴き方である。
警官は
「もしもし、田辺さん、どうかしましたか」
と言いながら、肩に手をかけてから、さっと引くと、再びやさしくその手を載せた。
ヘッドホンからはエルヴィス・プレスリーの「オールド・シェップ」が、エンドレスで流れていた。
プレスリーは子どものころからこの歌が好きで、よく歌った。小学校の講堂で児童たちを前に何度も歌った、十歳の時には担任の先生に勧められて、ミシシッピー州テュペロの町で催されたアマチュア・タレント・コンテストで歌い、二等賞を獲得した。その時は背が低くてマイクに届かず、椅子に上って歌ったという。
実話に基づいて書かれた歌詞のあらましは、少年ジムが子犬の頃からかわいがっていたシェパード犬シェップが、隣人に毒を盛られ、次第に衰弱していく。ある日、獣医から、もう手の施しようがない、と告げられると、ジムは震える手でピストルをつかみ、シェップの頭にねらいをつける。シェップは信頼しきった目でやさしくジムの顔を見つめ、そばに来て見上げてから、膝の上に首を載せる。ジムはシェップの頭をなでるが、その顔は涙で見えない。
その後、引き鉄を引いたのかどうかは語られず、シェップは天国で楽しく暮らしているんだ、とジムが信じているところで曲は終わる。
エンドレスで聴いていた孝雄は、シェップとシロを重ね合わせていたのかもしれない。 ジム、おまえ、引き鉄、引いたんか? 引かんかったんか? わしなら、毒盛ったやつを撃っちゃる、膝に首載せとるシェップを撃ったら、自分の膝が危ないわい、じゃけえ、撃たんかったんじゃろう? のお、違うか?
シロクロたかちゃん 青井栄 @septimius
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