第17話 甘くて血生臭い朝食

「明日まではまともに足腰立たないつもりで麻酔どくを盛りました。それも耐性がありそうだったので幾分多めに」


 ロシェが振る舞った朝食を遠慮なく口に運びながら、フェリクスは真顔で物騒なことを言う。


 起きがけこそ『目覚めて良かった』と目に涙を薄く浮かべて喜ぶ様子を見せたものの、今の表情は余所余所しく、いつもの張り付いたような微笑さえもなかった。


「ロシェは本当に強いんですね」


 まさか普通に起き出して裏参道を登り、朝の祈りを捧げたあと、片腕に傷があるのに朝食まで作るほどぴんぴんしているとは全くの想定外だ、とフェリクス。


 その彼を、どう反応してよいか分からず、ロシェは不信感に満ちた目で眺める。

 フェリクスの方は皿に視線を落として目を合わそうともしない。


 少しの間、両者に無言の時が流れた。


「一発殴ってもいいか?」

「怒ってもいいですよ。暴力は反対ですが」


 次なる2人の発話は同時だった。


 平然としたふてぶてしいとも言えるフェリクスの態度だが、ロシェはその声に僅かな震えがあるのを聞いた。


 不意打ちで毒を飲まされたことを、そして殺されかけたことを、確かに自分は怒ってもいいはずだ。

 釈然としないものがもやもやと心に残っている。


 この気持ちを晴らしたいと、その原因を作った男に対して沸騰するような怒りを瞬間的に覚えるものの、現実感が無いからか、暴力的な衝動もすぐに消えてしまう。

 それこそ熱湯から沸き立つ泡がすぐに水面に浮かんでは消えてしまうように。


 形容しがたい怒りのようなものを持て余しつつ、心の片隅では誰かに感情をぶつけても詮無いことだと冷静に理解していた。

 ただし、何もなかったようには流せない。


「殴るかどうかは詳細を聞いてからにする」


 ナイフの先を脅かすようにフェリクスに向けてみせるが、まずはただ事実確認がしたかった。


「取り敢えず昨日何があったか教えてくれないか。俺が見たのは――」


 だがロシェの言葉が終わる前に、フェリクスは即座に首を横に振った。


「オルクスに誓って、密儀は口を閉ざすべし、です。それに、言ったところで、多分僕が見たものとあなたが見たものは違う」


 確認し合うことまで禁じられているというのか。

 本当に殴ってしまえば、怖がって口を割るだろうかという乱暴な空想はしてみたが、実行に移す気にはなれない。


「どこからどこまでが本当のことだったのか分からないんだ」

「あなたが感じたことが全てです」


 こればかりは自分自身で折り合いをつけるしかないのだ、とフェリクスはロシェを諭す。


 誰に訪ねても決して望む答えは返ってこない。

 その“分からなさ”を抱えながら、安易な答えに飛び付かず、分からない状態を耐え、そして自ら考えることも大切なことだ。


「あと昨日ではなく一昨日ですね。あなたは昨日は数時間起き出して僕とアベイユとお話しましたよ。会話になりませんでしたが」

「何それ怖い。全然覚えてない」


 とはいえ、それからロシェはフェリクスを質問攻めにした。

 彼は密儀に関わることは決して口を開かなかったが、それ意外のことは1つも面倒臭そうな態度は見せず、丁寧に回答をした。


 どうやらロシェは儀式が終わったあとは、2人に支えられつつ自分の足で帰ったようだ。

 傷の手当てを受け、着替えも自分で済ませて普通に床に就いた。


 全く覚えていなかった。

 記憶の欠損はほぼ酔っ払いの所業だ。


 なお、アベイユは昨日はほぼ一日ここに留まってフェリクスと共にロシェの具合を見てくれたが、夜に仕事のため街へ帰っていった。


