第18話 スラジアの新縁起
異変は翌日になってから起こった。
魔法が、ロシェの意思に関係なくちょっとした動作で発動してしまうのだ。
戸を開けようと手を伸ばせば、戸の方が勝手に開く。
やかんを火にかけようと持ち上げれば、調理台の炭が赤々と燃え上がった。
「便利ですねえ」
その様子を目の当たりにしたフェリクスはのんびりと感嘆の声を上げた。
「便利なものか。魔法使いで一番最初に死ぬのは、己の魔法が制御出来なくて自滅する奴だ」
不発にせよ暴発にせよ、意図しない魔法は事故の元だ。
加えて些末な日常の動作でこの世の理を変え続ければ、遅かれ早かれすぐ混沌に体を蝕まれて死んでしまう。
「それに、こんな場所を問わず使ってたら社会的にも死ぬ」
ここがナトニの街中ではなかったことは不幸中の幸いではある。
腕の傷がじりじりと熱い。
おそらく魔法で傷を治そうとしているのだ。
もしロシェがもっと回復魔法に長けていたなら、もう完全に治癒してしまっていたかも知れない。
人体は急速に傷が消えるようには出来ていないのだ。
そんなことをすれば、酷い反動があるのは目に見えている。
腕を押さえて必死でこれ以上強く魔法がかかるのを止めようとするが、この行為に効き目があるかどうかは不明だ。
「これも例の麻薬酒のせいか?」
「そういえば魔法使いに飲ませたことなんかありませんでした」
フェリクスは首をひねる。
結局はこれが特殊事例なのか、そもそも原因が麻薬なのかも分からず、よって対処法も無かった。
「一時的になら僕はあなたの魔法を阻害することは出来ると思いますが、四六時中となると」
「くそっ、どうすりゃいいんだ」
不安と焦燥に駆られた心に連動するように、無駄に周囲でぱちぱちと火花が散る。
「少し前に、秩序が狂っている方が魔法が使いやすいって言ってませんでしたっけ? とりあえず西の森に行ってみるのはどうでしょう。幾分体が楽になるのではないでしょうか」
なるほど一理ある。
もし神域を魔法で荒らしたら、またラシルヴァ神に涜神者と罵られるかも知れないと思うと少し怖い気もしたが、他に宛てもない。
「毒薬が原因ならば嵐が過ぎ去るのを待つしかありません。お供え物持ってお祈りでもしましょう」
フェリクスは一見普段通りの口ぶりではあったが、“平静を装っている”のがよく分かる程度には動揺しているようだった。
小屋を出て、そのまま西の森へ向かう。
亡霊に出くわしたら厄介だな、と思いつつ遺跡を横切っていると、案の定ふわりと暗い顔をした亡霊が現れた。
襲われる、と思った瞬間、亡霊の頭部が破裂した。
下顎だけを残して他は破壊されたその口で、甲高い悲鳴のような音声を長く残しながら亡霊は消えていった。
「先手必勝なのは素晴らしいですが、いくらなんでもやり方が惨いですね」
フェリクスが心底嫌そうに眉根を寄せる。
「仕方ないだろ」
そうは言ったが、これが生きている人間相手にも発動し得ると考えると背筋が凍る。
例えば何かの拍子で隣のフェリクスに殺意を覚えたら――。
そのような想像をしたからか、息が苦しくなってきた。
これは、魔法の濫用による秩序障害だ。
人体を直接破壊するような魔法は、術者への負担が大きいのだ。
頭が痛い。
内側から破裂するかと思うほどの激痛に、一瞬意識が遠くなる。
痛みにちかちかする瞼の裏に、先ほど自らが魔法で爆ぜ散らした亡霊の姿が浮かんだ。
吐き気に続いて手足には虚脱感を覚え、足裏では地面がぐにゃりと柔らかくなって、体が底なし沼へと沈んでいく。
と、後ろからフェリクスに肩を掴まれた。
強制的に魔法が消えて、腕の傷が痛み出す。
それで正気に返った。
息が詰まりそうになるのと常態に戻るのとを繰り返すので、森の中の古木の舞台に着くころにはロシェはすっかり疲れ果てていた。
縋るように巨樹に凭れて、その古寂びた幹に額を当ててみると案外と気分が落ち着く。
陽光にあたって辺り一面に揮発する樹木の清涼な香りを胸一杯に吸い込めば、体内に溜まり続ける致命の
しばらく祈る気持ちでただ呼吸をしていると、幹に付けた額を伝うように、ころころと女性の笑う声が聞こえた。
――難儀しておるな、神官よ。
驚いて顔を上げると目の端で誰かが立っているのが視えた。
改めてそちらを見遣ると、枝の冠を被る女性の姿がはっきりと目に映る。
女性は屈託ない笑顔をロシェに向けていた。
――汝の望むものは何ぞ。
反射的に身を引いてフェリクスを振り返る。
彼は携えてきた供物のパンと酒と小瓶に入った蜂蜜とを緞子織りの上に並べ、空に向けた両手を広げて祈る姿勢を取っていたが、ロシェの様子を見て不思議そうに小首を傾げた。
「今の声、聞こえたか?」
「いいえ」
「何か視えるか?」
「いいえ、何も」
今のは麻酔が見せた幻だろうか?
