オルクスの罪人
第19話 手紙と来客
第2の月になった。
今日は朝から冷たい雨が降り続いている。
風もなく、空を覆う雲は存外に明るいものの、少し表で作業をするだけで全身しっとり濡れてしまうような雨脚に、ロシェは屋外での仕事を最低限に済まして、もう雨が止むまでは小屋から出ないと決め込んだ。
急ぎの仕事もなく、少し時間が空いた。
暖房の炭と薪がぱちぱちと小さく爆ぜ、窓を雨粒がひたひたと叩く。
明るい窓際では、やはり外仕事を嫌がるフェリクスが紙にペンを走らせる微かな摩擦音が聞こえる。
その音から筆速はゆったりとして、線を引くことそのものを楽しんでいる様子が分かる。
彼は仕事の合間に少しの暇が出来ると、大抵は本を読むか、書き物をして過ごしていた。
お
ロシェも本を読んで勉強する、という選択肢は頭に浮かんだ。
が、気温の低さと降雨の湿度とで、どうも気が削がれてしまう。
結局、壁に立て掛けてあったリュートを手に取った。
糸巻に手をかけ、一番低い弦を爪弾く。
物理的にはそれほど大きな音ではないが、しんとした室内に、明確な器楽の音が沁みるように響き渡った。
調弦はいつも適当だ。
多少の調子はずれなところが出ようとも、自分の耳で許容範囲なら問題は無い。
それに、完璧に調律したとしても、どうせ直ぐに狂ってしまうのだ。
人によっては、少しでも調律がずれていると神経質に指摘されることもあるものだが、いつも隣で聞くことになるフェリクスは、それについては大変鈍感だった。
ロシェには意外に思えたのだが、この貴族は音楽に疎かった。
「さっきから繰り返し同じ個所ばかり」
しばらく練習していると、ふいにフェリクスが伸びをしながら言った。
口調は柔らかく、特に咎め立てている訳ではない。
ただの事実を意味もなく口に出しただけだ。
「フェリクスが間違えて五線譜を買ってきたから、指使いなんかを考えているんだ」
「その節はすみません」
彼の謝罪は極めて表面的だった。
最近、彼がロシェのために流行曲を集めた楽譜を贈ってくれたのだが、
「まさかリュート用のタブラチュア譜と、
リュートにはタブラチュア譜という専用の楽譜があって、弦の何処を押さえるかが記号で書いてある。
しかしフェリクスが渡してきたものは五線譜だったので、その時は露骨にがっかりした顔をして、フェリクスを動揺させてしまった。
その楽譜を持ってぱさぱさ振ってみせる。
題字には『リュート曲集、リュート及びクラヴサンで演奏するための五線譜版』とある。
これはつまり、リュート曲を
楽譜といえば音の高さを示す五線譜しかないと思っていたフェリクスが、なんの疑問もなく間違えてしまったのだ。
五線譜にはリュートの運指は書かれていないから、自分で色々と考えなくてはならない。
幸いリュートの原曲に近いと思しき編曲だったが、それをわざわざまたリュートで弾いている無駄足を感じないでもなかった。
「リュートに鍵盤付けたやつがクラヴサンでしょう」
「乱暴な理解だな」
基本的な舞曲のステップは踊れる、とフェリクスは主張するが、本質的には音楽にはあまり興味がないようだ。
ただ決して嫌いという訳ではなく、隣でロシェが何度も同じフレーズを練習していても全く気にはしないのが有難かった。
「よし、好きな方を弾いてやろう。『滝のシャコンヌ』と『美しき人殺しのクーラント』、どっちが良い?」
「どっちでもいいですよ、別に」
あからさまに面倒臭そうに答えるフェリクス。
どうせ彼は何を弾いても大して聞いていない。
ロシェとしても、特別上手く弾けるという訳でもないし、是非誰かに聞いて欲しいとも思っていない。
何となくただ無心に楽譜に記された記号を追って楽器を鳴らすと、心が落ち着いて気持ちも安らぐのだ。
またしばらくはお互いの趣味に没頭する無言の時が流れた。
雨は少し弱くなった。
「ごめんください、ペトルス様。お手紙です」
やや幼い声と共に、誰かが戸を叩く。
自分のことを僧名でペトルスと呼ぶのは同業者しかいない。
開けると、隣町のオルクス神殿に仕える顔見知りの小僧が立っていて、綺麗に折り畳まれた紙片を差し出してきた。
神官の手紙のやり取りは、神殿を介して行われる。
オルクス神官宛ての手紙ならば、いったん最寄りのオルクス神殿に配送され、そこから受取人の手元まで、誰かに届けさせるなり、本人自らが回収しに行くなりして届く。