「そういえばアベイユは大丈夫だったのか? 彼女にも毒を飲ませただろ」

「ええ。少量ね」


 彼女にもまた不可解な幻は立ち現れたようだった。

 何を視たのかは分からない。

 アベイユも密儀の記憶をフェリクスと共有しようとしたが、ロシェと同様ににべもなく拒絶されたとのことだ。


「9割は死なないつもりでやりました。でもラシルヴァ様があなたの命を望むなら、それも止む無しと思っていました」


 残り1割で運が悪ければ、神々が気紛れを起こせば、死ぬ。

 密儀とはそういうもの、そういう覚悟をして臨むものだ。


「ま、まさか密儀でフェリクスも人を殺めたことが」


 この質問には、いつもの微笑と共に、密儀に係ることだからと回答しなかった。


「ラシルヴァ様があなたの死を拒んでくれて本当に良かった」


 フェリクスはまた僅かな笑顔を見せた。

 相変わらず本心で何を考えているの読み取れない表情だ。

 だが、きっとこれは嘘偽りのない言葉だ。

 ロシェはそう解釈した。


「最初から言ってくれれば、別に生け贄役だろうが何でもやってみせたのに」


 この言葉にフェリクスは一瞬目を見張った。


「流石はロシェ、その剛勇はお見事です。でも、生け贄にはなるべく恐怖を与えたくなかったので」


 フェリクスはさも当然かのように言った。


「しかしあれこれ質問したのは俺だが、せっかく贅沢に甘く作った朝食なのに、会話内容が全部血生臭くなってしまった……」


 お世辞にも食欲を唆る話ではない。


「案外繊細ですね」


 フェリクスは全く顔色を変えず、さらにパンに蜂蜜をかけて美味しそうに食する。

 料理が彼の口に合ったようでなによりだ。


「これに関してはフェリクスが鈍感な気がする」

「もっと甘い話題が良かったです? 巷の艶聞でもお知らせしますか」


 フェリクスがくすくすと笑った。


「とはいえ、恋バナとかする気分に全然なれないな」


 ロシェは溜息をつき、半分破れかぶれになって、自問自答のように率直な、しかし全く食欲を減退させる疑問を吐き出した。


「……祭主って、こういう密儀も執行できなければいけないんだろうか」


 犠牲獣の選定は祭主の仕事だ。

 当然、人を生け贄に選ぶのも祭主の役目となる。

 神々のために人を殺してしまうような祭儀を、時には非情な心で断行しなければならないのだろうか。


「僕は名誉なことだと思うけれど、人によってはとても嫌がりますね」


 人によってというか、大抵は嫌なのではないか。

 選ばれた者のみが参列出来る特別な儀式、と言えばさも権威があるように聞こえるが、ロシェはそう思う。


「僕があなたの師なら教えます。でも、ニウェウス様なら教えないでしょう」


 フェリクスは言う。

 密儀の犠牲者は、執行者の中から選ばれる。

 つまり執行者は、別の儀式では犠牲者と成り得る。


 ニウェウス師匠なら、人を痛めつけ、法に背き、少しの不運で死が口を開けるようなその関係性にロシェが加わることを嫌がってくれるかも知れない。


「あなたは生け贄となったので、既に執行する資格を得ました」


 通例は何度か執行者側に立って儀式の次第を覚え、それから犠牲に選定されるものらしい。

 あなたは色々と普通じゃないので、とフェリクスは口端に笑みを乗せた。


「人身供犠の要不要は、神々が、必要とあればあなたの心にその判断を吹き込むでしょう。最終的にあなたがその声に従わない決定を下すとしても、我々神官は、然るべきときに然るべくその神の声を受けられるようにしなければなりません」


