第5話 冥界の穴

 幾日かが過ぎた。


 フェリクスは大体決まった時間、朝8時すぎに登殿してくるようになった。

 が、定刻をかなり過ぎても来ないときがある。


 そういうときは、ロシェは神殿の丘の上に登ってナトニの街の方に目を凝らしてみる。

 すると必ず街道に魔物が徘徊しているのが見える。

 それで魔物を恐れて誰も通れなくなっているのだ。


 魔物が近くにいれば、ロシェが駆け付けて剣でもって撃退するが、遠ければ人々の安全を祈りながらナトニの街から誰か武人が出てくるのを見守る。

 大抵は市壁の上にも見張りがいるから、そのうちに魔物は打ち払われて、また人が往来できるようなる。


 ある時、丘の上から近くをうろつく魔物の姿を見つけたロシェは、急いで降りて小屋へ戻ると、中で休憩しているフェリクスに声をかけた。


「おーい、フェリクス、手伝ってくれ!」


 この日の朝もフェリクスの到着が遅くて、道端に湧いていた大きな兎のような魔物を追い払ったところだ。


 この魔物はとてもすばしこく、俊足を活かして距離を取りながら火の玉とか氷の塊とか、様々な魔法で攻撃してくる。

 なかなかこちらからは近付けなくて、何度も出没するたび、長い棒を振り回したり投石したりして脅かすのがやっとだった。


「多分さっきのやつだ。今度こそ仕留めてやる」

「何でしょう――って鳥撃ち銃ですか? あなたそんなものまで扱えるのですね」


 顔を上げたフェリクスはロシェの新兵器に、身を引きながら目を丸くした。


「そんなに得手じゃないから、あまり使いたくはないんだが」


 棚の奥から取り出した猟銃に、火打ち石の調子を確かめてから散弾と火薬を装填する。

 それほど自信は無いが、剣が届かない以上こちらも飛び道具で対抗するしかない。


「では作戦を伝える。フェリクスはウサ公から狙われないようになるべく気配を消すこと。あと万が一弾が当たると死ぬから、俺と魔物との間には絶対に立たないこと。出来れば俺の後方にいて欲しい。ウサ公は魔法の力で加速するから、それを封じれば隙が出来る。そこを撃つ」


 唐突な軍隊式にフェリクスは大きな溜息をつく。


「僕は僧侶であって、魔物退治は僧侶の仕事じゃないんですよ」

「怖いなら無理強いはしない」

「やれやれ。行きますよ、上司ボス


 フェリクスは再びわざとらしい溜息をついて立ち上がった。




 大兎は耳が良く、視野も広い。

 こちらが相手を見つけたときは、大抵相手からこちらも見えている。

 まだ遠くから足音を忍ばせているというのに、兎は立ち上がって後脚を地面に何度も打ち付けて既に警戒態勢を取っていた。


 ロシェは足元に落ちていた石ころを拾って兎に向かって投げつけた。

 兎はぴょこりと軽く跳ねて石を避け、それから今度は毛を逆立てて自身の周囲に火球を3つ出現させた。

 時間差を付けてロシェに向けて繰り出されるその火の魔法を、2つは横に避け、最後の1つはフェリクスに威力を封じられて熱風に変わったところを正面から突っ切って、銃を構えたまま兎まで一気に間合いを詰める。


 しかし兎は地を蹴り、目にも止まらぬ速さで、それこそ弾丸のようにロシェから離れていく。


「フェリクス、あれだ、止めろ!」

「やります……!」


 直後、兎が魔力を失ってその場に転んだ。

 そこを狙ってロシェは猟銃の引金を引く。


 発砲音に驚いたフェリクスの小さな悲鳴が後ろから聞こえた。

 散弾の一部は命中したようだが致命傷にはいたらず、まだ兎は魔法を使おうともがいていた。

 ロシェは魔物まで走り、容赦なく首を踏みつけて押さえ込んで、鞘から逆手に引き抜いた剣を突き刺した。


 ついにやった!

