13.終わると始まる終わりの始まりがある。

 その翌日。俺は、部屋の扉を叩く音で目を覚ました。


「お兄ちゃーん! おはようおはよう、朝だよ!」


 天使のようなかわいい声に、瞬発力で跳ね起きる。床に敷いた布団から飛び出し、ドアノブを引っ掴んで扉を全開まで開けた。


「まひる!」


「ただいま! お土産たーっくさん買ってきたよ!」


 ふわふわの笑顔を咲かせて俺を見上げるのは、何日ぶりかに会う妹だった。ぼんやりした寝起き頭も相まって、俺は衝動的にまひるを抱きしめた。


「まひる、会いたかった……!」


 そうだった、先日の電話で、帰りの日は今日だと聞いていた。


「もう、お兄ちゃん大袈裟ー。でもまひるも、お兄ちゃんに会いたくて、旅行の最後の方はほんのちょっぴり寂しかったよ」


 まひるも小さな手で俺を抱きしめ返してくれる。ほんのちょっぴりでも俺を思い出してくれたのなら充分だ。

 数日離れていただけでもこれなのだ。シエルとアンフェールみたいに、九年もまひるに会えなかったら、俺はどうなってしまうだろう。

 そこでハッとして、俺はまひるを離して背後を振り返った。


「そうだ、シエル……」


 しかし、目に映ったのはもぬけの殻のベッドだった。


「シエル?」


「お兄ちゃん、どうしたの?」


「シエル、どこ行った?」


 先に起きてリビングにでもいるのだろうか。俺より早く起きるなんて珍しい。海で遊び疲れていたし、もっと泥のように眠ってしまうかと思ったのだけれど。

 そんなことを考えていると、廊下の方から柔らかな声がした。


「あら咲夜。おはよう」


 見ると、まひる越しにばあちゃんがいる。俺はまた、まひると再会したときと同じ感情が湧き上がった。同時に、いつ帰ってきたのとか、帰ってきたなら起こしてほしかったとか、なんで俺とキルを置いて行ったのだとか、せめて出かける前にひと言くれよとか色々言いたくなって、なにから言おうかと詰まっているうちに、ばあちゃんが先に口を開いた。


「シエルくんのこと、見ててくれてありがとうね。お疲れ様」


 その言い回しで、俺はシエルを保護するという自分のミッションが、終了したのだと気づいた。


 *


 リビングに下りると、キルが眠そうな顔でテレビを見ていた。朝の情報番組が、流行りの店を紹介している。


「行きの飛行機は、例の不時着事故の関係でごたついてたけどね。帰りは結構スムーズだったのよ。おかげで、明け方には帰ってこられたの」


 ばあちゃんがダイニングのテーブルに、ハムとチーズの載ったトーストを置いた。自分が作った以外の朝食は、久しぶりだ。


「帰ってきた時点で、起こしてくれたらよかったのに」


「咲夜もキルちゃんもぐっすりだったから、悪いかと思って」


 ばあちゃんがにこりと微笑む。

 リビングのソファでは、まひるが眠っている。帰りの飛行機で寝たり起きたりを繰り返していたそうだから、まだ疲れが取れていなかったのだろう。俺と対面してはしゃいだあと、スイッチが切れたかのように寝てしまったのだ。

 トーストの香ばしい匂いを嗅ぎつけて、キルがテーブルにやってきた。


「ミスターは?」


「すぐに別のところで仕事があるから、また出国しちゃった。あなたたちと話したくてたまらなかったみたいで、起こしたそうにしてたけど。かわいそうだからやめなさいって私が止めたのよ」


 ばあちゃんはキルの分のトーストもテーブルに並べ、そして自身も椅子に座った。


「結局のところ、シエルくんを回収するだけのために帰ってきたようなものね」


 彼の名前が出て、胸がどきっとした。


 昨晩の出来事を振り返る。あのあと、シエルとアンフェールは本当に零時過ぎまで遊んでいた。そこへフラムが駆けつけてくると、双子たちは今度はフラムに水を掛けはじめた。

 それから俺とキルは、フラムにこっぴどく叱られた。双子を見つけていたにも拘らず、確保せずに遊ばせ、挙句自分たちも遊んでいたのだから仕方ない。

 やがてフラムは、アンフェールの手を握って俺たちに言った。


「これより、私と新・女王はスイリベールへ帰還する。シエルも連れ帰り、適正な刑に処す」


 しかしフラムがそう宣言したときには、既にシエルの姿はなかった。それどころか、キルもいない。ふたりを捜していると、俺のスマホにキルから連絡が入った。ふたりとも、フラムに捕まる前に逃走したというのだ。

