第15話 西の森の幻視

 今や西の森は開放された。


 この森には、冥界の穴がある。


 日を改めて、2人は境界を守る双頭神アンピオプス像が睨みを利かせる入口をくぐった。


 森の奥へと続く道は大人2人が並んで通るには少し狭いほどだが、きちんと整備されており、比較的歩きやすい。

 頭上にはよく育った木が茂り、木漏れ日が射しかかる。

 新緑の樹木の香を含んだひんやりした空気が爽快だ。


 だが、清涼な空気とは裏腹に、道を進むにつれ木々の間に不気味な石の彫刻が現れては消える。

 これがギニョンの探知魔法の媒介となったものだろう。

 冥界の穴の存在よりも、こちらの方が視覚的にずっと恐ろしく感じる。


 現実のどの動物にも似ていない凶暴そうな生き物の像、下半身が蛇や獅子になっている女神像、棍棒を振り上げて組み合う怪物を打ち倒そうとする英雄像など、そのどれもがどこか不均衡で、しかも木の根に持ち上げられて曲がって立っているので、お世辞にも美しいと評せるようなものは1つもない。


「この不気味な像、代官でしょうか、もうちょっと綺麗なやつ置けなかったんですかね」

「また魔法使いへの偏見を助長しそうであまり言いたくはないが、」


 ロシェはいつもは使わない頭の領域を精一杯働かせて言葉を探す。


「秩序だった綺麗なものより、破滅的な方が魔法が乗りやすい感じがする。要するに魔法と混沌は密接な関係がある訳で、ここの悪趣味な石像は、そういう混沌の力をイメージして形にしたんじゃないかな」

