第22話 オルクス・フロレウス神殿

 神殿業務の引継ぎや諸々の準備を終えて、ロシェとフェリクスが王都フロルトドールに赴いたのは、第5の月の頭になってからだった。


 歩けば7日余りの道のりを、徒歩を嫌がったフェリクスの要求もあって、駅馬車を乗り継ぎ5日ほどで到着した。

 当然、徒歩よりも旅費が高額になるが、結局は後で公費として精算される予定だ。


 コルディニア王国のほぼ中央にあり、王宮を要するフロルトドールは歴史ある古都でもある。

 都市として大きく発展し、かつて防衛施設だった市壁は最早用をなさず、壁の外側にも家屋が広がっている。


 駅馬車は旧市壁の南門が終点だった。


 車箱から降り立てば、そこはもう賑やかな都会で、目抜き通りを行き交う種々の物売りたちの売り声が響く。

 右に左に荷馬車を引く馬や驢馬の蹄がひっきりなしに石畳の道を叩く。

 道行く身なりの良い人たちは男も女も思い思いに身を飾り、誰1人同じような服を着ているものはいない。

 2階、3階建ての建物で暗くなった狭い路地の裏にも人々の活発な気配を感じる。


 冥界の穴が首都直下に出現した、という不安な様子は少しも認められなかった。


 王都では都下にあるディディエの館に居候することで話がついていた。


 フェリクスが一時的に王都に滞在するときは、いつも自分の家のように使わせて貰っているらしい。

 まさに勝手知ったる他人の家という訳だ。


 王都に着いて早速ディディエの館に行くと、幸い家主本人は在宅であった。

 再会の挨拶もそこそこに、渡り廊下で繋がった別棟の客室に通された。


 中庭に面して明るく快適な部屋だった。

 白を基調とした粋な当世風の装飾が壁面に軽快な陰影を作り、寝台、書き物机と椅子といった家具は様式が全て統一されて、家主の趣味の良さが見て取れる。


 この部屋をそれぞれ自由に使ってよいとのことだ。


 到着したその日はそのまま出掛けず部屋で休息して旅の疲れを取った。


 翌日、ディディエと共に邸宅を出て、都心へ向かう。

 ディディエは診察のため、3日おきにこの本宅と都心の診療所を往復しているのだそうだ。この日は診療所の出勤日だった。


「我々は、まずはオルクス神殿に行きましょう」


 今のフェリクスには宮廷との直接の繋がりがない。

 そのためオルクス神殿に仲立ちして貰う必要があった。

 宮廷と、一組織の単なる成員たる僧侶個人の間を取り持つのも王都にある神殿の役割だ。

 特に、両者の関係性があまり良好でない場合は、とても有効である。


 王都フロルトドールのオルクス神殿は、都心に近い西側の丘の上にある。

 一般には他の数多あるオルクス神殿と区別して『オルクス・フロレウス神殿』と呼ばれている。

 なお、これが故フロレウス王子の名付けの元となった。


 ロシェがここを訪れるのは、4、5年ぶりだ。そのときは各地を遍歴中のニウェウス師匠と一緒だった。


 流石に首都の神殿だけあって境内はとても広い。

 その神域は丘全体に及び、麓には低い石垣が巡らされて聖俗の境界を成している。

 入口となる総門は大きなアーチを描き、その両側には、これも大きな有翼犬の青銅像が番犬のように両手を揃え畏まって座っていた。


 ロシェたちは門をくぐって左右に数件ずつ商店の並ぶ緩やかな坂を上る。

 沢山の行楽客たちの往来するのを縫って、まずはお参りのため、大伽藍のある本殿に登る道を直進した。


 しばらく行くと高い回廊の外面に突き当たる。

 アーチ状の開口部を通って中に入れば、回廊に囲われた3つの前庭と3つの小拝殿がある。

 そのさらに奥、すなわち丘の頂上には、本殿の大伽藍が聳えていた。


「疑似二重周柱式の本殿と、前庭を囲む二重の列柱回廊がきちんと均整を取って接続されていて、いつもながら素晴らしいですね」


 フェリクスが横からそんな感想を述べるが、ロシェには専門用語の意味がよく分からず、生返事をして右から左へ流してしまった。


 大伽藍の前庭では、特別な祝日でもないのに、1頭の大きな牛が解体までされてちょうど焼かれているところだった。