ロシェに見えてフェリクスが全く捕捉出来ていないなんてことがあるだろうか。
再び音の無い声がロシェに尋ねる。
――汝何をか望む。
その答えなら決まっている。
彼女はロシェに笑いかけながら手招きをして、森の奥へ消えていった。
「今、ラシルヴァ様に呼ばれた、気がする」
「幻覚でないとすれば、あなただけに話しかけたのでしょう。僕はここで待っているから行ってごらんなさい」
ロシェは頷き、1人で森の奥へと向かった。
倒木の舞台の奥、
前回ここを訪れたときは一番左の道を選んだが、どの道を進むべきかロシェは一瞬躊躇した。
「左じゃ」
ふいに背後から女性が現れ、ロシェを追い越して左端の道の奥へと歩いて消えた。
ロシェは彼女を追って、フェリクスと共に来たときは途中で引き返した道の、秩序が狂っているというその先へと足を踏み入れた。
さらに続く獣道の両側にも、ところどころに小さな石像が置かれていた。
まるで写本の余白の装飾によく描かれる不思議な生き物のようなそれは、景色の変化の乏しい森を進むに良い目印となった。
しばらく行くにつれ、狭い道は地面が裂けたような小さな切通しとなり、さらにそこを通り抜けると、急に視界が開け、丸く陥没した窪地に辿り着いた。
そこには高い木は生えておらず、弱々しく雑草が生えているのみ。
その深さは人の背丈の倍ほど、広さは端から端までは15歩弱といったところだ。
屋根のない円形神殿のようだと、ロシェは思った。
窪地の中央にも石像が置かれていた。
しかしそれは道中にあったような不均衡で不気味なものではなく、ロシェにも馴染みのあるものだった。
それは有翼の犬を伴う男神像、すなわちオルクス神像であった。
その像の胸の辺りで、光の無い炎のような小さな闇がゆらめき、そこだけが真っ黒な陰になって何も見えなくなっていた。
風が、闇なる炎に引き寄せられ、あるいは吹き返し、不規則に渦巻いて肌に当たる。
これが、ロシェが初めて見る冥界の穴だった。
冥界と繋がったその穴に落ちると二度と戻ってこられないという。
ただし、目の前のそれは体が通る大きさではなかった。
せいぜい腕が一本肩まで入る程度だ。
「この穴は時に大きくなり、時に小さくなり、吾にも予測は出来ぬ」
女神が顕れ、横に立って言った。
ロシェはこの超常現象に対して、不思議と何の驚きも心に沸いてこなかった。
こういうとき、フェリクスなら跪くだろうか。
そう思ってロシェも身を屈めようとしたところで、
「膝を折らずとも良い。そのままでおれ」
断固として言われたので、頭を深く下げるだけの礼を執った。
「汝の望みは、この穴が消えて無くなること、じゃな?」
「はい」
翡翠色の瞳をした女神は、銀色にきらきら輝く白い衣を引きながら、冥い炎へと歩み寄る。
「魔物がおれば人間共はこれを恐れて右往左往し、吾に縋るようにもなろう」
この穴を塞いで周囲が平和になったら、神助を乞うものがいなくなり、女神はその存在を忘れられてしまう。
それならばいっそ秩序が乱れるに任せて人々の気を惹きたい。
つまり女神にとって、冥界の穴を塞ぐことは大した利益にならないということだ。
「かつてトニトゥルアとこの地を争ったとき、
女神は遠い目をして淡々と語った。
「神官ペトルスよ、そなたは吾が寄る辺なき悲愁を贖えるか」
そんなことが出来るかどうか。
正直に言えば、自信はない。
だが否と答えて女神の助けを得られるだろうか。
ロシェは答えを迷った。
フェリクスなら模範解答を知っているだろうか。
彼なら何と答えるだろう。
「お約束、出来ません。今の自分に貴女の心を満たす力があるとは到底思えない。でも、止まず御身に祈ることなら出来る」
結局のところ、嘘や芝居が得意ではない自覚があるので極めて直截に言う事にした。
「馬鹿正直な奴じゃ」
女神はまた機嫌よさげにころころと笑った。
「そなたは荒れた神殿を整え、そこに吾が偶像を祀った。そして己が身を捧げた。その敬神を恩に着てはおるぞ」
女神は、威厳をもって、しかし花の蕾が綻ぶような柔らかな笑みをロシェに向けた。
「今の吾は冥穴を塞ぐ
己自身の魔法の力で、冥界の穴を塞げというのか。そんなことが人の身に出来るというのか。
この底知れない闇に触れると、自分は一体どうなってしまうのだろう。
正体不明の現象に対する恐れが、じわりと心に影を落とす。
だが、ここまで来て敵前逃亡など出来るはずもない。
きっと、大丈夫だ。
根拠も無く自分を鼓舞する。
ロシェは闇なる炎に左手をかざした。
何か圧力のようなものが手を通して体に流れ込み、また同時に、手から底知れない穴へとその力が吸い込まれていく。