「なるほど、魔法使いは露悪趣味、と」


 結局偏見を助長してしまった。


「しかし、魔物がわらわらいるのかと思ったが、案外静かなものだな」

「その代わり野生動物の気配もしませんね。鳥の声すら無いのは少し不安になります」


 囀っていた鳥が急に鳴き止む、という事象は典型的に魔物が出る前兆でもある。


 森の道はところどころで獣道と交差している。

 だから全く生物がいないというわけでもなくないようだ。


 がさり、と獣道の向こうで何かが動いた。


 ロシェは咄嗟に剣の柄に手を掛ける。


 はたして茂みから首を出したのは1頭の牡鹿であった。

 鹿は少しの間警戒の視線をロシェたちに送っていたが、やがて顔を背けてまた獣道の奥へ消えていった。




 しばらく道なりに歩くと、やや開けた空間に行き当たった。


 木立が途切れた空き地の中央には、枝葉を失った大きな木の株が聳えている。

 それは巨大な1本の樹木が倒れた跡地であった。

 立ち倒れてなお見上げる高さのその巨木は、大人10人余りでようやく抱えられるかと思うほど太く、かつてこの木がいかに並外れて大きかったかを雄弁に語っている。


 株は中がところどころ空洞化して樹皮だけを残しつつ、おそらくはまだ生きていて、完全に朽ち果ててはいない。

 苔むし、蔓が這い、着生植物が根を絡ませ、また葉を茂らせ、それらが一体となって初夏の日を浴びる様は神々しく壮麗であった。


 古株の周囲はロシェたちのいる手前の地面より高くなっており、平らに均されて、まるで中央の巨樹を演者とした舞台のようだ。

 壇上までは、風化した石の階段が5段ほど渡されている。


 僧侶2人は顔を見合わせた。


「ここは……」

「もしかして、古代の祭祀場跡……?」


 ロシェは倒れる前の巨木の姿を想像して空を見上げた。


 倒木跡だけでも畏怖を起こさせるのだ。

 この巨木が、その太い幹を隆々と立ち上け、枝葉を広げるかつての様を想像するに、神の依り代、あるいは神そのものとして、祭壇を築かれ崇められても全く不思議はない。


「ここで行き止まりでしょうか」


 ぐるりと祭祀場跡の周囲を回ってみたが、これ以上道が森の奥まで続いている様子はない。


「待て、向こうにまだ彫像がある」


 ロシェは倒木の裏手の茂みに埋もれるようにして立つ石像を見つけた。

 3人の裸体の女性が肩を組んで輪になっている。

 しかし損傷しているのか始めからなのか、頭部が無い。


 そちらの方へ藪をかき分け進むと、また踏み固められた道が現れる。

 そうして、道を見失うのと彫像を見つけて辿るのをあと3度ほど繰り返したところで、道は1体の彫刻の前で三叉路となった。


「ヴェールの上に枝の冠を被って髑髏を持った女性像……死霊神リビティナ像ですかね」

「本当に良い趣味だ。――どの道を行こうか?」

「直観で左」

「奇遇だな、俺も左だと思った」


 道は緩やかな下り坂になっている。


 少し歩いたところで、ロシェは後ろを歩くフェリクスに無言で袖を引かれた。

 振り返ると、フェリクスが側の木に凭れて青い顔をしていた。


「あっ、ごめん。歩くの早すぎたか?」

「……」


 返事がない。

 立ち眩みでも起こしているのか、ぐらりと体が前に傾ぐのを慌てて抱きとめる。


 フェリクスが弱々しく後ろを指さすので、先へ進むのを諦めて巨木の祭祀場跡に戻り、古株の舞台を昇る階段に腰かけた。


「おい、大丈夫か」


 うつむくフェリクスの顔を覗き込んでみる。


「ロシェこそ大丈夫なんですか? 死霊神リビティナ像から先は、冥穴に近いからか明らかに空間の秩序が狂っていて、一瞬気が遠くなりました。白昼夢を見たかと」


 そうは言うが、ロシェは全く何も感じなかった。


「うーん。フェリクスは繊細だなぁ」

「多少その自覚はありますが、ロシェが特別鈍感な気もします」


 おそらく魔法使いとしての訓練の賜物なのだろう。

 複雑な気持ちである。


「ロシェは魔法使いだったとき、こんな風な秩序障害に陥ったことは無かったです?」

「そうだな……」


 確かに、子供のときは無理をして気持ち悪くなることはしばしばあった。

 酷くなると溺れて息が出来ないまま水底へ沈んでしまうような感覚になるのだ。

 だが段々と技術が上がり、加減も覚えていくにつれ、そういうことは滅多に無くなった。


「あるにはあったが、幻覚を見るとか錯乱するとか、精神的なものは無かったな。フェリクスはそういうのもあるのか? どんな感じなんだ?」


 この普段は澄ました微笑を浮かべる男が、そこまで譫妄状態に陥って情緒を乱すことは想像出来なかったが、そぞろ気を起こして聞いてみる。


「アザミの茂る崖を転がり落ちるとか。砕けた硝子片飲まされるとか。胸に釘を何本も打たれるとか。はわらた引きずり出されるとか」

「なかなかえぐい」