 花で美しく装飾された祭壇には牛の血を納めた壺が置かれている。

 大型犠牲獣の解体そのものは、神殿外れの専門の場所で別途専門の儀式を伴って行われるのだそうだ。


 スラジア神殿とは違って、ここでは信者からの生け贄が絶えることはない。

 毎日のように何件も犠牲式が行われているのだ。


「はー、やっぱり都会は違うな」


 ロシェは犠牲の牛を焼く香木と香辛料の芳しく匂う聖なる煙を遠慮なく堪能しながら感嘆の声を上げた。

 牛の寄進者たちが中央の特別な席で跪いて祈祷しているのを、無関係な一般参拝者が幾重にも囲んで一緒に祈る。

 規模も人数も大きく、華やかであった。


「スラジア神殿にはスラジア神殿の良いところがありますけどね」


 それはロシェも同意する。

 オルクス・フロレウス神殿の犠牲式は派手で豪奢だが組織的で、言ってしまえば流れ作業的だ。

 一方、スラジア神殿はほのぼのとして素朴で、その分祭主と参加者と、そして神々との距離が近いような気もするのだ。 


 2人は二重回廊を進み、大伽藍の内陣で純金製の造花で飾られた見上げるほどのオルクス座像に参拝を済ました。


 それからまた来た道を途中まで戻って今度は参拝者のための宿泊所や事務棟など関連諸施設のある区域に向かう。


 手前の信者向けの様々な施設を抜け、一番奥の神官たちの詰め所へ、迷わず足を運ぶフェリクスにロシェは付いていく。

 そこは神殿運営のための庶務をこなす神官たちが働く建物で、一般参拝者が立ち入る場所ではなかった。 


 入口前に立つ警備の神官の1人に、フェリクスが一通の紹介状を渡した。


「総務長のウィクトリオサ女史に取り次いで下さい」

「スラジア神殿祭主のペトルス様、にフェリクス様……?」


 警備員は、角の無い僧侶の訪問者に戸惑っているようだ。

 総務長に用事があるようなそれなりの地位の聖職者といえば、ほぼ王国人に決まっているのだ。

 むしろ、僧服を着てはいるものの、本物の僧侶かどうかさえ怪しんでいる素振りを見せる。

 もしウィクトリオサ女史本人からの紹介状が無かったら、確実に門前払いを食っていた。


 取り敢えずは暫し待つよう言われたが、それから長い間、警備員が奥に引っ込んだまま帰ってこない。


 ぼんやりと何もしないまま2人して戸口に立っていると、ようやく中から女性の高い声が聞こえてきた。


 姿を現したのは、短く尖った羚羊カモシカの角を持つ小柄な女性だった。

 目元は柔らかで一見大人しそうだが、身振りは大きく活力に富み、かつ堂々として、ある種の雄々しさをも感じられた。


「ウィクトリオサ。お久しぶりです」


 フェリクスが胸に手をあて片足を引いて膝を深く折り、女史よりも身を低く屈める。

 いつもながらロシェには本当に気障な仕草に見える。

 ロシェもフェリクスに倣ってほぼ同じ礼をしたが、王国の女性相手にするのは少しだけ気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。


「お帰りなさい、フェリクス。待たせてしまって悪かったわね」

「問題ありません。こちらがスラジア祭主のペトルス様です」


 そうフェリクスがロシェを紹介すると、ウィクトリオサと共に戻ってきていた警備の神官が露骨に驚く顔をした。


「えっ、ペトルス様ってこんなに可愛らしい方だったの!?」


 ウィクトリオサにも意外だったようだ。

 そしてその返答にロシェも内心で愕然とする。

 可愛いとは初めて言われた。


「ええ。角が無いので一瞬まるで二十歳にもならない少年のようにも見えますが、祭主に相応しい大変有能な神官ですよ」


 フェリクスにもそんな風に見えていたとは。

 この様子だと10歳くらいは平気で若く見積もられているかも知れない。


 ウィクトリオサの計らいで事務棟の中に招き入れられる。

 エントランスホールを抜け、各部屋で忙しく立ち働く神官たちを横目に垣間見ながら、明るく開放的なアトリウムを突っ切り、さらに幾つかの部屋と廊下を通り、一番奥にある総務長の執務室へと案内された。