 ロシェは拳を握って勝利を噛み締める。次いでフェリクスを振り返ると、そのままその拳を彼の方へ差し出してみせた。

 フェリクスは、ぱちぱちと気の抜けた拍手で祝福した。


「冒険者にでも転職するつもりですか」


 フェリクスは嫌味な態度を隠そうともせず言った。

 確かにいっそ冒険者として登録して、魔物退治の報酬を貰った方が良いかも知れない。


「祭主って冒険者の副業してもいいのか?」

「僕らの宗派は副業自体を禁止してはいないですけど、冒険者は良くないですね。無頼者をさも社会的地位があるように言い換えた言葉ですから」

「本音を言えば、無頼漢と俺と、紙一重だと思うんだよな」

「やれやれ。上司ボスは祭主としての自覚が早く芽生えると良いですね」


 フェリクスは大変わざとらしく溜息をついた。


 ◇◇◇◆◇◇◇


 またある日もフェリクスの到着が遅かった。

 と、ロシェが気付くと同時に、ばたばたと庭先を駆けてくる足音が聞こえてきた。


 振り返れば、助けを求めながら慌てて逃げる行商2人がおり、すぐ先に大蛇の姿をした魔物と、そのもっと先で色を失ったフェリクスが睨み合っているのが見えた。

 彼は行商と共に行動していたが、街道の横合いから魔物に奇襲されたのだろう。


 蛇とフェリクスにはまだ十分に距離はあった。

 だが、フェリクスが道を外れて迂回しようとしても、蛇はもたげた鎌首を、彼が動いた分だけぐるりと回して、狙いを定めるのを止めようとしない。


 ロシェはフェリクスに向かって手を振ってやったが、彼は蛇から目を離せないようだ。


 蛇型の魔物は少し厄介だ。

 背が低く、草むらに潜んでいるのが分かりにくいし、気付いた時にはかなり近付かれていることも多い。

 幸い口から覗く鋭い牙に毒はなく、見た目ほど動きも俊敏ではないから、先に視認するか初撃を躱してしまえば、そう怖い相手ではない。

 ロシェにとっては。

 だが蛇嫌いには、この巨体だけでもおぞましさ無限大だろう、とロシェはフェリクスに同情した。


 蛇がぬっと前進する。

 同じだけ後退るフェリクスだったが、その足元の地面が蛇の魔法でふいに盛り上がり、足を取られてよろけてしまう。

 追い打ちを掛けるように蛇は土塊を魔法で持ち上げ、フェリクスにぶつけようとした、そこへロシェが斬り込んできて、蛇の首を刎ねた。


 行商2人は礼を言ってロシェに幾ばくかの賽銭を渡し、無事を賜った神恩のお参りにスラジアの裏参道を登って行った。


「自分に向けられた魔法も“秘密の特技”で封じてしまえると良いな。前の兎やドラゴンみたく」 


 ロシェは剣を拭って鞘に納めながらフェリクスに言った。


「そう簡単に言ってくれますけどね」


 戦闘慣れしていないので、直接に害意を向けられれば恐怖が心を捉えるし、平静でもいられない。

 それは仕方のないことだとロシェも思う。


 だが、彼の魔法封じが上手く機能したときは効果は絶大で、とても心強い援軍となった。

 魔物の放つ中、遠距離からの魔法を無効化して、移動魔法も阻害するので剣の間合いまで安定して詰められる。

 ニウェウス師匠の紹介はまさに適材適所だった。


「そういえば“秘密の”って言っているけど、ニウェウス師匠もその必殺技を知っているのか?」

「知らないはずですよ」


 積極的に隠している訳ではないのだが、特に言いふらしたいとも思わないし、その必要もないから結果としてほとんど誰にも言っていないという。


「僕もこんな隠し芸が役立つなんて思ってもいませんでした」

「師匠の勘も神懸ってるよな」

「……僕はニウェウス様は託宣者なのではないかと疑っています」


 託宣者――即ち万知万能の神自らが直接その者に言葉を授け、その意思を伝える者。

 世界各地には、神託を告げることの出来る神官が存在していて、世の中の崇敬を集めている。


「師匠が? 変人だとは思うけど、そんな荘厳な感じはしなかったけどな」

「彼は、それなりに尊敬はされているけど奇行で有名です。時に突飛で非合理なその行動が、生来の性格によるものなのか、もしかしたら人知の及ばない神々の言葉に従っているためなのかも知れない、と思うことがたまにあります」