ナトニの街にオルクス神殿はないため、ロシェへの手紙を仲介するのは、隣町にあるオルクス神殿ということになる。
「ありがとう、雨の中ご苦労だったな」
使い走りの小僧に心付けを渡す。
「中で少し暖まっていったらどうだ」
しかし彼は律儀に断った。
「いえ、他にもお使いがありますので。それに、お客様もお連れしました」
「客? 俺にか?」
「いえ、正確にはフェリクス様に。ではぼくはこれで失礼します」
小僧は忙しなくさっと踵を返して行ってしまった。
ロシェがフェリクスを見遣ると、彼は首を傾げた。
「さて、心当たりはありませんが……」
のそりとフェリクスが立ち上がったところで、小僧と入れ替わるようにして客人が戸口に立ち、膝を折って身を屈める王国式の挨拶をしてから言った。
「スラジア神殿のペトルス様ですかな? その手紙をフェリクス宛てに出したのが私、デシデリウス。ちょうど今日、私とトロマックが訊ねる、とその手紙に書いたのですが」
雅やかな雰囲気のある、なかなかの甘い顔立ちをした男だった。
ばつ悪げに苦笑いするその客人の後ろから、もう一人、背の高い頑健な身体つきの男が顔を覗かせる。
こちらが今名前の挙がったトロマック氏だろう。
「なるほど」
フェリクスが顔を曇らせた。
手紙を見ると確かに『親愛なるフェリクスへ、デシデリウスより』と簡潔に記してあった。
「一週間ほど前には、その手紙が到着しているつもりだったのだけどね」
配送が遅れることは、ままあることだ。
珍しいことでもないので誰もそのことで驚きはしなかった。
「とりあえず、入ってくれ」
事態をよく呑み込めないまま、ロシェは客人2人を室内に招き入れた。
ロシェ1人が使うことを想定してある小さな小屋は、たちまち手狭になってしまった。
フェリクスが2人を紹介する。
「ペトルス様、こちらは僕の友人、医者のデシデリウスと、近衛兵のトロマック」
デシデリウスは元宮廷神官でフェリクスの同僚だったが、今は辞めて王都フロルトドールで医者をしている。
トロマックはフェリクスの宮廷神官時代に親しくしていた軍人だった。
両名共に王国人で、デシデリウスは羊のように下向きに巻く角を、トロマックは上向きに湾曲した牛の角を持っていた。
他人行儀に僧名で呼ばれるのはやはり慣れないものだ。
「スラジア神殿付き祭主のペトルスだ、けどロシェと呼んでくれ」
「いきなり
フェリクスが慌てて止めた。
通常、王国人の僧侶は初対面で
確かに2人の王国人は一瞬唖然とした顔を見せた。
「こちらの祭主様は大変気さくななお方だね。面白い、なら私も簡単にディディエで良いよ、ロシェ君」
デシデリウス改めディディエは、直ぐ朗らかに笑って手を差し出した。
次いで軍人のトロマックも握手を求めた。
彼の方は、初めから僧名のようなもう1つの名前は無いのだそうだ。
食堂の2つしかない椅子に客人を座らせ、フェリクスは居間に1つだけの椅子に、ロシェには椅子が残っていないので、調理台に寄りかかる。
予め来客を知っていれば、それなりの用意もしたものだが、今日の今日になってしまい、気の利いた茶菓子などは全く無かった。
とりあえずはお茶を入れ、お供え物の余りを食卓に出しておく。
「医者が患者を放り出し、近衛が王宮から離れ、2人して僕の元に来るなんてね」
フェリクスは皮肉げに口端を上げる。
それは尋常なことではない。
王都からナトニまで、全て徒歩なら1週間くらいはかかるはずだ。
「先に言っておきますが、お断りします」
彼はまだ何も頼まれていないのにきっぱり言明した。
「言うとは思ったぜ」
と、トロマック。
フェリクスは、皮肉な笑みはそのままに、嫌そうな様子を隠すこともしない。
それだけ仲も良いのだろう。
「だが、まずは話を聞いてくれ。それにお前も聞くべきだ」
「ミステリユーズ夫人に係ることでね」
フェリクスの微笑がふっと消えた。
ミステリユーズ夫人――女性の名前だ。
となると、フェリクスの妻か恋人か、ひょっとしたら娘の可能性もあるのではないか。
いや、さすがに娘がいたとしてもまだ結婚するような歳ではないか。
ともあれ彼ほどの立場と年齢の貴族に妻子もないとは思えなかったが、今まで彼の口からは一向にそうした話が出ることはなかった。
何か事情もあるのだろうと思って敢えて突っ込んで尋ねることもしてこなかった。
が、本音を言えば、ものすごく気になっている。