 人間には人間の秩序があり、神々には神々の秩序がある。

 神々の望むことが人の価値観に沿うとは限らないし、利害が対立することもある。


 人と神の間に立って折衝かけひきすること、神々に与え神々から恵みを受け、そうして揺らぐ秩序にある人の世に調和をもたらすのだ。

 そうフェリクスは静かに語った。


「僧侶とは、異なる秩序の揺らぐ間に立ち、その調和を取るものです」


 ニウェウス師匠も言っていたその言葉。


「立場が違えば、俺もフェリクスを生け贄にしなければならなかったのかな」


 然り、との即答を予期していたロシェであったが、


「…………」


 珍しくフェリクスが目を泳がせて言葉に詰まった。

 いつもなら答えにくい場合や答えたくない場合でも、うまい具合に話題を逸らせたり、堂々と突っぱねる理由を述べるなどして、何かしら滑らかに切り抜ける発言をするのに。


「……ニウェウス様に習いませんでしたか? 犠牲獣に角のある生き物を用いる場合は、その角に傷や欠けの無いものを選ぶこと、と。――僕は不適格です」


 フェリクスは莞爾にっこりと笑みを深くした。



 食事が終わると、フェリクスは席を立って自分の分とロシェの分の食器を台所に下げた。

 それから壁に取り付けられた棚まで行き、上に置いてあった平たい陶製の容器を取って、再び卓に座るロシェの元まで戻ってきた。

 フェリクスが手に持ってきたのは、ロシェには見覚えのない品物だった。


「さて、傷あてを取り換えましょうか」


 左腕を保護していた布を取り払うと、空気に触れた傷口が少し沁みる。


 フェリクスは陶器の蓋を開き、中に入った軟膏を洗い立ての布に取ってロシェの傷に塗ろうとした。


「おい、それ、魔法薬だろ」


 ロシェは思わず腕を引っ込めた。

 その瞬間強くなった痛みに顔を顰める。


「アベイユ嬢から貰いました」


 フェリクスが事も無げに逃げるロシェの腕を捕まえる。

 こういうときに使わずしていつ使うのか、と皮肉げな微笑みを浮かべた。


 自分ではあれほど嫌がっていたくせに、人には平気で使用するのだ。


「よく効きますね、この魔法薬というものは。すぐに血が止まりましたよ。些か効きすぎて怖いですが」


 アベイユの薬は結構上物のようで、痛みもかなり抑えているのを実感するし、彼女の言では傷も綺麗に治すそうだ。


「正常な感覚だと思う。基本的に効く薬ほど副作用も大きいからな」


 ロシェは魔法断ちを諦めて、大人しくフェリクスのしたいようにさせた。


 ロシェ1人だったら、この魔法薬で治療するという判断はしなかったかも知れない。

 そうしないでひたすら悪化しないことを神に祈りながら傷の痛みに耐え続けただろう。


「これがあれば密儀の死亡事故も減らせそう」

「それは何かが違う気がする」


 再び綺麗な布で傷口が覆われる。

 意外と手際が良い。


 作業に集中するフェリクスと、思いがけない手当の技能を感心して見ているロシェの間に束の間の沈黙が流れた。


「ねえ。ペトルス君」


 ロシェは驚いて顔を上げた。

 そんな風に名を呼ばれたのは初めてだった。

 誰からも。

 彼がこのように呼んだ意図は咄嗟には量りかねた。


「僕の愛称いみなはウルーと言います」

「おう。いや、ええと、……どうすればいいんだ?」


 思わずしどろもどろになるロシェ。

 王国の由緒正しい僧侶の愛称いみなの使い時が分からない。


「もう嫌だ、この角の無い人は」

「あっ有角人種じゃないけど、酷い悪口言われたのは分かるぞ」

「もっとも、ロシェとは逆で、この名で呼ぶことは家族でさえ滅多にないですが」

「それ、普通なのか?」

「僕の家では普通ですが、僕の家が普通の家だと思います?」


 愚問であった。


「別にこの愛称なまえを無理に使わなくていいですよ。ただ知ってくれているだけでいいのです」


 フェリクスは少し目を伏せ、穏やかにアルカイックスマイルを浮かべた。


「で、ロシェ。僕を殴りますか?」


 ロシェも軽く息を吐くように小さく笑った。

 殴ろうかと思っていたことをすっかり忘れてしまっていた。


「殴らないよ、ウルー」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る