「でも逆に喜ばしい幻を見ることもあるんですよ。――さて、心配かけましたね、もう良くなりました」


 フェリクスは立ち上がり、座ったままのロシェを見下ろした。

 顔色も元通りで何ともなさそうだ。


「今日はもう戻ろう」


 ロシェも腰を上げる。


――待て。


 ふいに背後で声ならぬ声が聞こえた。

 これの正体は精霊だろうか。

 だとすると、聞こえない振りをする方が良いのだろうか。


 どうすべきか、戸惑ってフェリクスに助言を求めようと視線を送ってみる。


――視えておるな、神官よ。


 ぎくり、と傍目に分かるほどフェリクスが身を震わせた。

 目が泳ぎ、やがて諦めたようにある一点に焦点を定める。


 ロシェは彼の表情にありありと緊張が走るのを読み取った。


 神や精霊は姿を見られることを好まない。

 不用意にそれを視てしまった場合、その者は呪われ、復讐にあう――。

 ロシェはいつかのフェリクスの言葉を思い出す。


 ロシェは恐る恐る後ろを振り向いた。

 しかし、誰もいなかった。

 だがフェリクスの瞳は何者かの姿を捉えているようだ。

 おそらく、幻覚ではあるまい。


 フェリクスはロシェの袖を掴んで下に強く引いてから、自らその場に跪き、ロシェには視えない何者かに向かって平伏した。

 ロシェも何が起こっているか理解出来ないままそれに倣う。


『話の出来る者が漸く来おったか』


 女性の声だ。

 厳かな微速を保って熟れた艶のある声が、今やはっきりと聞こえて、相変わらずロシェにはその姿は見えなかったが、その声の主が倒木の舞台中央に立っているのを知覚していた。


『吾が神域を荒らす涜神者どもめ、この場で血祭に挙げぬのは慈悲と思え。汝、吾が瞋恚いかりを恐るるならば、汝が重器ちょうきにてこれを贖え』

「――拝命仕りました。我らにご下命なさるいとも高貴なる女神様、御名おんなを浅薄なる我らは何とお呼びすれば良いのでしょう」


 先ほど見せた動揺から一転、フェリクスは異常なまでに落ち着いて返答する。

 ロシェの方が、これは何かのまずい事態になっているのではないか、よく分からなくて怖くなってきた。


『ラシルヴァ。森人たちは吾をそう呼ぶ』


 森の木々の間に低く響く声が、威厳をもって告げた。




 2人は無言で森を出た。


「今の視ました?」


 再び亡霊遺跡に戻ってきたところで、フェリクスは詰めていた息を吐き出すように言った。

 本当は秩序障害の幻だったのではないかと、少しだけ不安げだ。


「見てない。が、声は聞こえた。フェリクスの幻覚ではないよ」


 自分たちは、神に――スラジア神殿の主神と崇めるラシルヴァ神に、確かに会ったのだ。


 フェリクスは肩を落とし、溜息をつく。

 とても神とまみえる神聖な体験をした後とは思われない態度だ。


「おめでとう、これで我々も託宣者ですね。こんな直接的で最悪な神託を聴いたのは初めてですけど」

「すごく怒ってることは分かったが、何て言ってるか正直ちょっと聞き取れなかった」

「この場の命は助けてやるから、何か寄越せと言ってます」


 身も蓋もない翻訳だ。


「森の神域を荒らしたのは俺たちじゃなくて、代官とギニョンだろ」


 涜神者と罵られたのは不本意である。


 毎日祈祷も供物も欠かさないし、生け贄も振る舞うし、自分に落ち度は殆どないはずだ。

 ……そう信じたい。


あるんですよね、神官が逆恨みされるパターン」


 フェリクスがいつもの微笑を浮かべて不吉なことを言う。


 神々にとって、人間とは小さな羽虫のようなものだ、とよく例えられる。

 周りに羽虫が飛んでいれば、その存在には気付くが1匹1匹の区別は付かない。

 ほんの気紛れで叩き潰されてしまうこともある。


 神々と人とはそのような関係であり、祈りは小さな虫のあえかな羽音である。

 しかしその羽音は、神々を動かし得るのだ。


「神々に対する人の罪を贖い怒りを宥めるのが、我々神官の本来の仕事ですよ」


 神官の刃は、魔物を貫き倒すためではなく、神に生け贄の血を濯ぐためにある。


「もしかして、本当にラシルヴァ様が機嫌を直して最後にぱーっと出てきて冥界の穴を塞いでくれるのかな」

「だと良いですね」


 フェリクスの言葉には明らかに何の期待も籠もっていなかった。


「次の満月の夜に、西の森の神域で犠牲式を行います」


 それまで約2週間。

 その間に準備をしなければならない。


「今回は定例外になります。祭主の座をその時だけ譲って下さいませんか。気を悪くしないで欲しいのですが、あなたにはまだ荷が重い」

「ま、そうなるか。是非もない。よろしく頼む、上司ボス


 フェリクスはいつも通りのアルカイックスマイルをロシェに向けた。

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