第7話 ロシェの過去

 祭壇に供えられた生け贄の血は、翌日には藁に吸わせたあと献犧台に乗せた焙烙ほうらくで火に焚べて、目に見えない神々の元へ煙として届ける。


 その天に昇る煙を見送りながら、ロシェは問わず語りに呟いた。


「この丘に立つと、神様の気持ちが分かる気がする」

「あら、なかなか傲慢な台詞ですね」


 フェリクスが応じる。


「いや、俺が神だとか、そう言う意味じゃなくて」


 ロシェは慌てて弁解した。


「あるいは、丘の上に神殿を建てた人の気持ちというか」


 それほど標高は無いものの、スラジアの丘の上に立つと周りじゅうが遠くまでよく見える。

 山の中腹に神殿を構えたナトニの町、木々の植えられた街道、鳥たちが棲家にする小さな林、そして、道で魔物に襲われている人。


「誰かが危険に遭遇していたら、ここでただ見ているだけなんてとても出来なくて、見たならば助けに行かないとって思うんだ」


 自分に傭兵として培った剣を扱う能力があるのならば。

 そのささやかな才能と技量を修得する機会は、もしかしたらここで人を助けるために神様から賜ったのかも知れない。


 戦争で人を殺した罪滅ぼしや、その正当性を今さら求めるつもりは無いが、そうであれば良いと心の奥底で思っている。


「神々のように万事解決とはいかないけれど、元傭兵の流れ者を受け入れてくれたこの穏やかな土地を少しでも守りたいんだ」


 傭兵のときはいるだけで嫌な顔をされたものだが、僧侶の今はいるだけで有難がられるのが、純粋に嬉しかった。

 とくに森人族は信心深くて、僧侶というだけで色々世話を焼いてくれた。


 せっかく居場所が出来たのだ。

 あちこちを転戦して根無し草のようだった自分が初めて落ち着いたこの居場所を助けたいと思っている。


 そこまで言って、ロシェはフェリクスから顔を逸らした。

 自分の考えなど、誰かに語ったことは無かったし、語る相手もいなかったから初めて言葉に出したが、少しだけ恥ずかしくなってしまった。


「つまりは、丘の上に神殿を建てると、神様も上から俺たちを見守りやすいのかなって実感したよ」

「……」


 フェリクスは何かを語りかけようと少し思案しているようだ。

 だが、ロシェは焚き火の煙の先を見上げながら、彼の言葉を待たずして言った。


「でも、ようやく剣を取らない穏やかな暮らしを手に入れたと思ったのに、結局俺は暴力でしか解決出来ていない。その方法しか俺は知らない」


 と肩をすくめる。


「結局俺は傭兵稼業から足一つ抜けられないんだ」


 今更表面的に僧侶らしく振舞ったところで、傭兵としての過去を無かったことには出来ない。

 そんなことは分かっているけれど。


「赤ん坊のときから、俺は傭兵になるべくして育ったんだ。この因果からはなかなか抜けられないものだなあ」

「あれ、僕とお揃いですか」


 フェリクスがやや間の抜けた相槌を打つ。

 確かに彼は代々高僧を輩出する貴族で、生まれる前から僧侶になることは決まっていただろう。


「お前と? そんな華々しいものじゃ断じてない」


 だが、自分の場合は家系とか血統とかは関係ない。

 本当にただの成り行きなのだ。

 それが幸運だったのか不運だったのかは、ロシェにも判断は出来ない。


「俺は、王国の北東アリオロ地方の生まれらしい」

「らしい?」

「生まれた直後に両親と死別したか捨てられたかして、俺は孤児になり、たまたまある傭兵団に拾われたんだ。だから、見ての通り俺は有角の洞角族ではないが、自分の出自が何だかは分からない」


 アリオロは山がちで貧しい土地だ。

 親が貧困や病気で死んでしまったり、子供を育てられずに捨てたり売ってしまうというのはよく行われることだった。 


「俺は実の両親の顔も名前も知らないが、傭兵団っていうのは、戦闘員を世話する女とか、その子供とかも居て、一つの大きな村のようなもんだ。そこで俺は育って、そして12になる頃には傭兵団の一員として戦いに出ていた」