「さて、いよいよセスピナ山の神託に行くのね。貴方たちの王都到着を宮廷に知らせるわ」


 ウィクトリオサが机に向かい、何かを書き取りながら告げる。

 彼女は既に神託伺いにロシェとフェリクスに白羽の矢が立った事情を知っているようだ。


「おそらく宮廷からの招待状は1、2週間後くらいになると思う」

「お願いします」


 いつもの曖昧な微笑を伴ってフェリクスが答える。

 が、いつにも増して貼り付いたようや表情で、少し嫌そうだ。


「今回もデシデリウス宅に泊っているの? 招待状はそこに送らせれば良いかしら」

「はい、お願いします」

「後でナトニからここまでの旅費も精算してね。それと王都の滞在費用も適宜お願い。宮廷に請求するから」

「はい」

「セスピナ山出発前にまたここに寄って頂戴。旅費の現金と小切手を渡すわ」

「承知しました」


 ウィクトリオサは余計な話は挟まずにきびきびと事務手続きを進めていく。

 それに対してフェリクスも最低限の相槌を短く打つ。


「困ったことがあったら言ってね。他に何かある?」

「業務に関係のないことですが」


 淀みなく話すウィクトリオサにフェリクスが手を上げる。

 ウィクトリオサは首を傾げて彼の次の句を待った。


「ウィクトリオサは確かリュートを結構やりましたよね?」

「あら、貴方が興味を持つなんて、一体どうしたの」


 フェリクスの音楽に対する無教養は彼女にもしっかり認識されているようだ。


「ペトルス様もリュートを弾くので、僕が前に楽譜を贈ったのですが、間違えて鍵盤クラヴサン譜を買ってしまって」


 何か良いリュート譜を彼のために見繕ってくれないか、とフェリクス。


「楽譜なら図書室に色々あるわ。案内してあげる」

「ああ、なるほど……」


 フェリクスは図書室自体は何度も利用したことがあったが、楽譜の存在に気付いていなかったようだ。

 とことん音楽への興味が薄い男だ。


「フェリクスはよくそれで音楽課の試験通ったわよね」

「及第点は貰っていますよ」


 言うまでもなく刻苦勉励で乗り切ったのだろう。


「学校って音楽の授業なんかあるんだ」

「人体が小宇宙なら、音楽は人為的に調和を作り出す疑似宇宙なの」


 だから世界の調和を知るために、音楽も僧侶にとっては大切な素養だ。

 とされるのだが、フェリクスを見ていると、世界の秩序の調和と不調和を感じら取れるからといって、現実の楽器が出来る訳ではないし、逆もまた然りで、実は相関関係は全く無いような気もしてくる。


「ペトルス様は学校に行っていないの?」

「俺は元々傭兵団に拾われた孤児だったんだ」

「まあ、それで祭主様にまで上り詰めたというの? その若さで? ペトルス様って本当に凄いのね」


 思わぬところできらきらと尊敬の目を向けられてしまう。


「俺は実力というより運と言うか成り行きで……」

「オルクス神がそうなるよう望んだのでしょう」


 フェリクスが微笑を浮かべてロシェの語尾を遮る。


「それにしても、学校にも行かないでリュートが弾けるというのも中々ですね」


 習っても音楽の基礎が結局身についていないフェリクスとは対照的だ。

 が、多分これは褒め言葉ではなく、嫌味だ。

 リュートを弾く暇があるなら、学校も通えるはずだ、と言いたいのだろう。


「平和なときは幸い暇を持て余すこともあったんだ。そんなとき宮廷音楽家だったと名乗る流しのリュート弾きがちょくちょく傭兵団のところへやってきて、それっぽい弾き方とか楽譜の読み方とか習ったもんだ」


 元宮廷音楽家というのは実のところ話を盛っていたかも知れない。

 ただ出鱈目に弾く傭兵団の荒くれ共よりはずっと技巧的にも上手だと思えたし、弾き方は合理的で、同じ楽器でも出す音の質が違った、とロシェは思う。


 そのような事を話しながら、ウィクトリオサと共に事務棟に併設されている図書室に行った。


 ウィクトリオサは迷わず楽譜が沢山収まっている棚に向かい、やはりそれほど探すこともなく、簡素な表紙のつけられた冊子本を取り出す。


「フェリクスが間違えたやつの原曲が沢山あるタブ譜がこれね」

「お、手書きだ」

「わたしが別のところから書き写したの。ペトルス様も写すといいわよ」


 名曲ばかりよ、とウィクトリオサが胸を張る。

 それから彼女はまた別の一冊を棚から抜いた。


「こっちの楽譜はおすすめね。比較的新しいから、写す手間を省きたいなら、まだ普通に印刷譜が売っていると思う」

「――『リュートのための古代琴曲集』?」


 ロシェは題字を読み上げる。

 そういえば古代琴が最近流行っているとナトニで出会った大道芸人も言っていた。


「近年、儀式でしか使わないような古代風の竪琴を、音量や音域を改良したものが開発されたのよ」


 なかなか趣味があると新型楽器の評価は上々で、いくつかこの楽器のためのモダンな曲も作曲されていて、それをリュートでも弾けるよう編曲したものがこの楽譜だという。


 作曲者は不明だが、素朴で味わい深く、技巧は簡素で素人にも覚えやすく人気になった。失われた過去への憧憬と哀惜、現在への仄かな幻滅が混じって、憂鬱にして甘美な曲集だ、とウィクトリオサ。


「特に人気が高いのが――」


 丁々発止のウィクトリオサが、突如はっとして口ごもる。

 そしてちらりとフェリクスを見遣った。

 彼はこちらの話題には興味なさげに別の棚を眺めていた。


 ウィクトリオサは黙って楽譜のページを捲ると、1つの題名を黙ってとんとんと指さした。


「へえ、追悼曲トンボー――」


 ロシェも音読しかけて慌てて止めた。

 ウィクトリオサの指先に書かれていた文字は、


神秘的な追悼曲トンボー・ミステリユー


 亡くなったフェリクスの奥方の名を連想する曲名だった。


「古代琴といえば、古代琴を抱えて古代風の服を着てパフォーマンスする大道芸人が最近ちょくちょく神殿にやってくるわね。運が良ければ会えるかも」


 あのスラジアの丘で出会った大道芸人かも知れない。

 ロシェは古い友人の便りを聞いたように、何となく嬉しくなった。

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