第21話 古代の調べ

 翌日は雲一つなく晴れた。

 雨に洗われて空気は澄み、湿った大気が遠くの景色を青く滲ませている。

 頬に吹く微風は厳冬期の冷たさだが、これから日も高くなろうかという時刻になれば、太陽の光が大地をじんわりと暖め始めるだろう。


 フェリクスはおそらく夜遅くまで飲むつもりで午前中の休暇を願い出ていた。

 今日は昼食を友人たちと取ってから登殿してくるだろう。


 彼がいない代わりに、スラジア神殿には偶然5、6人の参拝者の姿があった。

 各々が祈りを捧げたり、おしゃべりをしたり、景色を楽しんだりして束の間を過ごしていた。


 そんな中、一風変わった男が表参道をゆっくり登ってやってきた。


 防寒用の袖のない外套の下に、紫がかった濃灰色の大きな一枚布をまるで古代人のように体に巻いている。

 その顔は若者か中年か、全く判断出来ない年齢不詳で、伸ばした白髪混じりの黒髪はぼさぼさのまま整えることもせず、真鍮片やビーズの髪飾りをを垂らしている。

 足元は脚絆を革紐で編み上げるようにして留めて、全体で古代調の演劇のような空想的な雰囲気だ。

 そして大きな、これまた古代調の竪琴を抱えていた。

 竪琴の腕木は細長いゆるく湾曲した羚羊レイヨウの角で出来ていた。


 参拝者たちは全員謎の“古代人”に目が釘付けになった。

 ロシェも含めて、皆で彼は何者なのか問うため、誰が一番に話し掛けるか目配せをしあう。


 だが先に口を開いたのは、一同の視線に気付いた古代人の方だった。


「卑しき大道芸人はお邪魔かな」


 落ち着いた良い声であった。


「これは失礼をした。もちろん誰でも歓迎する」


 ロシェは祭主として男に頭を下げる。


「何というか、あまりに本格的な服装で、本物の古代人が来たかと思って驚いた」


 もっとも本物の古代人は見たことがないし、考古学的に大道芸人のような出で立ちなのかは知らないが。


「たまたまこの近くを通りかかって、いかにもわたしの衣装に似合う素敵な景色だったから登ってきたみたのさ」


 大道芸人は飄々として答えた。


「小さいが、均斉の取れた良い神殿建築だ。精霊の楽しけな気配もする。良いところだね」


 その姿で竪琴を持ち古風な円形神殿の前に立つと、まるで1枚の絵が現実になったかのようであった。


 大道芸人は神殿に上がる。

 それから竪琴をいったん床に置き、きちんと膝を曲げて身を屈めてから両手を天に向けて堂内の神々の像に祈りを捧げた。そしてまた竪琴を携えて神室から出てきた。

 いちいちの動作が絵になって、演劇を見ているようで目に楽しい。


 観客の感嘆の眼差しに気をよくしたのか、大道芸人は高らかに声を上げた。


「それではここにおわす神々と精霊たちに歌を捧げましょう。皆々様もご清聴あれ」


 大道芸人は冷たい神殿のきざはしに腰かけて竪琴を構え、弦を指ではじく。

 音色は素朴で独特の雑音さわりがあり、それが何とも情感豊かである。

 現代の楽器に比べると音量は小さい。

 しかし街の喧噪も無いスラジアの丘の上では、十分大きく響いた。


 竪琴のあえかな音を聞き漏らすまいと聴衆たちはお喋りを止めてしんと静まりかえった。


 楽士が竪琴に合わせて滔々と歌う。曲は古えの調べかどうかは知らないが、たしかに古風な趣きだ。


「いざ、オルクス神を讃め歌おう。死者の世と生者の世を正しく分かつ厳粛なるオルクスを。にえ憐れむ神よ、死者の世をしろしめす神よ、あなたがいかにその努めを果たしたか、この歌い手の舌に語らしめよ。


