第75話

 くれないはシャワーを浴び、汚れた服を捨てて、ラフな服装に着替えた。他の者たちにも着替えは用意されていて、男も女も揃いの黒いパンツスーツ。サングラスを掛ければ、さながら、有名な洋画のエージェント。

 食事を済ませると、夜も更けて、それぞれあてがわれた部屋にて就寝。紅は今井のベッドの横の椅子に座り、まだ目を覚まさぬ彼を見つめていた。その部屋のソファーには『白き神』が寝ていて、その枕元には佐久間が丸まっている。寝ているわけではないが、目を瞑っていた。

「今井さん。あなた、本当は最強だったのね。あなたなら、一人でも世界征服できるわ」

 紅はそう言って、彼の額の汗を拭って、その頬をそっと撫でた。

「世界征服なんて、僕は興味ありませんよ」

 寝ているはずの今井が、ゆっくりと目を開けて言った。

「あなた! 寝ていたんじゃなかったの! あたしの独り言に答えないでよ」

 紅は驚いたのと恥ずかしいのとで、つい、憎まれ口をたたいてしまった。こんな口調はいつもの事だが、弱っている彼に言う言葉ではなかったと反省し、

「ごめんなさい。あなたが寝ていると思ったから、驚いてしまって。つい、大きな声を出してしまったわ」

 素直に謝った。

「珍しいですね。紅が僕に謝るなんて」

 紅は、今井がいつの間にか、自分の事を名前で呼んでいることに気が付いたが、嫌な気はしなかった。

「あたしがあなたに謝る事なんて、今までしたことがないのだから、珍しいのは当然よ」

 今井が殊の外、元気そうなのを見ると、紅はいつもの高飛車な言葉が口をついて出た。本当はもっと優しい言葉をかけてあげたいと思っていたのだが、これが自分なのだと、皮肉に笑った。

「良かった。あなたが無事で」

 今井はそう言って、身体を起こすと、小さく呻いた。

「無理しないで」

 そんな弱弱しい今井を気遣い、紅が彼の身体にそっと手を添えて、背中に枕をあてがい座らせた。

「どうしたんです? 人が変わったように優しいじゃないですか」

 今井が、笑みを浮かべて言うと、

「あら、あたしはいつだって優しいわよ!」

 紅はそう言って、目を背けたが頬は赤らんでいた。そんな紅を見て、今井の心の中で、可愛らしいな、という言葉が浮かんだ。その時、黒猫の佐久間は片目を開けて今井をちらりと見たが、何も言わなかった。

「そんなことより、あなた、身体は大丈夫なの?」

 紅は今井と目を合わせるのが恥ずかしくて、目を伏せた。

「大丈夫ではないです。頭が痛いし、倦怠感があって力が入らない。だから、紅が僕を看病してくれると嬉しいのですが」

 と今井は悪戯っぽく笑った。

「何を⁈ あたしにって。看病って!」

 紅は慌てふためいた。看病といったら、食事の介助とか、身体を拭いたりとか、想像するだけで、顔が熱くなった。そんな紅を見て、今井は面白いとばかりに、揶揄うようにこう言った。

「紅は、病人の看病も出来ないのですか?」

 負けず嫌いの紅、

「出来ますとも。あなた、お腹空いているでしょう? お粥を作ってくるから、待っていなさい」

 まんまと乗せられたのだった。紅は母の椿つばきと暮らしていた頃は母子家庭で、得意ではないが、一応、料理もしていた。台所へ行き、調理器具を探していると、

「紅様? どうされたのですか?」

 松野が気付いて、部屋から出てきた。

「あら、起こしてしまったかしら?」

「いえ、まだ寝ていませんでした。それより、何をなさっているのですか? おなかが空いたのなら、何かお作り致します」

 と松野が言ったが、紅はそれを断った。

「いいのよ。あたしが作りたいの。土鍋はないかしら? お粥を作るのよ」

 紅の言葉を聞いて、松野は、はっとした。きっと今井さんの為に作りたいのだと。

「土鍋はこちらです」

 小振りの土鍋を出して、

「お米はこちらに」

 と言ってから、調味料の場所などを紅に教えた。

「それから、卵は冷蔵庫にあります。他に何か必要でしょうか?」

 松野の問いに、

「いいえ、十分よ。もう下がっていいわ。一人で出来ます」

 と紅が答えた。松野は、

「それでは失礼致します」

 といって、部屋へ戻った。その顔には笑みが浮かんでいた。紅がここまで献身的に今井に尽くしているのを見て、微笑ましく思ったのだ。

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