第4話 フェリクスの秘密

 翌朝、ちょうど明るくなってきたころ、ロシェはいつものように目を覚ますと、身支度を整えて神殿に上がった。


 扉の鍵を開け、供物を新しいものに取り換え、祈りを捧げる。

 それから祭壇から下げたばかりの、小麦粉を蜂蜜と油で固めて焼いただけのお菓子を朝食替わりにもそもそ頬張りながら、街に帰ったフェリクスが登殿するのを待つ。


 フェリクスはトニトゥルア神殿にほど近い一画に下宿を決めていて、昨日は日の沈まない内に帰って貰った。


 子供ではないとはいえ、暗くなってから一人で街と神殿を移動させるのは自分が心配だ。

 だから何かで帰りが遅くなったときのために彼ひとりが泊まれるように用意をしておくのは、上司ボスの仕事かも知れない、と思い付きつつ、菓子でぱさぱさになった口に、神殿の裏手の井戸から汲んだ冷たい水を流し込んだ。


 昨日あえて何も触れなったのだが、ニウェウス師匠の手紙にはフェリクスについて、『宮廷神官副祭主なので実力は保証する』とさらっと書いてあった。

 元というのは、つまりその高貴な官職を既に辞しているということだ。


 単純な好奇心から、一体どういう経緯で王宮勤めの元宮廷神官が、田舎祭主の部下を務めることになったのか、気になって仕方が無かった。

 手紙で教えられたということは特に秘匿すべき情報でもないのだろうが、安易に問うても良いものかどうか、悩むところである。


 いや、すでにロシェの頭の中では何もしない方が手堅いだろう、と答えは出ている。

 しかし知っているのに知らない振りをすべきなのか、知りたいと思っているのに無関心を決め込むべきなのか、やはり悩むところである。

 絶対、何かあったのだ。

 例えばフェリクスは王国人なのに――


「おはようございます、ロシェ」


 そこまで考えを巡らせたとき、青みがかった錫色の僧服に身を包んだ当の本人が朝日を背負って姿を現した。


 朝課の祈りを捧げるべく神殿の前階段に足を掛けながら、フェリクスはロシェを振り返った。


「ラシルヴァ神への祈りって何か作法あります? 特別な唱えことばとか」


 フェリクスの教科書に、この辺りの一部の森人だけで信仰されているラシルヴァの祀り方が書かれていないのも当然である。


「無い。だから汎神讃頌を唱えている」


 それは簡単に言えば、それはどの神様も等しく讃える万能の祝詞だ。


 森の豊沃を守り、獣と森人を養うという女神ラシルヴァについて、前にロシェは森人たちに色々聞いて回ったが、その具体的な祭儀を知るものは誰もいなかった。

 実際のところ、森の女神とみな呼ぶものの、彼女の偉業や能力を伝える神話や讃歌は、何一つ伝わっていないのだ。


「古代の森人たちは文字を持たなかったし、おそらく神殿の類も木で作ったから、全部何も遺ってないらしい」


 かつてナトニの周辺は深い森の中にあり、森人たちはその森に棲んでいたという。

 古えのその頃には、日々ラシルヴァの祭儀は行われていたのであろうが、今はただ伝統工芸として一刀彫りの神像が遺り、森人たちは各々のやり方でその像に諸事を祈念するのみである。


「王領内では北の山岳地帯に生息する野生山羊ノヤギの類が最も格の高い犠牲獣となりますが、女神には鹿の角があるから、野生の牡鹿を生け贄にしたら喜ぶかも知れませんね」

「さすがに生きたままの鹿は街に売ってないな。南に狩猟用の森はあるが、勝手に捕ったらもちろん怒られる。西の遺跡の向こう側にも森はあるが、あそこは立ち入り禁止とされている」


 その理由は正確には知らない。

 おそらく、魔物が多く出るから安全性の問題があるのだと思う。

 ロシェは、この森から魔物たちが湧いて出ているのではないかと少し疑っていた。


「では、僕も汎神讃頌を捧げましょう。――大いなる秩序を造りませり神々、また常世の秩序を統べ司ります神々、御身ら遍く秩序に満ち、星は馳せ山はち、万象在らしめるその神威を我ら仰ぎ讃えます。森なす神ラシルヴァ様の弥栄わえに、大いなるその威徳回向えこうし我らの秩序に安寧を賜び給いますよう――」