 そのことには何の疑問もなかった。


 自分を拾い養った部隊のために自分も兵士になるのは当然のこと。

 それ以外の道があろうとも考えていなかったし、その一つしか無い選択肢を選んだこと、選ばざるを得なかったことに後悔はない。


 幼い頃から遊びといえば戦争ごっこや格闘で、同じ境遇で育った仲間たちも大勢いた。

 剣技はもちろん、槍や体術、当時最新の猟銃の扱い方も習ったし、戦場で使われる攻撃的な魔法、それも魔物の使うものとは比べ物にならないほどの危険な魔法についても教わった。

 怪我人の運び方とか、応急処置の仕方とかも覚えた。


 それらすべてを捨てて僧侶になろうと決めた。


「あなたの決意を、僕は心の底から称賛しますよ」


 この言葉は嘘でも世辞でもないのが分かる。

 フェリクスは琥珀色の瞳を真っ直ぐロシェに向けて言った。僅かな微笑には優しい色が浮かんでいた。


「……なぜ傭兵を辞めたのか、聞いてもいいですか」

「よくある単純な話だよ。今、アリオロはコルディニア王国になったけど、その時の戦で、大怪我した」


 7年近く前のことだ。


 国境近くでしばしば起こる隣国との小競り合いで、その戦闘ではロシェの属する傭兵団は隣国エクエステル側に雇われ、王国軍に相対して全軍の後方で山を背に布陣していた。

 その背後の山から、王国の山岳散兵部隊の奇襲を受けた。


 勝敗はあっという間に決した。

 傭兵団は反撃もままならず総崩れで遁走し、主戦場は自軍の中央へと移っていった。


 ロシェは三人の兵士を相手取った末、後ろからやってきた誰かに背中を斬られて動けなくなった。

 乱戦の最中で止めを刺されなかったのは幸いだったが、血や火器の煤や何かが燃えた匂いが漂い、怪我人の呻きや死体をつつく鴉と猛禽の争う鳴き声が聞こえるなか、そのまま助けを呼ぶことさえ出来ず、ただ死を待つばかりで横たわっていた。


 その時に、ニウェウスがやってきた。

 怪我人を救護し、死者に祈りを捧げ、惨事におののく精霊たちを鎮めるため、この場を勝利した王国軍がまだ少し居残っているのをものともせず、何人かの支援者を引き連れていた。


 そしてニウェウスと目が合った。

 彼が自分の方へ走り寄って来るのが見えた。


 ロシェが覚えていることはそこまでだった。

 気が緩んで気絶したのだろう。

 次に目覚めたときには、傷を縫われ、体は洗われて、簡素だが清潔なベッドに寝かされていた。


「怪我が治ってから傭兵団に戻る気にもならなくて、ニウェウス師匠に付いて行ったんだ」


 聖人伝説によくあるような、神の存在を現実に強く感じる神秘的な体験をして、それで信仰を深めた訳ではない。

 血縁者もなく、故郷もなく、ただ他に行く当てもなかっただけだ。

 そんなロシェをニウェウス師匠は受け入れてくれたのだった。


 大した敬神もなかったロシェだが、修行僧として師と過ごすうちに、大怪我をしても生き延びたのは、神々が、冥界神オルクスが自分の死を拒んでくれたからかも知れないと思うようにはなった。


 ロシェはきっとオルクス神から余生を賜ったのだ。

 オルクスの神官となって、自らが生き残るために殺してきた人々の魂の安寧を祈り続けるように。



 一方でフェリクスは、その時のアリオロ奪取の戦勝記念で行われた宮廷の華やかな祝宴の催し物ディベルティスマンを思い出していた。


 宴全体に筋書きがあって、古代の英雄が神々の助けを得て邪悪な魔法使いを打ち倒す、という趣向だ。

 最後には敵軍は派手に花火を散らしながら敗走して、野外に設置された仮組みの舞台が大爆発して笑いの内に大団円を迎える。


 その宴で、仲間たちと綺麗に整った庭園を歩き、昼から飲んでは踊り、夜は花火と芝居を楽しんだ。

 懇意にしていた王子もまだ生きていて、それは彼の中では美しく、またノスタルジックな思い出だった。


 だが、真っ先に思い出したそれをロシェと共有することなど出来ようはずもない。

 同情に心が傷んだ。

 彼の生い立ちや既往には憐みも感じたが、これもロシェは決して望んでいないだろう。


 ロシェの佇まいには、温室育ちのフェリクスには想像の及ばないような過去様々の過酷な苦労を、決して不幸なことではないと確信している気配があった。

 過去は過去としてただ事実だけを受け止め、過去の自分を否定することも無しに、それでいていともあっさりと、恬淡とさえ思える態度で捨ててしまう。


 いつか、兄弟子だったニウェウスが約束された綺羅びやかな将来を捨てて、自らの足で自由に行き先を決める行脚遍歴に旅立ってしまったように。


 ロシェのそういうところに紛れもない尊敬を抱いたが、果たしてこの気持ちを伝えたところでロシェが喜ぶかどうか、逆に慰められていると惨めな思いをさせてはしまいか、判断しかねる。


「あなたは少しニウェウス様と似ている気がします」


 それだけ言って、フェリクスはあらゆる感情を、極めて自覚的に、いつものアルカイックスマイルに押し込めた。


 ロシェは、無自覚だろうか?