「いや、奇行ってほど人間辞めている感じでもないぞ」


 師匠の名誉のために、そこは強調しておく必要がある。

 極めて人間的な、心の暖かい人だとロシェは思う。


「最近の奇行で言えば、例えば、まだ一人前になったかならないかの若い僧侶を1人で神殿の祭主として置き去りにするとか」


 そしてスラジア神殿に置き去りにした後で、急に魔物が増えだした。

 つまり、ニウェウスはこれを予知して、廃墟同然の神殿に新しい神官を立てたのではないか?


「普通はね、どんなに小規模な神殿でも、土地付きの神官2人は備えるものです。

 これは人身御供がまだ当たり前に行われていた古代に、1人が生け贄に選ばれても、もう1人が残るようにという昔からの風習に由来するのですが、人間の生け贄が野蛮な殺人罪として法律で禁止された今世でも、神官1人だけというのは忌避されています」


 呼び寄せた2人目の神官フェリクスは、ニウェウスの求めに応じて足を運ぶ縁といとまがあり、かつ魔物に対抗して魔法を封印できた。

 ニウェウスはこれを神からの宣託で全て知っていたのではないか、というのだ。


「とはいえ、自分自身が襲われたときは動転して封印が使えなくなるというのは惜しい」 

「だから魔物退治は僧侶の仕事じゃないんですよ。何ですか、田舎ってこんなに魔物が多いものなんですか。ある意味、原始的なノスタルジーすら感じます」 


 まだ人類が未発達で、隣り合わせの魔物たちに怯えながら暮らす原始人のようではないか。

 フェリクスの嫌味は止まらない。


「はあ、僕も真面目にお祈りしよう」


 別に普段から不真面目という訳ではなかったが、目下のところ、武器を扱えない人間にとっては、神助を請うのが手っ取り早い防御手段となる。


「3日と置かずこんな頻度で魔物が出没するなんて、いずれの神がお怒りなのか。近くに“冥界の穴”が空いているのかも知れませんね」

「冥界の穴……冥穴って本当に実在するんだ」


 ロシェの何気ない一言に、フェリクスはいつもの微笑は崩さず、しかし一瞬目を見開いた。

 喉元まで『当然でしょう』とか『知らないのですか?』とか出かかっているような顔だ。


 ロシェは、僧侶の仕事にまつわることは、独り立ち出来る程度にはニウェウス師匠から伝授されたつもりではいるが、自分の半可通を指摘されたように思えて少しだけ動揺した。

 無知を咎められるのではないか、ほんのり疑心暗鬼になってしまったが、フェリクスは元の微笑のまま続ける。


「普段は禁域とされて一般の人は本物を見ることは滅多にないですからね、貴方が知らないことは恥ではないけれど、ニウェウス様は冥穴について、貴方にどう仰ってましたか」


 突然始まった口述試験で更に動揺するロシェ。

 フェリクスみたく幼少期から教科書片手にじっくり勉強している訳ではないのだ。


 しかしここで正解を答えないと、きちんと教えない師匠が悪いという流れになってしまう。


「冥界の穴といわれるのは、そこから死者がこの秩序に戻ってきてしまうから。逆に生者はくぐると死者の秩序に落ちて二度と戻ってこられないとか」


 いや、これは日常生活で覚えておくと為になる知識にすぎないのであって、フェリクスが求めているのはもっと教科書的な専門知識だろう。


 実際のところ教科書に何が書いてあるかは知らないから、ロシェは慌てて師匠の言葉を思い出す。

 と言っても、何かの日常会話で何となく話した内容で、教科書的に教義を教授された訳ではない。

 師匠は確かこう言った。


「この世界の秩序は揺らぎ、揺らぎながら同時に元の状態に在ろうともする。しかし、異なる秩序がぶつかった結果、元に戻れないほど壊れて混じり合ってしまうと、秩序が裂けて穴が空いてしまうのだ」