 神室の中央で膝を折る最敬礼から始まるフェリクスの祈祷は、さすがの安定感で抑揚美しく、やはり宗派が同じだからだろう、その調子はニウェウス師匠に少し似て、ロシェは久しぶりに彼の祈る懐かしい声を聞いた気がした。


「しかし、魔物をどうにかするって言ったって、具体的には何をするんだ? 何か特別なお供え物とか、特別な生け贄を用意するとか? それである日突然神様が出てきて全部無かったことにしてくれるのか? 何か教科書に書いてないのか?」


 フェリクスに付き合って再び礼拝を終えて、ロシェは半分愚痴のような矢継ぎ早の問いを投げかける。

 これに明確な答えは期待していなかったが、フェリクスは事務的な口調で返してくる。


「教科書的には、派手なお祭りを行って神々の気を引く、でしょうか。百頭の牛を生贄にするとか、神々を讃える大規模な演劇や音楽を奉納するとか、街衆全員が真冬に水を被って三日三晩神輿を担ぎまわるとか」

「うーん。俺じゃ牛一頭でも高価すぎて手が出ないな」


 週に1度の家禽、月に1度の羊か山羊が精々だ。

 それだって臨時の出費があれば叶わないかも知れない。


「トニトゥルア神殿でも百頭は無理だろう。神官嫌いの代官がそんなに金と人を割く訳がない」


 おそらく代官は、こうした神官たちの“浪費癖”も気に入らないのだろう。

 もちろんトニトゥルア神殿でも日ごと季節ごとに祭りを行ってはいるが、フェリクスが挙げるような大きな典礼は政治的にも敢行出来そうもない。


「まずはいつも通りの当たり前のことをしましょう」


 フェリクスはのんびりと言った。

 一見牧歌的なスラジアの丘の、何が普通で、何が普通ではないのか、確認していくうちには糸口が見つかるかも知れない。


 現世の者の目には見えない秩序の歪みに何らかの原因はあるのだろうか。

 もしあるのならば、それは何だろう。




 祈りに続いて、神室を掃除などしているところ、まだ日も南中しきらないうちから森人の大工たちがやってきた。


 今日は何も仕事などは頼んでいない。

 昨日共に戦ったアベイユから、新しい僧侶が王領からやってきたという情報が伝わって、その新入りをわざわざ見物しに来たのだ。


「ああ、あなた方が敬神なる森人の方々ですか。多大な喜捨を頂いているとのご令聞は伺っております」


 フェリクスが例の王国式の気取った最敬礼で身を低くしてみせると、森人たちはその不釣り合いな格式高さに少々驚きつつも、噂通りの慇懃さだと概ね喜んでいるようだ。


 大工らは得意満面で口々に喋りだす。


「こちらこそ、ラシルヴァ様の像をちゃんと神殿に祀ってもらって助かるんだ」

「トニトゥルア神官たちは、“お土産品”を神殿に祀る訳にはいかないと取り合ってくれなくて。彼らの占いによれば、トニトゥルア神殿でラシルヴァ神像を奉ずるのは不敬だということで、それが神意だと」

