第23話 花咲く噂話

 ウィクトリオサとの話が終わると、フェリクスは総門前の商店通りで生花とお供えの菓子、火を付けた練香を両手一杯に買い込み、オルクス・フロレウス神殿の丘の裏側へ行く参道へ足を向けた。


 神殿裏手の丘の斜面は、庭園墓地になっている。


 美しく彫刻を施された大小の墓碑が立ち並ぶその庭は、ちょうど花盛りであった。

 樹木は緑豊かに繁茂して、庭園の道に程よい影を落としている。

 歩みを進めるたび、薔薇に山査子サンザシ紫丁香花ライラックなどの花々が日の光を受けて鮮やかに目に映る。

 自生の芥子や撫子があちこちで群生している。

 墓地によく植えられている水仙は花が終わり、青々と葉だけを茂らせていた。


 時折、植物をすっかり取り払ってひらけている場所もあり、そういう所はまだ劣化のない石碑の立つ真新しい墓だった。


 庭園全体は丘の地形を活かして段状に設えられている。

 最上部中央にはよく整備された見事な噴水があり、近くを流れる川から汲み上げられた水は地下神を祀る人工洞窟グロッタ小神祠ニンファエウムから流れ出て半円形の水盤に落ちる。

 そこから溢れた水はまた幕を成す滝となって、ざわざわと音を立てながら次の段の水盤へと集められる。


 上の段から下の段まで、様々な趣向を凝らした人工の小さな滝は幾重にもなって丘を流れ落ちていく。

 飛沫に濡れて生える苔や羊歯が、植物と人工物の境界を曖昧にしながら両者の輪郭を繋いでいる。


 この墓地で憩う死者の魂の安寧のために、庭園は美しく整えられているのだ。

 打ち捨てられた墓地ほど不気味なものはないが、ここは人の手の行き届いた死者の庭であるので、墓参者だけでなく単純に楽しみのために散歩している人たちも沢山いた。

 こうした無関係な観光客たちが装飾を凝らした墓標を感嘆の眼差しで眺めることもまた死者の霊を慰めるのである。


 何処かで大道芸人が観光客のために音楽を奏でているのが聞こえてくる。

 こうした興行も、神々や精霊を喜ばせ、死者の魂を宥めることだろう。


 フェリクスが足を止めたのは、丘の斜面に穿たれるように建てられた小さな廟と、死者を道案内する精霊たちの姿の彫られた流麗な墓碑の前だった。


 この墓の主、ミステリユーズ夫人が葬られてもう8年ほど経つという。


 フェリクスは花と香を墓前に置き、蜂蜜の菓子を綺麗に積み上げ、次いで柔らかい草の上に跪いて、手のひらを空に向けて祈る。


「正しく天地あめつちを分かち生ける者と死す者導く秩序の神々に拝跪して奏上奉ります。この奥つ城の主もし人の世にありて彷徨えるならばこれを憐み、これに常しえの安寧を賜び給いますよう、多幸なる精霊となりしこのひとを清らなる浄福の秩序にいます御身らのもとに迎え給いますよう」


 たまたま通りがかった散歩者が感心したような顔を見せて、後ろの方でこっそり立ち止まり、一緒になって両手を天に向けた。

 抑揚美しい祈りの言葉は明らかに素人のものとは違った。


 フェリクスは祈りを終えた後もしばらくは地面に膝を付いたまま、額を冷たい石碑に預けて、おそらく祈祷文のような形式的な言葉ではなく、墓の主に小さく何かを囁きかけて、それからようやく立ち上がった。