 日に夜に秩序の運行を守るオルクスの元に、ある日水に溺れてある乙女の魂が降った。乙女は愛と命育むウィニタリス神の神官だった。


 この乙女こそウィニタリスのお気に入り。

 ウィニタリスは多いに悲しみ、自ら冥土へ赴くと、死の安寧にあった乙女の魂を連れ去り、再び己が神官として侍らせた。


 乙女を連れ去ったその跡は、秩序に大きな穴が空いてしまった。

 秩序守るべき神ウィニタリス自らが己が欲望のまま秩序を乱すとはけしからぬ。

 領土を荒らされて怒るオルクスは、ウィニタリスの振る舞いに物申すため、破れた秩序はそのままに、自らの勤めたる世界の調律を止めてしまった。


 かくして世界は乱れた。


 綻びた世界のあちらこちらで混沌の穴が空いた。

 死者は気ままに生者の世に返り、生者は突然生きたまま死者となった。秩序の円環は回らなくなった。


 万の水仙を供えても、千の白鳥を捧げても、百の仔牛を屠っても、オルクスを宥めることは出来なかった。


 ウィニタリスの神官たちは、十人の若い神官の血を灌ぐことに決めた。

 彼らが胸を刃物で裂いて冥穴に身を投げようとしたとき、遂にオルクスは生け贄どもを憐れみ、冥界の穴を塞ぎ、命を助けた。


 それを聞いた他の地の神官たちは、各々あちこちに空いた冥穴にこぞって人身御供を捧げようとするので、オルクスは過ぎたる血灌にすっかり閉口して、ようやく自らの仕事を再開した。