「だからロシェの廃墟不法占拠に乗ったんだ。神託はラシルヴァ様をトニトゥルア神殿には奉ずるなってことだから、別の神殿ならトニトゥルア様もご不満あるまい」

「今は不法じゃないぞ、オルクス総本山からの叙任状もあるし、後付で代官からも許可証貰ってある」


 すかさずロシェが軌道修正を図る。

 自分はもぐりの呪術師ではないのだ。

 ニウェウス師匠が半ば無理やりもぎ取ったれっきとしたロシェの社会的地位であった。


 ◇◇◇◆◇◇◇


 大工の訪問を受けてフェリクスは、ラシルヴァ女神がこれほど熱烈な崇敬を集めているのに、神話も讃歌も何も遺っていないのを不思議に思った。


 森人族は本来は、その名の通り深い森に暮らす民だ。

 長い房尾は樹上の暮らしに適応した結果だと言われる。


 大工たちは麻のシャツに毛皮の袖無しの上衣をまとい、豊かな髪と引き締まった体つきは野生の猫か猿を思わせた。

 実際、森人が木に上るときは、猫のように鋭い爪が指先から飛び出るのだ、と何かで読んだ覚えがある。


 この辺り一帯はかつて森で、いつの頃か開墾されたが、森を失ってもなおこの地に住み続けているのだ、と森人たちは考えているのだそうだ。

 それは朧げな、民族としての記憶であった。


 スラジア神殿は建築様式から言って、おそらくはナトニの周辺がまだ王領だった時代に王国人が建てたものだろう。

 彼らが森人を森から追い出し、土地を奪い、切り拓き、丘の上にスラジア神殿を建てたとフェリクスには推測された。


 だが今日までに王領は縮小し、王国人もかつてより数を減らし、いつかに神殿は廃墟となり、丘の麓に建てられていた建造物群も僅かな痕跡を残して今や殆どが消え去った。

 その間にスラジア神殿の正確な縁起は失われたようだった。


「昔のことなんか、何も分かんねえもんだ。おれら森人が森にいない理由も」

「別に過去なんかどうでも良いけどさ」

「でもまあ、だからせめてラシルヴァ様を神殿にお祀りしようと思ってな」


 こうした森人たちの自身に対するあっけらかんしとた無関心も、歴史が欠けた理由の1つなのかも知れない。


 森人を追い出した王国人の神殿に、今は森人の神を祀っている。

 フェリクスは、そうした歴史の不思議な因縁にもっと空想を巡らせてみたくなって、箒を片手に掃除に託けて1人で表参道を降りていった。


◇◇◇◆◇◇◇


 フェリクスが参道を掃き清めに降りていったのを見送って、大工の1人がロシェにこそこそと声を掛けた。


「ロシェ、あのお方が王領から来た王国人のお坊様なんだよな?」


 大工の確認したいことはロシェには大体予測が付いた。


「そうだ。それも古い貴族で、何代遡っても異民族の血の1滴も流れていない、生粋の王国人のはずだ」

「王国人っていうのは、……だよな」

「そうだな。普通は頭に角があるな」


 ニウェウス師匠もそうだった。

 彼自身は自分のことを『白岩山羊シロイワヤギの角』と言及していた。


 コルディニア王国の主要民族は有角人種で、広く『王国人』と呼び習わされているが、自らを『洞角ほらづのの民』と称し、大抵頭に牛や羊のような2本の角を生やしている。

 男性は女性に比べて角が大きく、女性の中には髪に隠れて見えないほど短い者もいるが、特に男性は、角が大きく美しい方が優れているとされていた。


 王国の僧侶、それも大宗派の高位の聖職者なら、立派な角を金や宝石で飾り立て、髪を美々しく結い、荘厳な祭服を着ている、そんな一般的なイメージである。


 しかし服装や髪型はともかく、フェリクスは王国人なのに、角が無かった。


「フェリクス様に角が無いのは、なぜか聞いたか?」

「聞ける訳ないだろ。王国人に向かって角無しっていうのは、最大の侮辱なんだぞ」


 傭兵時代、ロシェは王国人同士の喧嘩を見たことがあった。


 片方が相手を角無しと呼ばわると、言われた方はかんかんになって怒り、互いに互いの角をぶつける格闘になった。

 結局、言われた方が言った方の腹に思い切り角を突き立て、そのまま頭上に持ち上げると、力一杯背中から地面に叩き付けて勝負は決した。


 周りの者たちが咄嗟に刃物をけたから流血沙汰にはならなかったものの、一歩間違えば首の骨を折って殺してしまうところだった。


 ロシェはこうした経験を通して、王国人というのは、誇り高く、その誇りが傷付けられると怒り、命懸けの決闘も厭わない非常に好戦的な種族だと理解している。

 流石に僧侶なら職業柄、軍人よりはかなり大人しいが、フェリクスにもこのような王国人気質は流れているに違いない。


「……ロシェ、何年か前に王宮の偉い神官同士が角を突き合う決闘をした挙句、片方が両の角を根本から折られて都を追われたって事件あったよな。割と王国じゅう話題になってたと思うんだが、知ってるか?」