 結局フラムはシエルを取り逃し、アンフェールとフラムは共に帰国していった。俺も深夜料金のタクシーで自宅に帰る。帰宅したら、キルとシエルは既に到着しており、ふたりしてリビングでぐったり潰れていた。


 キルは自室へ、シエルは俺の部屋へ帰ってきて、遊び疲れてぐっすり眠って、俺もどっと疲れが出て眠ってしまって。

 そうして朝を迎えたら、同じ部屋にいたはずのシエルがいなくなっていた。


 今、シエルがいなくなった代わりに、ばあちゃんとまひるが戻ってきている。テーブルで向かい合っているばあちゃんは、優しい目で俺とキルを眺めていた。


「シエルくん、残念だったわね。アンフェールちゃんのいちばん会いたい人であるという最高の条件を持って生まれ、周囲もサポートして、殺害までの期限も充分だったのに。これだけ恵まれた条件下でも失敗した」


 優しい目だけれど、話す内容は暗殺組織の総裁からの総評である。キルがトーストを齧る。


「本人のやる気はたしかなものだったし、物理的な鈍くささは『身軽になれば機敏に動ける』という発見のお陰で解消された。美月のフォローさえなければ、シエルはアンフェールを仕留められたと思う。ったく、誰かさんのせいで全ての計画が狂った」


 後半で、キルは俺を睨んで舌打ちした。ばあちゃんが困り顔で微笑む。


「でもキル、あなたは充分頑張ったと思うわ。最後の最後で、シエルがSPに始末されずに逃げ切ったのは、あなたの誘導でしょ」


「シエルがフラム側に捕まって、シエルの雇い主の情報が洩れたりでもしたら、サポートしきれなかったフクロウが責められかねないからな」


「偉い。そこで任務失敗を確信しつつも放り出したりせず、後々の負担を最小限に抑えた。流石プロ!」


 ばあちゃんがパチパチ拍手してキルを褒めた。キルがむず痒そうにはにかむ。


「いやいや、結論からいえば失敗してるんだ……でも、総裁は褒めて伸ばすタイプだな。お陰で気持ちよく仕事できるぜ」


「ふふ。キルちゃんにはまだまだ頑張ってもらいたいもの」


 ばあちゃんは優しい口調のまま、続けた。


「ただし。レンタルのライフルを壊したペナルティは受けてもらうからね」


「うっ!」


 途端に、キルの顔が青くなる。ばあちゃんは笑顔でぴしゃりと言った。


「あーあ、残念。始めたばかりの新サービスで、こんなに早くから問題を起こす子が出るとは思わなかった。レンタル品を壊した場合、武器自体の弁償はもちろん、その武器で仕事をしようとして予約していた他の暗殺者たちの損害額まであなたの負債になるんだからね?」


「ええっ!? ただでさえお金がないのに!」


「知りません。しっかり働いて返すのよ」


 ほんわかした雰囲気が漂ってくるが、俺はずっと、胸が詰まっていた。どうしてふたりとも、そんなに平常心でいられるのだろう。

 点けっぱなしのリビングのテレビで、リポーターが人気の雑貨を紹介している。日本人には馴染みのないスイリベールの女王の即位式など、ニュースにすらならない。この国ではなにも変わらず、今までどおりの日常が流れている。

 キルが眉間を押さえ、話を逸らすように切り出した。


「そういやアンフェールはどうなった? 無事に帰国したのか?」


「まだ飛行機の中ね。ああでも、ひと足お先に動画サイトでビデオメッセージを全世界に配信してるわよ。新・女王就任のご挨拶ね」


 そう言うとばあちゃんは、テレビのリモコンを取って、ネット上の動画サイトにアクセスした。情報番組から画面が切り替わり、飛行機の中を背景に、銀髪碧眼の少年が映し出された。

 髪が短くなった彼を見て、一瞬、弟の方が頭をよぎってしまった。

 カメラを回しているのはフラムだろうか。兄の方である彼は、カメラ目線で話しはじめた。言語は当然スイリベールの言葉であり、俺には聞き取れない。だが全世界に配信している動画サイトを使っているため、画面下方に複数の言語で字幕が付けられていた。