 かくして世界は調った。


 以来、今この時も正しく秩序を律するオルクスに誉れあれ。

 にえ憐れむ神よ、死者の世をしろしめす神よ、汝を讃め歌う我らにも安寧を賜びますよう」


 歌い終わると参拝者たちは大変感銘を受けた様子で、大いに喜んで大道芸人にお捻りを渡した。


 ロシェも何か渡してやりたい気持ちになったが、この場で直ぐに金銭を持っている訳でもなく、これと言ったものが思い付かない。

 正直に芸人にそう告げると大道芸人は遠慮せず、自ら欲しいものを指し示した。


「ならばこの神庭に生えるザクロの枝をいただきましょう」


 すっかり葉を落とした枝を切って与えると、彼はそれで冠を作って頭に飾った。

 すると本当に何かの神像が生きて動き出したかのような姿になった。

 この芸人は自分の見た目が、観客にどのような感興を呼び起こすか、おそらく熟知している。


「このところ王都フロルトドールでは、この古代琴がちょっとした流行になっているそうで、だから王都まで出稼ぎに行ってみようかと思ってね」

「王都か……旅の安寧を祈る」


 昨日の王都から来た人と、今日の王都へ行く人と、面白い符合だとロシェは思った。

 もしロシェが王都に行ったなら、またこの古代人に会えるだろうか。


 大道芸人を丘の上で見送りながら、スラジアの森の女神ラシルヴァの新しい祭りに音楽を使うのも悪くない、と心密かにロシェは思ったのだった。


 ◇◇◇◆◇◇◇


 2日後、朝から春のような暖かさの日の昼下り、ロシェは夢占いを決行してみることにした。


 暖かい日とはいえ、まだ寒さの最も厳しい時期だ。

 生け贄を捧げた後、潔斎のためほとんど裸になって神殿裏手の井戸水を頭から被ると、あっという間に体が冷えて歯の根が合わなくなった。


 隣に立つフェリクスが心の底から同情の籠もった目をして、体を覆うほどの大きな厚手の麻布を渡してくれた。


「見ている方が寒くなるような、かなり野蛮……いえ、野趣に富んだ禊ですね」


 僕なら湯浴みにする、と呆れた顔を見せる。


 ロシェが体を拭いて黒い僧服トゥニカに袖を通したところで、フェリクスの私物の高級そうなふわふわの羊皮の外套を着せられる。

 さらに差し出された生姜と香辛料入りの温かい葡萄酒を飲めば、どうにか腹の中側からぽかぽかしてくる。


 それから、ラシルヴァの森の聖域、倒木の根本へ行き午睡を取る。

 火種とよく乾いた薪を持って行き、火を焚いて暖を取りつつ、藁かごで保温した葡萄酒を飲みながら毛皮に包まっていると、酒精の力もあって直ぐに眠くなってくる。

 うっかり寝入ると凍死しかねないので、フェリクスも付き添い、良い頃合いで起こしてもらうのだ。


 ロシェがそうしてうとうとしていると、森の奥から大きな鹿が現れた。それは幾重にも枝分かれした角を持っていたが、片方は抜けてしまっていた。


 鹿は大人しく、近寄ると少し逃げたが、追いかければあっさり素手で捕まえることが出来た。

 これはラシルヴァ神への生け贄に捧げよう、と思って倒木の舞台まで連れて行った。


 そこで、ロシェは一瞬だけ迷った。

 犠牲獣に角のある生き物を用いる場合は、その角に傷や欠けの無いものを選ぶこと、というニウェウス師匠とフェリクスの言葉を思い出す。

 この鹿の角は片方は完璧だ。だが片方は無い。


 しかしロシェはどうにもこの鹿を殺したいという暴力的な衝動が抑えられず、地面に押さえつけて首をナイフで掻き切ってしまった。

 温かい血が勢いよく噴き出す。

 と見る間に鹿は雪像が溶けるように形が崩れ、一方で翼が生えてきた。


 一旦作りかけの粘土像のように不明瞭な姿になった鹿だった生き物は、大きな犬に変化して首をもたげる。

 オルクス神のシンボル、有翼犬だ。


 べおん……と後ろから幽玄な竪琴の音が聞こえた。

 振り向けば、オルクス讃歌を歌った古代人風の大道芸人がいた。

 彼は竪琴の音で唸り声をあげる有翼犬を宥めると、ロシェの脇を通ってそれに跨る。

 犬は翼を広げて飛び立ち、北西の方角、つまり王都に向けて去って行った。


「ロシェ、そろそろ起きて」


 頭の上からフェリクスの声がして、ロシェはびくりと体を震わせた。


「どうでした?」


 すかさず質問を投げるフェリクスに、ロシェは今見た夢を忘れないうちに話す。

 フェリクスは聞きながら手帳に書き取っていった。


「結局どうなんだろう、これ。悪夢とは感じなかったが」

「僕は占いは得手ではないので、3人くらいの専門家に占って貰いましょう。ナトニに誰かいますか」

「まずはトニトゥルア神殿の卜占官、それから街で評判の占い婆さん、あとは夢占いが得意な呪術師のおっさんだな」


 さっそく街を回って彼らに意見を求めたところ、全員オルクス神がロシェを王都に招いており、この土地のラシルヴァ女神はそれを許すだろう、と判じた。


「という訳で、俺も王都に行く。何年振りだろう、久々だな」

「とはいえ留守の間はどうします? 誰かにスラジア神殿を預けるあてはありますか?」


 折よくロシェには1人心当たりがあった。

 最近、度々スラジア神殿を参拝するトニトゥルア神官がいて、いつの間にか来るたびにお互いよく話すようになった。

 思えば、彼と顔見知りになったのも、この時のための何か神々の采配だったのかも知れない。


「トニトゥルア神官だがなかなか骨のある奴で、そいつに任せようと思う」

「居ない間に乗っ取られたりして」

「万が一そうなったら、フェリクス得意の政治的圧力で何とかしてくれ」

「おや、上司ボスも有能な部下の使い方を分かってきたようですね」 

  

 そう出来る算段がきちんとあるのか、フェリクスは機嫌良く笑って気楽に請け合った。


 ディディエとトロマックは王都に帰る前に再度スラジア神殿まで寄ってくれた。

 夢占いの結果を伝えると、また徳高いとか男気があるとか褒められてしまう。


 彼らとは春に王都で再会することを約束して別れた。

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