第16話 非定例犠牲式
それから祭祀の準備で、2週間は慌ただしく過ぎていった。
催行は夜ということで、参加者としていつもの森人の大工たちは呼ばず、助手と護衛も兼ねてアベイユ1人に来てもらうことに決まった。
夜半の亡霊遺跡を抜け、冥穴のある森を歩かなければならないのだ。
なんの武力を持たない市民を連れ回すのも危険を感じるし、かといって2人だけでは少々心許なかった。
「それに、冥穴がある以上はあまり一般市民に広く開放したくはありません。その点では代官と同意見です。アベイユ嬢1人なら箝口令も敷きやすいですし」
そう言うフェリクスの意見もあった。
神々の采配か、都合良く生きた野生の兎が街で売っていたので、これを生け贄用に3羽購入した。
これを
あまり頻繁に行われる祭儀ではないが、血だけを供えるより格式が高い。
その燃料とすべく沢山の薪と炭を集めなければならなかった。
薪はさらに篝火用にも十分な量が必要だ。
少しずつ森から調達し、倒木の祭祀場に運び込んだ。
そして儀式の夜になった。
満月が高々と空に昇った頃、ロシェとフェリクス、そしてアベイユの3人がロシェの小屋に集まった。
出発する前に、フェリクスが持ってきた薬草酒を皆で飲んだ。
「夜の恐怖心を和らげ、亡霊の気配を察知しやすくなりますよ」
「甘くて、苦いな」
「不味くはないけど、美味しくもないね」
「酔いを楽しむために大量に飲むものでもないですから」
そうしてから夜の神殿に寄った。
空は晴れ、大きな月は冴え冴えと輝き、手に持った
頬に当たる夜風が気持ち良い。
風がそよそよと渡るたび、草原は月の光を受けて波を打つ。
耳を澄ませばその風に乗って、月光に酔う精霊たちの愉悦に満ちた盗み笑いが聞こえるかも知れない。
美しい夜だった。
神殿ではラシルヴァに祭祀が無事に行われるよう祈りを捧げ、オルクスにも加護を求め、供えた香油を額に塗って魔除けのおまじないとした。
いよいよ亡霊遺跡に降りて森までの廃道を歩む。
途中、ロシェは目の端でちらちらと何がが蠢いているのが見える気がした。
彷徨う影たちは現れては消え、追いかけては追い越し、意思を持ってこちらを伺っているように感じた。
その感覚はアベイユも同じらしく、時々周囲を警戒する彼女の瞳と目が合う。
1度は、角を持つ亡霊の姿がはっきり見えた。
道の真ん中に立っていたそれは、ゆっくりロシェに向き直ると、膝を折る礼をして道を空けた。
確かに亡霊は居る。
それも沢山。
しかしきちんとその姿が見えているからか、不思議と以前のような生理的な恐れは湧いてこなかった。
これが薬草酒の効果なのかも知れない。
森の入り口は、昼の爽やかさと打って変わって、底知れない暗闇が怪物の
そこに夢見るような月の光は届かない。
中に踏み込めば、
3人分の足音、
祭祀場跡に着くと、予め用意していた篝火を焚く。
赤く揺れる炎が古木の舞台を静寂の闇から浮かび上がせた。
小休止を挟んでフェリクスがロシェに声を掛ける。
「ロシェ、ちょっとそこの階段を昇って」
言われた通り昇りきったところで、後ろから瞬間的に首元を押さえ付けれて、思わず膝を付く。
そしてそのまま、立てなくなった。
立ち上がろうとする意志に反して、何故か頭が混乱してどのように体を動かしていいのかが分からなかった。
「アベイユ嬢は出来る限り、火の番と亡霊や魔物の警戒にあたって下さい」
頭上からフェリクスの落ち着いた声が聞こえる。
「請け合った。……出来る限り?」
アベイユは朗らかに返答したが、同時に何か引っ掛かるものも覚えたようだ。
「正気を保っている間は、という意味です」
倒木の舞台に上がったフェリクスが参列者2人に向き直る。
見上げるその面貌にいつもの微笑はなく、冷厳として威圧的だった。
「ここでこれから見ることは絶対に口外しないと、そして、我々同士でも互いに口にしないと、オルクス神に誓って下さい。人の法に反しますし、神々もそれを望みません」
言い切ってしまうと、左右の篝火に照らされた祭主の顔が、いつもの何の共感も許さない曖昧な微笑に変わった。
オルクス神に誓って――。
そこに拒絶の選択肢など最早ないことは明白だった。
フェリクスは兎の籠を開けて、燔祭にするはずの中の3匹を全て森の奥へと逃してしまった。
それから、背後に大きな影を揺らめかせる巨樹の古株に、膝を深く曲げる敬礼をしてから跪く。
「これよりオルクスの神官フェリクスが祭主として、ラシルヴァ神に拝跪して人身奉献の密儀を催行奉ります」
フェリクスの決然とした音吐が玲々と祭祀の場に満ちる。
ロシェは段々と呼吸が苦しくなってきた。
多分、出発前に飲んだあの酒だ。
全員が飲んでいたはずだが、自分の分だけ量が多かっただろうか?