腕に通う神経全ての感覚が無くなって、腕ごとどこかへ消えてしまうかに思えた。
ちょうど硝子の凹凸を通して向こう側が歪んで見えるように、自分の手がゆらゆらと不規則に揺らぐ。
どんな秩序でも
魔法使いの本能が、この力を試してみたい、と欲した。
「そうじゃ、もしその力が人の身に耐え得るならば、汝それをして神の如く
女神は焚き付けるように挑発的な目をロシェに向けた。
「だが、それは人の身には過ぎたる力。使えば忽ち肉体は
ロシェの手に女神の手が重ねられる。
「吾に身を委ねよ。汝が身は吾が守る。吾を信じよ。吾もまた汝を信ずる。汝のその意思のままに秩序を変えよ」
揺らいで見えていた腕が元通りになった。
遮断されていた神経も復活し、指先で体温が戻ってきたのを感じた。
かざした手の感覚を通して、幾重にも重なる空間がぐちゃぐちゃに混じり合って、まるで何ひとつ調律の合わない楽器で全く異なる旋律を合奏しているかのように、無秩序に渦巻いているのが分かった。
混沌の中、何もかもが狂ってけたたましい不協和音が唸る中で、唯一の尺度は自分自身しか無い。
自らが内在する人間本性としての人体の
狂った
女神は嫣然と微笑みながら、ロシェの唇に指先を当てて言った。
―― 先の儀は内密に。汝の仕える神オルクスに誓って
それきり女神の姿は失せて、声も聞こえなくなった。
頬を撫でる微風の中に、歓喜に踊る精霊たちの翻る衣が見えた気がした。
後には胸部にぽっかりと穴の開いたオルクス神像と、一抱えもある大枝が残っていた。
神々は、直接人間に関わることを避けたがる傾向にあると言われる。
神自らが卑しい人間たちのためにあれこれ奔走する姿というのは、彼らにとっては滑稽で格好がつかないということなのだろう。
とはいえ、何かと世話を焼くことで、人間たちから感謝されるのも好むのだ。
詳らかに語られたくないが、自らの功績は褒められたい、神々にも我儘な乙女心のような心の機微があるものだ、とロシェは可笑しくなってふっと息を吐き、それから大枝を担いで来た道を戻った。
「おかえりなさい。何です、その木は」
「冥界の穴だけど、ラシルヴァ様がぱーっと出てきて塞いだ――」
そう言ってから、どこからどこまで人に伝えていいのものか、女神から言われた『内密に』の言葉を思い返し、急に不安になって、
「――と思う、ような気がする、多分」
ロシェは慌てて付け加えた。
「嘘でしょ!?」
嘘である。
神は信じて不合理を信じないフェリクスに疑いの眼差しで瞳の奥を覗き込まれて、ロシェは思わず目が泳いでしまう。
ロシェが嘘をついていることは、簡単に見破られてしまうだろう。
だがそれでも、本当のことをいう訳にはいかない。
「ええと、これ」
ロシェはラシルヴァ神から授かった大きな木の枝を地面に立てて置いた。
「塞がった後で、これが残った。冥穴を閉じた女神様がその見返りにこれで神像を彫って祀ってくれって……ことだと俺は解釈する」
話題を逸らそうと、森人に細工して貰うのがいいだろうとか、どんな彫像にするか、女神を見たかも知れないアベイユにデザイン案を描いてもらうのはどうだろう、などと幾分早口でまくし立ててしまう。
「穴を塞ぐって一体どうやって?」
「あー、その、うーん……」
詳細を語ることも出来ない。
何と言えば正解なのか、上手く誤魔化せず露骨に困っていると、フェリクスは溜息を一つつき、首を振った。
どうやら密儀の要領で黙秘を強いられているらしいことに思い当たったようだった。
「もし誰にも話せないというのなら、皆が納得するような、もう少し具体的な話を考えましょう」
彼の表情から読み取れたのは、呆れや不満というよりは、おそらくはロシェが人に言えない秘密を抱えたことへの同情か共感のようなものだった。
「森の女神、ラシルヴァ神の奇跡を伝える、スラジア神殿の新しい縁起をね」
「それはラシルヴァ様も喜ぶと思う。あとその縁起を記念するお祭りも必要なんだ」
「承知しました、
「そしたらまた代官を恫喝して協力を取り付けないとな」
ロシェが、ラシルヴァ様の功徳で体調もすっかり元通りになった、と嘘みたいなことを主張するので、2人は神木に深い祈りを捧げてから祭祀場を後にした。
去り際にロシェは祈りに応えてころころと笑う女神の声を期待したが、もう特に何も起こらなかった。
ただ木の葉の瑞々しい香りを含む穏やかな風がゆるゆると流れていった。
◇◇◇スラジアの新縁起 完◇◇◇
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