「改めまして、ごきげんよう。新・女王に就任したアンフェールです。これからスイリベールをよりよい国にしていくため、尽力してまいります」


 画面の中のアンフェールが会釈をした。右の耳にきらりと、青い石のピアスが揺れる。


「早速ですが、私は国民の皆様にお伝えせねばならないことがあります。それは……」


 アンフェールはひとつ、深いまばたきをした。


「私が男であること」


「ほー! 言ったか」


 キルがテレビに向かって返事をする。アンフェールは垂れた髪を耳にかけ、慎重な声色で言った。


「ご存知のとおり、スイリベールの王位継承の条件のひとつに『女性であること』が含まれます。私は国民の皆様を意図的に誤認させ、女のふりをして王座につきました。これは立派な不正です。石を投げられても、仕方がありません」


 アンフェールは不正を認め、言葉を重ねたあと、凛とした目で続けた。


「ですが、即位式はもう終わっています。誰がなんと言おうと、私が国王です。私が法です」


 その発言に、俺もキルも言葉を呑んだ。物腰の柔らかいあのアンフェールが、こんなことを言い出すとは思わなかった。権力を手にした途端、人が変わってしまったのか。アンフェールはひとつ呼吸をおいて、言った。


「だから、ここでひとつ法律を変えます。王位に性別は関係ない。いえ、王位に限らず。国内の職、地位、婚姻、文化やファッションに至るまで。『男だから』『女だから』の性差で縛り付けるのは、もうこれで終わりにしましょう」


 アンフェールがふわりと微笑み、スカートを摘んでみせる。


「私は男ですが、こうして育てられた経緯もあり、かわいい服が大好きです。男であるとカミングアウトしましたが、引き続きこういう服を着たいと思っています。私が法ですので、文句は言わせません。頭の中でどう思うかは勝手ですけど」


「やるじゃん」


 キルがはむっとトーストを齧る。アンフェールはスカートを離し、切り替えた。


「それと、もうひとつ。私はもうひとつ、法を変えます」


 青い石のピアスが、光を反射してゆらゆら光っている。


「王に絶対の権限を与える……この法を撤廃します」


 その声には、強い意志が詰まっていた。


「王の職務は、わがままを言って国民に負荷を与えることではありません。国民の生活のため、全ての責任を背負うことが職務です。私は私の考えひとつで、皆さんの生活を守れるか、判断力に自信がありません。今後は王の独断でなく、国民が選んだ政治家の方々と決議して法を整備していきます」


「すげえ! やっと法治国家のスタートラインに立った感じだな」


 キルが皮肉っぽく言ってトーストにぱくつく。


「今ある法律や文化が必要かどうか、皆さんで話し合って、少しずつ国を変えていきましょう。例えば……」


 アンフェールはまたひとつ、ゆっくりとまばたきをした。


「双子を引き離す必要なんて、ないと思います」


 胸がずきんと痛んだ。

 憂いを孕んだ青い瞳が、挨拶を続ける。でももう、俺の頭には入ってこなかった。カメラに向かって話す少年が、どうしても、瓜ふたつの弟の顔と重なる。

 やがて配信が終わった。キルが再びトーストにかぶりつく。


「いやあ、思い切ったねえアンフェール。私なら、自分が王になったら王の絶対権力は存分に使いたいね。撤廃なんてもったいない」


「ふふっ。やっぱりアンフェールちゃんは王の器よね。立派な王様だわ」


 ばあちゃんがほっこりと目を細め、テレビを元の情報番組に戻した。コーナーが切り替わっていて、雑貨の紹介から大人気のパンケーキ店の紹介になっている。キルが勢いよく食いついた。


「うおっ! バニラとハチミツのパンケーキだって! 食べてみたいけどすんごい行列だ!」


「本当ねえ。こんなに並んでまで食べたいんなら、きっととってもおいしいんだわ」


 キルとばあちゃんはなにごともなかったかのようにパンケーキに釘付けになっている。

 遠い国で、ひとつの時代が終わった。新たな王が誕生し、歴史が動いた。

 その裏で、ひとりの少年が短い生涯を閉じた。

 それでも、俺の周りも、俺も、なにも変わらない。ただ、平穏な日々が続いているだけ。


「あの……」


 和やかな空気を壊すのは承知で、俺は口を挟んだ。


「シエル、回収されちゃったんだよな……?」


 夏休みを共に過ごした、毎日一緒に食事をした、今日の明け方まで同じ部屋にいた、家族のひとり。それがいなくなったのに、どうしてこんなに平然としていられるのか。いくらなんでも、無神経ではないか。