だがそれを酒を飲ませた本人に事実確認することは出来なかった。
フェリクスは淡々と奏上を続ける。
「掟によりて本儀に与るものはなべて箝口すべきこと、オルクス神の治むる冥土の河に誓って
神威普く秩序に満ち給うラシルヴァ神なれば気宇広大なる御心もて、ここに豊潔なる
抑揚美しく、しかし固く厳しい声が、ぴりりと張り詰めた空気を震わせ、夜の森の奥深く、暗闇に吸い込まれていった。
壇上で動けないロシェは、終わりの見えない溺水感に苦しんでいた。
自分は今、水の中にいないことははっきり分かっている。
それなのにもう数分間は水底に沈んでいるような圧迫感を覚えていた。
現実ならとっくに溺れて死んでいる。
だが窒息で意識が遠のくと直ぐにまた覚醒して、死へと逃れることは出来ない。
心は死の恐怖と冷静な現状把握を繰り返す。
本能として肺は空気を求めて喘鳴する。
苦しい。
苦しい。
ふいにフェリクスの温かい手が頭を、それから背中をゆっくり撫ぜた。
『可哀想に。もう楽になりますよ』
耳元で落ち着いた優しい声で言われると、本当にふっと体が浮いて全ての苦痛がなくなった。
疲れてはいるが、今はそのふわふわとした疲労感が心地よい。
恐らく自分はここから逃げた方が良い。
理性はそう告げるが、今度はその行動を起こす意思が沸かなかった。
そのまま仰向けにされて、左腕を取られる。
袖を捲り上げて露出した前腕に儀式用のナイフが当てられる。
フェリクスのナイフは持ち手も鞘も七宝で鮮やかに飾られ、しかも
ぼんやりとそんな事を思い出すうちに、それがすっと一閃、腕の内側を縦に裂く。
痛みは無いが、ひんやりした金属質の異物が皮膚の下を滑る感覚がした。
切り裂かれた腕から滴る血が古木の舞台を潤す。
これは多分、今までの戦場での経験上、即死はしないがきちんと止血をしないと命に関わりそうだ。
だが、冷静な判断の一方で己の命を守る気力は無く、午睡の夢のような心地よい微睡みの中で意識は揺蕩う。
それからどれくらい時が経っただろうか、5分ほどか、丸一日か、時間感覚は麻痺して溶けている。
ロシェはいつの間にか傍らに知らない誰かが自分を見下ろしているのに気付いた。
くつくつと楽しげに笑うその人は、瞬間瞬間で、無邪気な
勢い盛んに茂る枝の冠を被り、それは年古りた牡鹿の角のように大きく頭上にそそり立っていた。
女性は血の流れるロシェの腕を取ると、顔を寄せ、傷口にぞろりと舌を這わせた。
やはり痛みは全くないが、生傷をなぞる言葉にならない感触に背中が粟立つ。
『吾のために己が身を捨てる者は絶えて無く、こうして血を味わうのは久方ぶりじゃ。吾は嬉しいぞ』
聞き覚えのある艶のある声。
満足げなその声を聞いて、ロシェは妙に安らかな気持ちで瞳を閉じた。
◇◇◇◆◇◇◇
ロシェは自分の小屋のベッドの上で目が覚めた。
いつものようにちょうど1日の新しい光が窓から差し込み始めて明るくなってきたころだ。
一体どこからどこまでが夢だったのだろう。
儀式の夜だけでなく、思えば儀式の準備で何度も森に足を運んだことや、森でラシルヴァ神の声を聞いたことさえも、この1、2週間の出来事だと思っていたものが、全て長い夢の中だった気がしてくる。