 ◇◇◇◆◇◇◇


 宮廷へ参内するのは、2週間後と決まった。


 その間、人の家に居候してぶらぶらしているのも落ち着かないので、ロシェはウィクトリオサに頼んでオルクス・フロレウス神殿で研修させて貰うことにした。

 そういう訳で、祭主という身分は隠し、末端の神官達と共に下働きや事務方の仕事を経験することとなった。


 大規模な神殿で働くのは初めてだ。

 修行中はニウェウス師匠と2人きりだったし、スラジア神殿付きの祭主になってからはフェリクスが来るまで1人だった。

 おそらくは、大抵の神官はこのような大きな神殿で経験を積むのが普通なのだ。


 その日の仕事を終えたあとで、ロシェは図書室へ行ってウィクトリオサの楽譜を新しい紙に写す作業をしていた。


「ちゃんと私のタブ譜書き写してるのね、嬉しいわ」


 すると、たまたま本を返しに来たウィクトリオサに後ろから声を掛けけられた。


「例の古代琴曲集は早速フェリクスが買ってくれたんだ」


 ただ肝心のリュートが無いのが少し惜しい。

 実際に曲にさわれるのはもう少し後になりそうだ。

 そうウィクトリオサに漏らすと、


「王都にいる間は私の楽器を1つ貸してあげる。練習する暇くらいあるでしょ。デシデリウスのところへ届けさせるわね」

「ええっ、何から何までそんな」

「いいの、いいの。ペトルス様可愛いし」


 また可愛いと言われてしまった。

 育ちも悪く傭兵上がりの自分に可愛い要素などある訳がない。


「……王国人にとって角の無い男って、どう見えてるんだ? 俺は洞角ほらづのの民じゃないからその辺の感覚が全く分からないんだ」


 ロシェは王国人から大分若く見積もられるし、柔弱な印象を与えているらしいことも感じられる。

 傭兵時代は険のある目付きだと評されたりしたものだが。


 自分の見た目への評価は幼かろうが可愛かろうが別に何でもいいのだが、気になるのはフェリクスだ。

 彼は同胞たちから一体どんな眼差しを受けているのだろう。

 もしかしたら結構な優男に見えるのではないだろうか。


 素直にウィクトリオサに疑問をぶつけてみると、彼女は肩を竦めて答えた。


「フェリクスは、正直男には見えないわね」

「そ、そんなにか」

「かと言って女にも見えないけど」


 ウィクトリオサは、フェリクスには秘密よ、と付け加えた。


 ロシェなら異民族と分かるような外見をしているが、フェリクスはどこにでもよくいるような普通の王国人の顔をして角が無いのだから、とても混乱するのだという。

 何にせよ殆ど真っ当な男だとは思われていないようだ。


 王国人の男性で、もし生まれつき角が短かく生まれでもしたら、見た目だけで男らしくないと強烈な偏見の中で生きざるを得ないのだろう。


「ペトルス様は、研修生として下っ端仕事を手伝ってもらってるけど、虐められてない? 大丈夫?」


 ウィクトリオサはロシェの目を覗き込んだ。

 彼女の瞳は王国人らしい赤みの強い飴色だ。


 彼女は彼女ですっかり幼い子供を心配するような口調になっている。


「異民族もいるんだから角の有無で人を蔑んではいけない、と教えてはいるんだけど、まだ物の道理が分からない子もいるから。教育が行き届いていなくて申し訳ないわね」

「まあ、大丈夫だ」


 実は、最初の3日で3人から嫌がらせを受けた。

 初めは相手にしていなかったのだが、どんどん調子に乗って増長していくので、結局拳で対抗した方が早いと、物理的に叩きのめしてしまった。


 もちろん、私闘決闘は禁じられている。

 しかし、相手はきゃんきゃん吠えるただの粋がった若い神官だ。

 3人同時に相手して全員あっさり体術で倒してしまったので、周りからは却って一目置かれることとなった。

 角が無いからといって舐めてはいけない、と若人の教育になれば幸いである。


「フェリクスといえば、デシデリウスの診療所を手伝っているのよね。期間限定とはいえ、またあのコンビが復活するのね」

「また?」

「角を無くしたフェリクスを介抱したのがデシデリウスなの」


 そういえばディディエはフェリクスの命の恩人だとも言っていた。


「聞く話によれば、明け方に診療所の扉を叩く音がして、戸を開けたらそこに角を折って血まみれのフェリクスが倒れていたそうよ」


 そのような状況に至るまでの顛末は、ウィクトリオサは知らなかった。

 1度フェリクス本人に、その身に何が起こったのか尋ねてはみたが、首を振ってよく覚えていないと言うだけだった。


「怪我が治ってもしばらくは公に姿を見せなかったフェリクスだけど、代わりにデシデリウスのところで呪術師として働いていたのよ。評判は良かったわ」

「フェリクスにも、もぐりみたいな時期があったんだな」