 その仮面のわずかな隙から一生懸命に本当の感情を読み取ろうとしている。

 実際どのように彼が解釈したかは、フェリクスの預かり知るところではない。


 ◇◇◇◆◇◇◇


 あるとき、ロシェがスラジア神殿の前庭で、うらうらと気候も暖かく天気も良いので、枝を広げるザクロの木陰に置いた折り畳み椅子に腰を降ろして無心に剣を磨いていると、近くで誰かが草を踏む音を聞いた。


 だが周りを見渡しても誰もいない。


 風の音かと合点して再び剣に目を落とすと、また茂みがこすれるような音がするので、顔を上げて蛇か獣でも出たのかときょろきょろと音の出所を探す。

 が、甲斐なく何も見つからなかった。息をついて改めて刃に砥石を滑らせる作業に戻る。


 すると今度は、若い女性の忍び笑いと微声がどこからか聞こえてきた。


 ――いロシェ……たす……りがとう……


 精霊の声だ。

 何となくそう思って、これに関してはそのまま何も気付かないふりをして剣の手入れを続ける。

 それが、神や精霊に対する基本的な礼儀だからだ。

 彼ら神霊の類は、自ら人間に干渉してきたとしても、人間から直接見られることを嫌うのだ。


 ――るわよ、頑張り屋さんのロシェだもの。


 何やら褒められているらしい自分の名前だけははっきりと聞こえてしまい、心臓が跳ね上がった。

 防刃用につけた皮手袋の中で変な汗が出るのを感じる。

 どうにか反応を見せないように、手の震えそうになるのを抑えて必死に平常心を装う。


 剣の刃を軽く研いだら、刀身に油を塗り、布で拭う。

 それで一通りの作業は終わりだが、ロシェは必要以上に布を持つ右手の動作をゆっくりと反復した。


 ――可愛いロシェをあまりからかっては駄目よ。

 ――あの子は? あの新しい子は。

 ――彼は手慣れているわ。この間わざと目を合わせてやったら、そっと目を伏せて秘密の挨拶を返したし。

 ――1人の時に話しかけてみたら、まるで私が女神様かのように優雅に膝を折って。

 ――彼が角を失くしたオルクス様の……

 ――ルクス様が……になって……たそう……

 ――もし……オル……わたしたちを……かしら……

 ――……様は……の森を……


 声はだんだんと遠ざかるようにして消えていき、やがて完全に無くなり、ザクロの枝が時折吹く風に揺れる音だけになった。




「フェリクスはこの辺りで精霊って視たりするのか?」


 あとでロシェは精霊の会話を思い出して、フェリクスに尋ねてみた。


「神殿の周りではよく見えますね。遊び半分に向こうからわざわざ姿を見せてきます」


 フェリクスは苦笑いしながら答えた。


 本当は人間は神や精霊を視ないことが、彼らに対する人間の正しい立ち居振る舞いのはずなのに、彼ら自身がそれを破らせてくる。

 それでいて、人間の視線に臍を曲げる気まぐれもあるから面倒である。


「俺は気配だけで、全然見たことないんだが……」


 精霊たちの声を聞き、彼らの"機嫌を取る"ことも僧侶の仕事だ。

 精霊たちが穏やかに暮らしていれば気候も穏やかになり、精霊たちの気持ちが荒れていれば土地も荒れる。

 精霊の気まぐれ次第では、作物の生育が悪くなったり、家畜の健康が害されたりもするものだ。


 精霊たちの話によれば、ここへ来て日の浅いフェリクスは既に彼女らと個人的に交流しているというのだ。

 自分はこの間初めてはっきり声を聞いただけだというのに。


 自分の実力不足を感じてしまい、自分に少しがっかりしている。

 同時に安々と無言の対話を交わしているらしいフェリクスを羨ましくも思う。


「どうすれば精霊は視えるんだ?」


 フェリクスは口元に手を当てながら首を傾げて、どう説明するのが良いか思案を巡らせた。


「この世界のそもそもの成り立ちから考えましょう。この世界は神々や精霊、死者の魂など、様々な異なる秩序が重なりながら、互いに交じり合わないように働いています。だから、彼らの姿は、生者の秩序の上にいる我々の知覚では、普通捉えることが出来ないのです」