「そういえば……、あったな」


 それは結構なスキャンダルだった。


 王国人は好戦的で、決闘はしばしば殺し合いに発展してしまう。

 そのため、王国の法律では決闘は禁じられており、これを破った場合は、挑んだ方も受けた方も等しく罰せられる。


 だから、王宮の中枢で祈りに明け暮れるはずの麗しい神官同士の血みどろの犯罪行為はそれだけで人を驚かせた。

 ましてや角が折れるなど。


 ロシェはその頃はニウェウス師匠と行動を共にしていたが、思い起こせば師匠は王宮のスキャンダルなど興味なさそうに見えて、割と熱心に事件の書かれた新聞や瓦版を集めて読んでいた。


 そのときは事件について有ること無いこと、権力闘争だの痴情の縺れだの、何が真実か分からない報道という名の噂が尾鰭もついて、この田舎でもカリカチュア的に飛び交ったそうだ。


 だが、目撃者も物証も無く、証拠不十分で神官たちが決闘罪に問われることはなく、結局のところ真実は誰も何も分からずじまいで、いつの間にかその醜聞は口の端に上らなくなった。

 ただ角を失った僧侶がいる、という事実だけが残った。


「確か片方の名前はフェリクスとかそういう感じだった」


 その名前そのものは王国では決して珍しいものではない。


「だからって本人に事実確認なんか――」


 2人がひそひそ話しているとき、ロシェは大工の肩越しに、たまたま上まで戻ってきたフェリクスと目が合った。


 ちょうど大工が頭の上に指を2本立てて、角を模した身振りをしているときだ。

 すぐ気まずそうに逸らしたから、自分のことが話題にされていると勘付いたのだ。


 これは面倒なことになった。どう誤魔化そう。


「繕わなくていいですよ」


 いつの間にかフェリクスが側にやって来て言葉を掛けた。


「王国人なのに僕に角が無いことが気になるのでしょう」


 こういう時ばかり察しが良い。

 いや、おそらくは、疑惑の目を向けられるという扱いに繰り返し晒されてきて、相手の視線から予測がつくようになっているのだ。


「いや、ええと、あの、昔に宮廷神官同士が角を突き合う決闘をした話があったなって……」


 正直に言いながら話題を変えてしまう取っ掛かりが無いものかと必死に頭を働かせるが、何の工夫も浮かばなかった。


「僕が角を失った決闘騒ぎは結構世間を騒がせました。まさかこんな田舎にまで僕の名声が轟いているとは、光栄なことです」


 その声色は幾分冷たい。


「陰で角無しフェリクスと呼ぶ者もいます。残念ながら王領内ではその方が通りが良い。僕に角が無いのは事実であるし、このあだ名に一々怒らない程度には慣れています」


 袖口の埃を払うような仕草をしながら、まるで世間話のようにのんびりと語を継いだ。

 そして顔を上げて曖昧な愛想笑いに口元を歪める。


「ですが正面切って本人にそう言う者はいませんね」


 声は穏やかだったが、その眼差しは獰猛で、牛が眼前の相手を突き倒そうと睨めつけるかのようだ。

 これ以上の詮索を望んでいないのは明らかだった。


 誰も二の句が継げずにどきまぎしていると、相手を首尾よく黙らせたのに気を良くして、フェリクスの笑みは轟然たるにこやかさに変わり、そしてまた何事も無かったかのように、表情が和らいでいった。


「僕については、あなた方の知っている通りの理解で結構」


 彼は投げやりに言った。


「ところで、」


 それから気まずい話題を変えてしまいたかったのだろう、両手をぱしりと合わせて会話を切った。


「参道の真ん中で大きな蛇が陣取って通れないのですが、何とかしてくれませんか」


 蛇は少し苦手らしい。


 彼が前歴を詳らかにしたくないことは分かった。

 誰にだって触れてほしくない過去はある。 

 ロシェは以後このことについては気にしないことに決めた。

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