第6話 定例犠牲式
その日の午後になると、3人の森人の大工たちが犠牲式のため神殿の前庭に集まってきた。
7日から10日に1度、ロシェは森人たちと共に、生きた動物を供犠している。
生け贄に使われる動物は、大抵が市販の鶏やアヒル、時々生け捕りに出来た野兎や鴨、ごくたまに子羊や子山羊などだ。
前庭の両脇には人の背丈を超える高さに育ったザクロの木が数本並んで植わっていて、参列者たちは枝を広げて影を作る木の下に陣取って、供犠が始まるのを待っている。
「今日の生け贄は鶏なんですね」
ロシェが犠牲用の鶏を籠ごと運んでいると、井戸水を撒いて式場を浄めていたフェリクスに横から声を掛けられた。
「儀式の8割方は
ふと不安になって、ロシェはフェリクスに尋ねてみた。
適切な生け贄の選定は祭主の仕事だ。
生け贄となる鶏は、出来るだけ羽毛は艷やかに、とさかの色も健康そうで、傷があってはならない。
師匠からはそう教わったから、毎回丁寧に選んでいるつもりである。
フェリクスが籠の中身を吟味し、特に指摘事項は無いと頷いたので、ロシェは少し胸を撫で下ろす。
「ちょっと手も見せて貰えますか」
何を確認したいのか意図は分からなかったが、籠を置いて手のひらを見せてやると、フェリクスはこれも目を近づけてしげしけと観察しだした。
何か剣だことかが珍しいのだろうか。
確かにフェリクスの手は荒事はおろか、労働をしない人間の手をしている。
「裏も見せて。……手に傷は無いようですね。いつも剣なんか振り回すから、怪我でもしていないかと。ニウェウス様にも教わったかと思いますが、手に怪我したまま犠牲式を行うのは良くないですから。もちろん傷が出来たら供犠はやっていないですよね?」
「……」
確かにそう教えられたが、ロシェはちょっとくらいなら良いだろうと思っている。
「その顔はちょっとくらいなら良いと思っている顔ですね」
神官は、生け贄の動物の血を神に捧げる。
それと神官自身の血が混じるのは極めて不吉とされている。
即ちそれは人間の血を捧げることを意味する。
そのため神官たちは生け贄の喉を掻き切るときにも、自らを傷付けないように最新の注意を払う。
もしも犠式の最中に神官の血が流れたならば、神がその者の血と命、つまり死を望んでいるものと解釈された。
「だってこの神殿で犠牲式を催行出来るのは俺だけだったし、それに肉食べたいし」
血を捧げた後に残る生け贄の肉は、その場で焼いて儀式の参加者皆で食べるのが一般的な式の段取りだ。
普段から倹約して生活するロシェにとってはこの時は肉を口にする絶好の機会である。
「最後が本音ですね、全く」
犠牲式は焼肉大会じゃないんですよ、とフェリクスは呆れ混じりではあったが、むしろ若者らしい食欲を面白がっているようだ。
「肉くらい普通に食べれば良いのに」
「人に施して貰って暮らしてんだ、それで贅沢なんて出来ないだろ」
フェリクスはロシェのあまりの模範解答にぽかんと口を開けて息を呑んだ。
これほどあからさまに驚いた表情を見せるのは珍しい。
「……素晴らしい清貧ですね」
この言葉は皮肉無しの心の底からの称賛のようだった。
犠牲式を行う神殿の前庭には、おそらく建造当初から置かれていた石の献犠台があった。
長く使われないまま風雨に晒され、周囲に施された浮彫は痕跡だけを残して元の図像が読み取れない程に削れている。
しかしほとんど白に近い灰色のまだら模様の石目は、それだけでも美しかった。
「これより、スラジア神殿のロシェが祭主として、犠牲式を催行します。秩序遍く
献犠台の上に脚と体を縛った鶏を押さえつけて、手にした儀式用のナイフで素早く喉を切ってしまう。
そのまま生け贄が動きを止めるまで待つ間に、石の白は血の赤に染まっていく。
台には僅かな傾斜が付けられており、血は左手前の一隅へと流れて、下に設置された黒色の炻器の壺に滴り落ちる。
そのとき、誰かが目の前を、 献犠台と神殿の間を横切った。
いや、正確には視野の端でその気配を感じた。
それは、儀式中には絶対にやらないことだ。
驚いて目を上げて、その人物が今移動したと思われる先を見遣ると、そこに人が、白い衣を翻して崖の上から飛び降りるのを見た気がした。
それから、女性の悲痛な泣き声が聞こえた。
しかし、それは明らかに空耳だった。
その声を、自分の耳は決して音声として知覚していないのをはっきり認識しているのに、それでも女性が嘆きに喘いでいるのが分かるのだ。
儀式の際中に合理では説明がつかないちょっとした怪異事象があることは、珍しくはない。
例えば、置かれたままの楽器がひとりでに鳴るとか、聞こえるはずのない物音、声や歩く音が聞こえたり、いるはずのない人や動物の姿を見たり、つむじ風やあちこちで巻き上がるそよ風、逆にぴたりと風がやみ、火が消えたと思ったら突然燃え盛るといったようなことがしばしば起こる。
そういう時は、下級の神たる精霊たちが生け贄に何らかの反応を示しているのだと思われた。
そうした怪異は気さくな精霊たちが人にちょっかいかけているだけであるので、普段は気に留めることはない。
しかしこの日は、この泣き声は、どうしても胸騒ぎがする。
「フェリクス、ちょっと来てくれ!」
献犠台の上で鶏を逆さ吊りにしたままロシェが呼ぶと、傍らに控えていたフェリクスが目をしばたいて不思議そうに寄ってきた。
彼には嗚咽が聞こえなかったのだろうか?