 ここまで慣れた様子で淀みなく語ったフェリクスは、きちんと理解しているかどうか、少し探るような目をロシェに向けた。


「神霊や精霊の類いは、いつもすぐ隣にいるけれど、異なる秩序で存在しているから、普段は目に見えないって事だろう」


 異なる秩序同士が揺らいでぶつかるときに、神霊の類は見える。

 それは何度か師匠からも聞いた話だ。


「だから、僕たちに流れる秩序を、異なる秩序の次元に合わせるのです」

「……うーん?」

「楽器は弾きます?」

「リュートなら少し」

「それは素晴らしい。つまり、全ての弦が完璧にうねりが無くなるよう糸巻きを捻るみたく、世界に、異なる秩序に自分を調和させること、世界の音程に身を委ねること。とか良く言われますね。そのため、その行為はあるいは“調律”とも呼ばれます」


 自分は楽器をやらないので完全に受け売りだけど、とフェリクスは肩をすくめて微笑を浮かべた。


「うーん。……分からん」

「とは言え、人体を“調律”して無理やり神霊の類を視るというのは人間にとっては危険な行為です。我々にはその能力が確かに備わっているけれど、見られることを望まぬ神を不用意に垣間見た人間が、その神の復讐に合うのは神話の定番です。下手すると国家単位で呪われると言われますから」


 意外と神話的に壮大な話になってしまった。


「参考までに、フェリクスはどうやって体得したんだ」

「自然と出来るようになったかな。僕は、どちらかというとうっかり見えてしまうのを見えないようにする方で」

「うわ、一番参考にならないやつ」


 フェリクスは、あくまでもこれは得意科目の一種であって、特別な才能ではないし珍しいものでもないと言うが、これが家柄や血統の違いというものなのかもしれない。


上司ボスが僕の高貴な血筋を羨むのは構わないけれど、自分を卑下する必要はないですよ。見えるから偉いって訳でもないし、見えないから問題がある訳でもない」


 そうはいうものの、やはり神々の姿を視、精霊と会話をする方が練達の僧侶という感じがする。


「まあ、最も手っ取り早くほぼ誰にでも確実な方法があることを、祭主として覚えておいても良いでしょう」

「やった」

「麻薬を服用することですね」


 曰く、ある種のキノコや薬草には、摂取すると感覚を麻痺させ、幻覚を催すものがある。

 これは、その毒が人体の秩序を乱して全く別の秩序に一時的に変えてしまうからだと言われ、大昔から重要な儀式に臨む神官たちに利用されてきた。


 このような植物の力で神々を見ることは、あくまでも自然の作用であって人間の権利を越えたものではないために、神々からも許されるのだと考えられている。


「それってひょっとして、用法用量を守って正しく使わなかった場合……」

「死にます。死なないまでも、人体の秩序が元に戻らずにそのまま廃人になったり、死んだ方がましなくらい酷い幻覚を見続けたりします」


 祭儀でのこのような事故が後を絶たないので、王国の法律では使用を禁止されている。

 だが、神々と交感するための昔からの儀礼を変更するのは難しく、限られた参列者で隠れて執り行う密儀として、相変わらず消費されているのが現状である。


 フェリクスは簡単な方法だと言うが、幻覚性の植物を使用する場合はその正確な知識と経験が必要なので、ロシェがすぐさま実行できるような代物ではないようだ。


「怪我や病気に利く薬草の使い方とかはあったけど、麻薬云々は師匠には一切習わなかったな」

「ニウェウス様は、危険な薬草を服用しての儀式に明確に反対していましたから」

「反対派もいるんだな。フェリクスは?」

「僕自身の意見はありません。現実問題、薬の知識や儀式での使用は上級神官の特権でもありますし、人間だけでなく危険な大型の生け贄に与えるなど、正しく使うならば大いに有用ですので、この文化が無くなることはないでしょう」


 フェリクスは淡々と薄い笑みを口端に浮かべたまま続けた。


「然るべきときには使うだけです」


 この点に関しては、彼に遵法精神はあまり無いようだ。

 おそらく、これは他の多くの神官と同様の態度なのだろう。

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