 ばあちゃんが柔らかな表情のまま頷く。


「そうよ」


 心臓がぎゅうっと、握りしめられたみたいな気分になった。

 王女暗殺は、シエルの最後のチャンスだった。

 この任務に失敗したら、彼は雇い主から処分される。俺はそれを聞かされていたし、どうにかできないかと考えあぐねてもいた。アンフェールを守らねばと思う一方で、シエルも助かる方法はないかと、ずっと頭を悩ませていた。


 だが結局俺は、悩んでいただけでなんの結論も出せなかった。シエルの事情を分かっていた上で邪魔をして、追い詰めて、とうとう助けてあげられなかった。

 それってすごく、無責任だったのではないか。


 トーストが喉を通らない。俺は皿に置いた朝食を見つめ、なにも言えなくなっていた。

 キルがちらりと俺に目をやる。


「ペットロス?」


「……便宜上ペットとしてたけど、ペットじゃないよな、シエルは」


「あ、そうか。シエルは一時的に預かってただけで、本当の飼い主は別にいたんだもんな」


「そういう意味じゃ……まあいいや」


 少しも悼まないキルも、にこにこしているばあちゃんも、なんだか怖い。俺はトーストを食べきれず、席を立ち上がった。


「ごめん、ごちそうさま」


「え、残すの? じゃあ私が食べるね」


 キルが俺のトーストに手を伸ばしている。俺はなにも言う気になれず、返事をせずにテーブルを離れた。部屋に戻ろうとダイニングの扉を開けると、背中にばあちゃんの声が届いた。


「咲夜。あまり気負わないでね。あなたは充分頑張った」


 これにもなにも返事をできず、俺は逃げるように廊下へ出ていった。

 下を向いて階段を上る。胸の中がぐるぐると気持ち悪くて、この気持ちを言葉に表そうとすると喉の辺りでつっかえる。悲しみと、平然としているキルたちの不気味さへの恐怖と、無責任な自分への怒りとが、全部混ざって最悪の感覚になって、さらに増幅を繰り返している。不思議と涙は出ない。

 自分の部屋の扉を開け、あの子がいなくなったベッドに飛び込もうとした、その瞬間だった。


 バリーンッと、耳が痛くなるような破裂音がした。目の前で部屋の窓が割れ、ガラスの破片が弾け飛んでくる。

 俺は反射的に飛び退いて、腕で顔を覆った。飛び散るガラスの中に姿を現したのは、モスグリーンの外套、鋭く光るアイスピック。吹き込んでくる微風で揺れる、へたった包帯。夏の日差しに煌めく、銀色の髪。

 俺は庇った腕から目だけ覗かせて、その姿勢のまま固まっていた。


「……えっ」


 やっと出た声は、自分でも情けないくらい間抜けな声だった。目の前の「彼」は、ベッドの上に降り立って外套に零れたガラスの粉を叩いている。銀色の髪の隙間から、青い石のピアスがきらっと光った。