全ての実感が無くなってしまった。
左腕が、少し痛い。
見ると血の滲む木綿の布がきつく巻き付けられていた。
“夢の中”では、かなり流血していた気がしたが、すでに血は止まり、思ったより大した怪我ではなさそうだ。
体はきちんと寝衣に着替えてあって、いつの間にそうしたのか全く分からなかった。
儀式の後もどうやってここに帰って来たのだろう。
まるで記憶が飛ぶほど飲酒したみたいだ。
いや、本当に酷く飲み過ぎて下らない怪我をしただけなのではないか。
ロシェは自らの正気を疑い出した。
ベッドの傍らには、椅子に座ったまま俯いて眠っているフェリクスがいた。
となるとやはり、いつも通りの朝、という訳ではないようだ。
この男は、贅沢に慣れているだろうに、案外と何処でも寝ることが出来る。
しかも若者という年齢でもない割に、結構深くよく眠る。
少しの衣擦れ程度の音では起きないので、ロシェは彼をそのままにしてベッドから這い出した。
考えるだけ答えの無さに不安になってくる。
自分は今、正常な状態なのだろうか。
今もまだ覚めない夢に閉じ込められているのではないか。
現実だと思っている今この時が、また直ぐに崩れてしまうのではないか。
今の自分は本物の自分なのだろうか。
そもそも本物の自分とは。
取り留めもない思考の迷路に苛々が募りそうになるので、取り敢えずは淡々と日常業務をこなすことに決めた。
身支度を整えて神殿に上がる。
今日もよく晴れて、朝露が昇りたての太陽の光を受けて輝いている。
新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込むと、それだけで不思議な充足感を覚えた。
神殿の扉の鍵を開け、庭で摘んできた美しいグラジオラスの花を供え、祈りを捧げる。
「万象在らしめるその神威を我ら仰ぎ讃えます。森なす神ラシルヴァ様の弥栄わえに、大いなるその威徳
牡鹿の角を持つ女神像は、荒々しい彫り跡の抽象的な顔でロシェを見下ろしている。
光の向きによって、また見るときの気分によって、その表情は変わる。
今朝は、微笑んでいるように見えた。
朝食でも作ろうかと、井戸水を汲んでまた小屋へ帰る。
何かの作業をしていた方が気が落ち着く。
意外と料理というものはそういう時に有効なのだ。
ロシェは棚に残っている食材を眺めて作るものを決めた。
卵を取り出して鉢に割り入れ、白ワインで少々嵩を増す。
それに蜂蜜とナツメグにシナモン、少し贅沢にたっぷりの砂糖を入れて掻き混ぜる。
不経済だが、たまには良いか。
今日は甘いものが食べたい気分だ。
歯がたたないほどに固まったパンを一口大に細かくして鉢の中の卵液に浸し、充分染み込んだらバターを塗ったフライパンで焼く。
出来上がりを卓に置いて、調理の音にも全く動じなかったフェリクスを揺り起こす。
目覚めた彼は、まるで亡霊を見ているかのように、驚愕に目を丸くし、ロシェ本人と支度の整った食卓とを交互に見て言った。
「これは夢?」
それはロシェの台詞だった。
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