「続きをよろしく頼む」
まだ血も滴る生け贄と祭儀用のナイフを突然に差し出されて、微妙な顔をして驚くフェリクスであったが、ロシェがしきりに“見えない何か”の行方に気を取られているのを悟ると、そのまま頷き黙って受け取った。
両手が自由になるや、その手をロシェは予め用意されていた手洗い用の水盆に突っ込み、適当に擦ったあと水気を儀式用の
「この後の式は副祭主としてフェリクスが催行します――」
走るロシェは背後でフェリクスの落ち着いた声を聞いた。
神殿の裏手の井戸に立て掛けてあった剣を取って、鞘から抜きながら人が飛び降りた辺りを見下ろす。
すると街道沿いの木の下に追い詰められるように、髪の長い女性が野犬の姿の魔物に襲われているのが視界に映った。
そのままつづら折りを半ば滑るようにして大急ぎで駆け降りる。
とにかく、魔物の注意をこちらに引き付けなければ。足元の小石をいくつか拾って野犬に投げつける。
「俺が相手だ!」
大声を出して威嚇すれば、まんまと野犬はロシェに牙を剥いて向き直った。
「こいつは俺が何とかするから、神殿まで上がるんだ!」
この野犬型は魔法をあまり使わない。
ロシェはわざと目の前で大きく剣を振って野犬を怒らせてから、今度は背中を見せて裏参道の崖から離れるように逃げ出した。
これで魔物はロシェを追い掛けてくるはずだ。
その隙に女性はこの場を脱することが出来るだろう。
裾を引き摺る祭服を着ていて、足捌きが悪い。
片手で裾を押さえ、転ばないぎりぎりの速さで走る。
直ぐに追いつかれることは分かっているが、なるべく遠くに行かなければならない。
背後で野犬の荒い息の音が近くなってくる。
祭服でなかったとしても、足は相手の方が速いのだ。
完全に距離を詰められる前に身を反転させて、迎え撃つ。
魔物が飛び掛かるのを辛くも避けて攻勢をかければ、剣の切っ先が野犬の腰辺りを浅く薙ぐ。
それからしばらくは睨み合い、攻撃を仕掛けては反撃を避けて離れ、双方とも決定的な一打を与えられないまま時間が過ぎていった。
やがて野犬は、じりじりと後退し、それから戦意を失って踵を返し、そばの林の中へと逃げていった。
今は深追いは止めよう。
ロシェはほっと息を付くと周囲を見回し、女性がどこにもいないで無事に逃れたのを確認すると、また裏参道を登って神殿に戻った。
前庭では既に犠牲式は進んで、祈祷の奏上も終わり、鶏はその血を全て炻器の壺に空け、血で満たされた壺は綺麗に片付いた献犧台の上に捧げられていた。
残った肉は捌かれて串を打たれ、火に掛かっていた。
炭火に垂れる油の音と共に、ハーブやスパイスの薫香が漂っている。
辺りを見回しても、女性の姿はなかった。
魔物の襲撃現場にはもういなかったから彼女は無事に逃げられたと思ったのだが。
だが、女性にも不審な点はあった。そもそもこんなところを1人で出歩く女性などいるだろうか?
「フェリクス、ここに髪の長い女性が上がって来なかったか?」
「いいえ」
助けたい一心で魔物に立ち向かったが、彼女は、本当に人間だっただろうか?
「――俺が鶏の首を切ったとき、誰か前を横切らなかったか?」
「人間は、通らなかったですよ」
「泣き声は? 聞こえたか?」
「それは聞こえなかったですね」
ロシェは今しがたあったことを、真実は分からないまま、自分が見た通りに話して聞かせた。
誰かが目の前を通ったこと、その先に魔物に襲われる女性がいたこと、助け出したはずだが姿が見えないこと。
「精霊たちがあなたに助けを求めたのでしょうね。式を中断してあなたが救援に向かうことを、彼女らは十分知っているのでしょう」
「犠牲式を途中で放り出したことは申し訳ないと思っている。でもありがとう」
フェリクスならば急に何も説明出来ずに引き継いでも、状況を理解して祭儀を続行出来るだろう、という信頼が何となくあって、それに甘えてしまった。
「やっぱりまずかったかな」
「さあ?」
フェリクスは少しだけ意地悪く微笑んだ。
「それは神々が判断することです。が、僕はあなたが正しいと思いますよ」
森人たちも集まってきてロシェを迎えた。
ロシェは彼らにももう一度、野犬を追い払った話をして、儀式の途中放棄を詫びた。
結局その場の一同で、ロシェは魔物に虐められていた精霊を助けたのだ、と結論付けた。
「よし、
森人たちから、焼き上がったばかりの串焼きの1番良い部位を渡される。
食欲をそそる香りに、十分冷めるのも待てずに熱々のまま一口齧る。
大蒜に胡椒に
「えっ、焼き加減うまっ」
「何年生け贄焼いてると思ってます?」
当然です、とフェリクスは満足げに微笑んだ。
「全然料理出来ないと思ってた」
むしろ使用人に任せられる身分なので、自炊能力のないことを誇りにさえ思っていそうだ。
「料理は出来ないですけど、これって料理ですかね」
だから犠牲式は焼肉大会ではないんですよ、と再びフェリクスは呆れ顔を見せた。
料理といえば料理だが、確かに生け贄の儀式を料理と認めるかどうかは議論の余地がある。
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