 呆然とする俺の背後から、キルが声をかけてきた。


「サクー、総裁がヨーグルト用意してくれたよ。スイリベール土産のいちごのジャムもあるぜ。サクの分も食べちゃってい……おっ、シエルじゃん」


 廊下から覗き込んできたキルは、あっさりした声色で彼の名前を呼んだ。

 俺の部屋に現れたそいつ――シエルも、案外しれっとした態度で、ベッドを飛び降りた。


「うん、玄関は鍵がかかってたから、ここから入ったよ」


「なんだよ、連絡くれれば開けたよ。いちいち窓割るなよ」


「そっか、キル先輩に連絡すればよかったのか」


「窓を割る前に気づけよ。ほんと、とろくさいなあ。で、どしたん? この辺で仕事?」


 淡々と会話するふたりを見下ろす俺は、まだ動けずにいた。体が固まったし、思考も止まっている。

 シエルがぼさぼさの銀髪を掻いた。


「仕事ー。といっても、今日はただのお使いだけどね。アンフェールの荷物を美月さんから受け取って、国に送る」


「ああ、はいはい! そういうやつね。そうだお前、ヨーグルト食べてく? サクのが余ってるんだけど。いちごジャムもあるぞ」


「キル先輩、朝から食べ物の話ばかりだね」


 そこでようやく、俺は硬直が解けた。


「いや、なんでシエルいんの!?」


「だから仕事だって」


「じゃなくて! お前、アンフェールの暗殺に失敗したから、うちの親父に回収されて……それで……!」


 雇い主であるスイリベールのマフィアに、殺されてしまったのではなかったのか。

 もたつきながら話す俺に、キルがあっけらかんとして言った。


「そうだよ、回収された。そんでフクロウの所属暗殺者に転職したね」


「……はい?」


 もう一度、頭と体が固まった。キルとシエルが顔を見合わせる。


「ああ、サクは知らないか。ミスター右崎のスイリベールでの仕事って、シエルを雇ってるマフィアのボスの暗殺関係だったんだよ。で、ミスターの手解きで、現地の暗殺者がマフィアをぶっ潰した」


「雇い主であるマフィアがなくなってしまったから、僕は路頭に迷ってしまってね。そこをミスター右崎が拾ってくれたんだ」


 平板な口調で話すふたりを前に、俺はまだ絶句していた。寝起き三十分の頭では、理解に時間がかかる。


「でも、親父はシエルを支援してたよな? それってつまり、マフィアを応援してることになるんじゃ……?」


「フクロウは中立的暗殺組織だぞ? どこか特定の機関と癒着してるわけじゃない。昨日の依頼人が今日のターゲットになるなんて日常茶飯事。その仕事が並行して入ってることだってある。そこら辺は、恨みっこなしなのが暗黙の了解だよ」


 キルがさも当たり前のように言った。


「今回もそう。マフィアからシエルの支援を承っているのと同時に、全く別のところからマフィアの抹殺を請け負ってた。それだけの話さ」


 親父はシエルを殺すはずだった、雇い主のマフィア組織そのものを潰した。単に別件の仕事でそうなっただけで、シエルのためとかではない。だが結果的に、シエルは自由の身になったのである。


「聞いてないぞ……親父の仕事がマフィア潰しだったなんて!」


「ミスター、言ってなかったんだ。んー、まあマフィア潰しの案件はサクとは直接関係ないし、説明する必要ないと思ったんじゃない?」


「いや教えてほしかったよ! そんで、そういう事情ならシエルを急がせるようなこと言わないでほしかった。最終的には助かるって見込みがあったんじゃん!」


 なんだか親父の手のひらの上で転がされたというか、遊ばれていたみたいで腹が立つ。キルは怒る俺を見上げて苦笑していた。


「でもシエルが処分される云々は事実だぞ。たまたま、シエルが戻るよりマフィアが潰れる方が早かったから、シエルの処分が流れたんだよ。順番が違ってたらシエルは約束どおりの処分だった。わけもなく急かしたんじゃないんだよ」