「……俺は席を外そうか」
とはいえ、自分は部外者だ。
人の個人的な内情に立ち入らない配慮はあるつもりだ。
「
「ごめん」
ただの助平根性を喝破されたから素直に謝るしかない。
「別に秘密のことでもありませんし。僕みたいな貴族の“そういう話”は直ぐにゴシップ紙にも載りますから」
それはそれで嫌なものだが、フェリクスにとっては当然のことで一々意に介することでもないのだろう。
「手短にお話すると、ミステリユーズは僕の2番目の妻でした」
過去形だ。
しかも2人目。
ということは、1人目も過去形なのだ。
話の先を聞くのが少し不安になってくる。
「ミステリユーズは、薬に
「ごめん」
「なお、最初の妻フランベルは産褥で亡くなり、子供も名付ける間もなく
「本当にごめん」
掛ける言葉もないとはこの事だ。
なるほど、妻子に関して口が重いのも頷ける。
フェリクスは現在の婚姻関係の有無を披露することはなかったから、今は連れ添う人はいないのだろう。
「で、ミステリユーズに係ることのためにだけに、わざわざナトニまで足を運んだと?」
そんな訳はない。
知らせるだけならば手紙で十分なはずだ。
途中で検閲される危険性もあるにはあるが、社会的地位も高いといえる医者と近衛がわざわざ遠く田舎まで自ら足を運ぶ理由としてはかなり弱い。
「まず、順を追って話す」
トロマックがひと口がぶりとお茶を喉に流し込んで切り出した。
「王都近郊に、冥界の穴が開いた」
それは一大事であった。
地震や洪水といった分かりやすい災害とは言えないが、だがそれで魔物が大量発生したり、井戸の水質が変わるなどで住環境が悪化すれば、街を捨てる必要が出てくる場合もある程のものだ。
「フロルトドールに冥穴が発生したのは、約600年ぶりでしょうか」
その時は魔物たちが疫病を伝播させ、街から大半の人がいなくなったところで、その夥しい死者の魂で以て神々の気持ちは和らぎ、穴は塞がったと伝えられる、と補足するフェリクス。
「今のところ魔物が少し多くなっているくらいで済んでいるが、いつまた歴史が繰り返すか、皆それを恐れている」
「それで、何故あなたが王都を治めるウィニタリス神官団ではなく、僕の元に来るのです」
「その冥穴の近くで、ミステリユーズ夫人の亡霊が出る」
「確かに私もこの目で視たよ」
「……そう」
訝しげに首を傾けていたフェリクスだったが、トロマックとディディエの言葉を聞くと、溜息をつくように相槌だけを打って目を落とした。
驚くでもなく、いつものように口端を笑みで歪めるでもなく、表情は全く変わらなかった。
それは自分を落ち着かせるためにあえて反応を薄くしているのだと、ロシェには思われた。
「宮廷神官たちは、冥穴と彼女の亡霊に何らかの関係があると見ている」
つまりは、彼女の魂がこの世に戻ってきたときに冥界の穴が開いてしまい、以来そのままになっている可能性を考えているという。
「場所は、王都北部のベルジュリ地区」
「少し前に流行った別荘街だね。今は人口が減って寂れ気味だけれどね」
と、ディディエが都の地理に疎いロシェに向かって説明を加える。
「そこに僕の館があったんですよ。その庭で、ミステリユーズは毒を煽りました。……彼女が顕れるのは、そこですね?」
「そう。その亡霊が病気や怪我を直したという噂まで広まって、
フェリクスは顔を手で覆い、震える声で何事かを小さく呟いた。
ロシェの耳にははっきりは聞こえなかったが『可哀そうなミステリユーズ、死後の安寧を乱されて』と、そのようなことを言ったのだと思う。
彼はすぐにまた視線を上げ、今度は腕を組んで少しだけ苛立った様子を見せた。
「一体宮廷のウィニタリス神官たちは王の側にいて何をやっているのです」
秩序の綻びが直って穴が塞がるよう、神々に祈るのは彼らだ。
また本来ならば、そもそも秩序の裂け目など開かないようにするのが神官の任務だ。
「宮廷卜占官たちは、この事態の解決のために、1つの占い結果を導いた」
トロマックが真剣な目を真っ直ぐフェリクスに向ける。
「占いでは、『角の無い神官をセスピナ山の神託へ向かわせよ』と出た。誰もが、それはフェリクスのことだと思った」
フェリクスの長く深い溜め息が聞こえた。
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