 フロレウス王子が亡くなったあと、ナスケンティウス王の治世になっても宮廷で副祭主を勤めていたフェリクスだったが、結局その怪我がきっかけで宮廷から去った。


「俺はその辺りの話は、尾鰭の付きまくった伝聞で何となく知ってるだけなんだ」


 だが、それはウィクトリオサもあまり変わらないようだ。


 おそらくは、彼の角を折ったのは政敵の誰かだろうと言われている。

 ゴシップ紙は概ね決闘の結果だと書き立てたが、実際のところは分からない。

 彼の身に本当は何があったのか、ロシェは他人事ながら多いに気になっていた。


 これは完全に単なる覗き趣味だ。

 その自覚はある。


 しかしフェリクス本人があまり深堀りされたくない雰囲気を醸し出しているので、自分の下世話な欲望にはいつも蓋をしていた。


「事件当時はニウェウス師匠がフェリクスの新聞記事を読んでるのを横目で見ただけだったし」

「えっ、ニウェウス師匠って、白岩山羊シロイワヤギのニウェウス様?」

「多分そのニウェウス様だと思う」

「あの孤高のニウェウス様がお弟子を取ったと噂になってたけど、貴方だったの」


 ウィクトリオサは軽く目を見開いた。


 フェリクスはニウェウス師匠は兄弟子にあたると言及していたが、フェリクスとウィクトリオサは同門で、つまりウィクトリオサにとってもニウェウス師匠は兄弟子ということになる。


「やっぱりペトルス様は凄いのね。ニウェウス様の直弟子なんて貴方だけよ」


 確かに師匠と遍歴していたとき、他に弟子はいなかったし、弟子を名乗る者と会うこともなかった。

 しかし弟子が過去に1人もいないとは思っていなかった。

 孤高の人ではあったが、決して孤独な人ではなかったからだ。

 各地に知り合いがいて、夕食に招かれるとか、宿を提供されるとか、資金援助を受けるとかはしょっちゅうあった。


 過去にニウェウスに弟子入りを志願する者はしばしばいたが、その都度断っていたらしい。

 彼は組織的な神官団に属していながら、同時に距離を取りたがってもいた。

 そうした神官団とは何の繋がりもないロシェだからこそ、弟子に迎えてくれたのかも知れない。


「ま、その辺の甘ったれ神官見習いがニウェウス様に付いていけるとは思えないわね。フェリクスが貴方に一目置くのも分かる気がするわ」


 ウィクトリオサは1人で納得したように何度か頷いた。


「フェリクスもニウェウス様の弟子入り志願者だったのよ。多分、一番最初の」


 ニウェウスが所属の神官団を離れるとき、フェリクスは自分も連れて行ってくれるよう願い出たらしい。

 もちろん即座に断られ、フェリクスも追い縋って無理やり一緒に出奔してしまうこともなかった。

 家格やしきたりで雁字搦めにされた若者が抱く、未知なる無頼の生活への憧れだけで、その程度の覚悟だったといえばそれまでである。


「ニウェウス様もフェリクスのような世襲的な祭祀貴族の出なの。組織を離れなければ、ひょっとしたら総裁になる未来もあったかも知れないほどの家系よ」


 総裁職は血筋に関係なく選挙で決められるのだが、実質は多数決の票を集められる力の強い貴族が牛耳ることとなる。

 ニウェウスもそうした一族の三男であった。


 まだ幼いフェリクスとは立場も近くて、人柄も穏やかでよく懐かれていたそうだ。

 一族の期待を背負い厳しく躾けられるフェリクスに対して、実の弟のように何かと可愛がっていた。


「知らなかった。何でそんな身分を捨ててニウェウス師匠って雲水行脚してるんだろな」


 彼はロシェに進んで出自を明らかにすることはなかった。

 ロシェの方は、興味本位で何度か師匠本人の個人的なことを尋ねたこともあったが、その都度はぐらかされてしまった。

 結局、師匠は師匠以外の何者でもない。


「私も知らないけれど。ニウェウス様は、他の神官を殺してしまったのではないか、なんて言う人が結構いるわ」


 それで神官団と距離を置くようになった、と専らの噂だ。


 きっと、人身御供の密儀だ。

 ロシェは直感的に憶測した。

 だがそれが正しかったとしても、密儀の内容は秘匿されており、当然そんなことは誰も口外しないから、事実が明るみに出ることは決してないだろう。


「と、まるで全部見てきたように言っちゃったけど、私も半分は人から聞いた話よ」


 話好き噂好きのウィクトリオサは手をひらひらと振って、愛嬌たっぷりに微笑んだ。


「さて、すっかり話し込んでしまったわね。今度、傭兵だったペトルス様がニウェウス様に弟子入りするお話を是非聞かせて頂戴。それじゃあ、また」


 ロシェも色々と話を聞かせてくれたお礼に身の上話をしてあげよう、と心に決めて、この日はウィクトリオサと別れた。

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