 キルは少し面倒くさそうに親父を擁護して、それからまたシエルと向き合った。


「なんにせよ、シエルは晴れてフクロウに所属した。これからは私の同僚だ」


「てことは、引き続きうちに住むのか?」


 ちょっとどきりとして尋ねてみると、シエルは首を横に振った。


「ううん。フクロウが所有してる、新人暗殺者の育成施設を兼ねた寮に入ったよ」


「あ、そうなんだ。そんなのあるんだ」


 拍子抜けする俺に、シエルがにやっと赤い目を細める。


「なあに、寂しそうだね。ここに住んでほしかったの?」


「そうだぞシエル、サクはお前がいなくなってペットロス起こしてたからな」


 キルが余計なことを言う。俺が反撃する前に、シエルは機嫌良さげに胸を反らせた。


「仕方ないな。君の作るごはんは悪くないし、食べに来てやってもいいよ」


「お前なあ……」


 俺は小さくため息をついたが、堪えきれず顔が緩んでしまっていた。もう二度と会えないのかと思っていたこいつが、こんなにあっさり、日常に戻ってくるなんて。

 俺に代わって、キルが呆れ顔で言う。


「ふうん。かなり上から目線な言い草だけど、要はお前もサクの料理の魅力に取り憑かれたな。ま、ごはんをおいしく味わえるようになったのは、シエルの最大の成長かもな」


 それからキルは、にぱっと笑った。


「そんなシエルに朗報。今日のごはんはハンバーグだぞ!」


「よしっ」


「食べたきゃ夕飯時にまたおいで。今は朝ごはん。ヨーグルト食べようぜ。いちごジャム、たっぷり入れよう」


「ふふふ! 白き自由の泉と深紅の雫のマリアージュ。悪くない、宴の始まりだ」


 シエルが前髪の隙間から笑い声を洩らし、部屋を飛び出していく。キルも跳ねるような足取りで追いかけた。


「白き自由の……なんだって? 朝から絶好調だな」


 ふたりが階段を駆け下りる軽やかな足音が聞こえる。立ち尽くしていた俺は、数秒経ってから思い出したように追いかけた。


「いやそれ俺のヨーグルトだろ! あとガラス! 後でちゃんと片付けろよ!」


 俺も続いて、バタバタと階段を下りた。ダイニングに戻ると、ばあちゃんがガラスの器に盛り付けたヨーグルトをテーブルに並べていた。


「あら。ひとり増えたわね。ヨーグルト、もうひとつ用意しないと」


 この人はもう、突然自宅に暗殺者が押しかけてきても驚かない。ばあちゃんがフクロウの総裁とは知らず、シエルは人懐っこくヨーグルトを受け取った。


「む! この深紅の雫はスイリベールの特産品のスイベリージャムじゃないか」


「正解。これはスイリベールのお土産。ちょっとおかしな国だったけど、風景がきれいだし、ジャムはおいしいし、これから素敵な国になりそうね」


 ばあちゃんは総裁らしさを匂わせない、ただの温厚なおばあちゃんのようなコメントをしたのち、くるりとキルに向き直った。


「そうそう! いちばん大事な話を忘れてた。キルにはこれを渡さないとね」


 ヨーグルトの器と一緒に、ばあちゃんがキルに一枚のカードを手渡す。きょとん顔で手を伸ばしたキルは、受け取った途端、ぱあっと顔を輝かせた。同じタイミングでなんのカードか認識した俺は、逆にぞっと青くなった。

 キルが甲高い声で叫ぶ。


「ホー・カードだー!」


 そうだ。キルのホー・カード……すなわち、彼女の暗殺者としての身分証だ。

 今まではこのカードが割れて使えなくなっていたため、キルの動きはある程度制限されていたのだが、ついに再発行されてしまったのである。

 頬を赤くして浮き立つキルの頭を、ばあちゃんがふわふわと撫でる。


「本当はもっと手続きは後回しだったんだけど、訳あって緊急で作ったの」


「というと?」


 キルがカードを天井に掲げ、首を傾げる。ばあちゃんは苦笑でこたえた。


「あら、察しが悪いのね。あなたのカードを急ぐってことは、喫緊の仕事が入ったということ。つまり……」


 ばあちゃんは優しい微笑みも声のトーンも崩さず、はっきりと告げた。


「日原美月の暗殺。保留されてたこの依頼に、GOサインが出たの」


 俺は全身が凍りついた。

 キルが一層はしゃぐ。


「ひゃっほー! 暴れたりねえと思ってたところだったよ! ようやく動けるんだな!」


「さらにさらに嬉しいお知らせ。事態が変わってきててね、依頼人が報酬を上乗せしたの。これをクリアすれば、壊したライフルの件の負債は一発で返済できるし、それでもまだ余裕のある生活ができるわ」


「すっげえじゃん。これは失敗できないな!」


 キルは拳を突き上げて、跳ね回って喜んだ。シエルがマイペースにヨーグルトを口に運んでいる。


「よかったねキル先輩。フクロウ最強クラスといわれるキル先輩の真価を拝めるなんて、僕は幸運の女神に愛されているな」


「だな! シエル、この私の活躍をしっかり目に焼き付けとけよ」


 キルが小躍りがてら、シエルの肩をビシバシ叩いた。

 俺はというと、硬直したまま二の句がつげない。

 ばたばたと忙しない、いつもの日々が戻ってくる。


「覚悟しろ日原美月! 終わりの始まりだ。今度こそあの澄ました美少女を屍に変えてやるぜ!」


 くはははと宙に向かって高笑いし、キルは今度は俺の腕にしがみついた。


「サク! ハンバーグ、いつもより大きく作って! 生島キルの現場復帰祝いだ!」


「あ、ああ……。ソースはなにがいいか夕飯までに決め……って、いや、日原さんは絶対殺させないからな!?」


 一難去ってまた一難。暗殺者を飼っていると、安寧の日々なんて訪れないのだ。

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