 秩序が歪んで、冥界と空間が繋がってしまったと言われる裂け目。

 混沌に浮かぶこの世界の秩序が綻び、部分的にまた混沌そのものへと戻った状態である。


 虫食いのようにこの冥穴が広がって、大いなる秩序の神の到来を待たずに、世界はまた全て混沌へと沈んでしまう、という終末思想もある。

 オルクス神官にとっては、それは異端ではあった。


 冥界神オルクスは、秩序の神だ。

 死者の秩序を司り、正しく死者と生者を分ける。

 世界に空いた冥界へと繋がる混沌の穴を塞ぐ権能が、オルクスにはあると信じられている。


 オルクス神官たるニウェウスが弟子に実物を見せに行かなかったことは疑問だ、とフェリクスは首をひねった。

 冥穴巡礼は中堅僧侶の修行の定番である。

 たまたま旅の途中で見せるべき冥穴が無かったからなのか、後で知ればいいと思っていたのか、単純に忘れていたのか、興味がなかったのか、どの可能性もあるのがロシェの師匠だ。


「神々が人に対して不満を表明したいとき、あるいは罰を与えたいときに、敢えて冥界の穴を開けて魔物を生み出し、人を襲わせることもあるのです」


 そうすれば秩序の安寧を願う人間の関心が神々に向かうことを、神々自身が知っているのだ。

 神々の存在は、人間にとって益になることも害になることもある。

 そういう点では野生動物と変わらないとも言える。


「とにかく、穴があるなら塞げばいいんだな?」


 混沌は魔物を生むのだ。


 だが、この素朴な急功近利にフェリクスは今度はくすりと笑った。

 もしかして、ロシェは自力で塞いでしまおうと闇雲に先走るから、師は敢えて教えなかったのかもしれない。


「僕たちは塞ぎませんよ。そんなことが出来るのは神々だけです。この世の秩序を自在に変えていいのも。人の身で秩序を変えた者、あるいは変えようとした者は、いかなる英雄でも、いつも神々から手酷い復讐にあうことになっています、神話によればね」


 全否定されたうえに鼻で笑われて意気消沈するロシェであったが、フェリクスはまた頭の中の教科書を読み上げる。


「太古の昔、この世界が混沌から浮かび上がったばかりの頃、秩序は今よりも不安定で、世界のあちこちでまだ沢山の穴が空いていました。

 その混沌だらけの世界に住む古代の人々は、冥界の穴を見つけるとそこに神殿を立てて神々を祀りました。祀られた神々は人の願いに応えて穴を塞ぎ、秩序を整え、冥穴から湧く魔物たちも調伏して、少しずつ人が安全に住める土地も増えていったのです。

 そのほとんどが狂った秩序に覆われていたこのコルディニアの国土も、こうして広がっていきました。今でもかつての冥界の穴を塞いだという縁起を持つ神殿は王国各地に多く残っています」


 フェリクスの生まれ故郷であるオルクス大神殿のある宗教都市、王国の西端に位置する聖都サンノルドのさらに西側には、まだそうした混沌の残る『聖なる森』が広がっている。

 このオルクス大神殿こそが、西側に広がる混沌から王国を守る神秘な防壁なのである。


 フェリクスも修行時代は、冥穴巡礼に秩序の狂った原初の森に踏み入って死ぬほど怖い思いをしたそうだ。


「つまり……冥穴を見つけて、そこに神殿を新しく建てる?」

「どうなんでしょうね、これは神話であり歴史の話で、流石の僕も新しい冥穴を発見したことはないし、神殿を建てたこともありませんので」

「神殿新築はきついなあ」

「まあ、あなたの政治力ではまず無理ですね」


 フェリクスは普段通りの曖昧な笑みを浮かべてスラジアの丘を見上げた。

 神殿の建立、大規模な供犠祈祷などは、政治と金の問題でもある。

 王国で権力の中枢に神官たちがいるのは、そういうことだ。


 より良い祈りのためには金と権力が必要で、金と権力は祈りでは手に入らない。

 宮廷神官の主な仕事は、折に触れて行われる美々しい祭祀の他に、世俗の権力の座を保ち続けることだ。


 その闘争の熾烈さを考えると、純粋な信心から再建され、良心のみによって運営されているここスラジア神殿は、信仰の本来の在り方をしているのかも知れない、とフェリクスは思うのだった。

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