6.夏場は奴らが現れる。

「地獄から遣われし闇の眷属は、迷宮の足枷に捕らわれて光の王女に辿り着くことが許されなかった……そう、僕は悪くない」


 シエルがオムライスにスプーンを入れる。彼のお向かいに座るキルは、くわっと牙を剥き出しにした。


「『遠路はるばるやってきたばかりのシエルは、町で道に迷ってアンフェールのいる図書館に辿り着けませんでした』……と、はっきり言え! このボケナス! だーかーら、サクを尾行しろと指示したんだよ! お前、このままじゃあと一週間で処分されるんだぞ。分かってんのか!」


「うるせえな。声がでかい」


 俺は付け合わせで焼いたハムをひと切れ取り、キルの口の中に突っ込んだ。カーッと威嚇していたキルは、ハムをもぐもぐ咀嚼して大人しくなる。


「ともかくだ。作戦を練り直す」


 冷房の効いたダイニングに、蝉の声が届いてくる。俺はひとつため息をついて、オムライスを口に運んだ。ケチャップライスのシンプルなオムライスだが、タマゴとチーズをたっぷり贅沢に使ったお陰でとろとろふわふわに仕上がった。

 あの後、俺は結局、図書館の職員に送ってもらわず自力で家に帰った。日原さんに電話をかけたところ、ラルの証言どおり、アンフェールと一緒に迎えの車で無事に帰宅したとのことだ。

 ぶっ倒れたのは、急に体調が悪くなったことにして謝った。日原さんの方からも、具合が悪いと気づかなくて申し訳ないと、そして待てずに帰ってしまったと重ねて謝られた。

 麻酔銃など知らない日原さんは、俺が熱中症かなにかで倒れたと思っている様子だった。アンフェールからなにか聞いていたとしても、キルのライフルはおもちゃだと思っているようだし、そう考えるのが自然だろう。

 電話を切る前に、日原さんはうふふとかわいらしく笑って付け足した。


「体の具合がよくなったら、また行こうね。今日はありがとう」


 そう言われて、キルから言われた「図書館デート」というフレーズを思い出した。これはアンフェールのための情報収集活動であって他意はない。でも、ちょっとラッキーだったなとは思ってしまう。

 キルがオムライスをスプーンに掬い、口に入れる。機嫌良さげに頬張って、飲み込み、真剣な顔に切り替わる。


「さてシエル。アンフェールについて、もう少し詳しく話してもらおうか」


 キルは図書館でアンフェールと対峙して以降、アンフェールに対してやけに慎重になっている。

 俺は、麻酔で眠りかけていたときに見た白昼夢を脳裏に浮かべた。アンフェールが静かに怒りを滲ませ、キルからライフルを奪い、キルに絞め技をかけていた……あれは不思議な夢だった。か弱い王女が暗殺者を返り討ちにするなど、どんな深層心理があったらあんな夢を見るのか、自分で自分が心配になる。

 キルは引き続き、シエルに真顔で話した。


「あんたの国の王女様が、あんなめちゃくちゃに強いなんて聞いてないぞ」


「……ん?」


 俺はオムライスを削っていたスプーンを、ぴたっと止めた。聞き間違えだろうか。なんだか変なフレーズが聞こえた気がする。

 シエルが真面目に受け答える。


「僕も詳しくは知らない。けれど、ある程度自分で身を守れるように、護身術くらいは身につけているかもね」


「護身術なんてかわいいもんじゃなかったぞ! あんなの、真正面から突っ込んでいけば勝ち目がない水準じゃねえか」


 キルの反論がまた俺の頭を混乱させる。もしかしてまだ夢を見ているのだろうか。麻酔が抜けきってないのか。

 キルが眉間を押さえ、俺の方を振り向く。


「サク、お前もあの時点ではまだ目が開いてたよな? 見たよね、麗しの王女のバックチョーク」


「あれ、やっぱり夢じゃなかったのか!」


「夢じゃない! 私も夢であってくれとつくづく思うけど、生憎現実だ」


 キルがエアでバックチョークの仕草をする。俺はスプーンを半端な高さで持ち上げて、受け入れ難い事実に項垂れた。

 そんなバカな。あの穏やかでゆったりしたアンフェールの行動とは思えない。

 シエルが深刻な面持ちで頷いている。


「その技、スイリベールの国技である体術の型だ。日本拳法を軸に、様々な格闘技を混ぜて、独自のアレンジを加え発展させたものだよ」


「そうなのか」


 キルが振り向く。シエルは腕を組み、唸った。


「アンフェールは護身術も兼ねて、君主の子として国技を嗜んでいた可能性は充分にありうる」


 俺は昨日の出来事を思い浮かべる。アンフェールを連れて公園から駅まで走ったとき、彼女は乗馬や格闘技を嗜んでいると話していた。


「アンフェールの動き自体には、まずまず隙があった。技の型としては未完成だったと思う。でも私は、あいつに腕を掴まれて振り払えなかった」


 フードの中のキルの目には、神妙な色が差していた。


「力がものすごく強かったんだよ。アンフェールは可憐な外見とは裏腹に、筋肉で物事を解決しようとするマッスルプリンセスだ」


「アンフェールが……マッスル……?」


 なにからなにまで、ミスマッチにもほどがある。

 護身術を体得しているといったって、十三歳の、それも箱入りの女の子だ。そんなに筋力が鍛えられているとは思えない。

 ああ、でも。あのとき俺は走りぬいて息が上がったのに、アンフェールはけろっとしていた。あの子は俺が思っている以上に、鍛え抜かれているのだろうか。いやしかし、王女がそんなに強くなる必要なんてあるのか。王女本人が鍛えなくても、ボディガードがいるのではないか。


「アンフェールが強いんじゃなくて、単にキルの方に馬力が足りなかっただけじゃないのか? キルは身軽さ重視だから、筋力はそんなに強くないだろ。だからアンフェールのむちゃくちゃな絞めから抜け出せなかったんじゃないか」


「それもあるかもしんないな」


 キルが自身の小さな体を見下ろす。キルはどうも俺より歳上らしいのだが、体格は小学生のまひると変わらないのだ。

 キルはオムライスをひと口頬張った。


「ま、そもそも暗殺者は影からこっそり狙うものだ。接近戦は避けるに越したことはない」


 キルに言われ、シエルは少し眉を寄せた。外套から出てきた彼の手には、アイスピックが握られている。

 シエルは鈍臭いなりに、アイスピックを得意武器としている。モロに接近戦用の武器だ。だが今日のアンフェールとキルの様子だと、アンフェールはライフル同様、アイスピックだろうと引っ掴んで放り捨てて相手の首を絞めるだろう。

 キルが改めて語る。


「アンフェールを殺るなら、正攻法というか、ターゲットの気が緩んでいる隙に不意打ちで遠くから狙撃するのがベストだ。しかしこれもなかなか厄介で……」


 キルの目が、ちらっと俺に向いた。


「潜伏先が日原邸なんだよな」


 俺は思わず、下を向いてキルから目を背けた。図書館で日原さんとアンフェールが一緒にいるところを、キルに見られている。日原さんの安全を確保するには知られたくない事実だったが、もう隠し通せない。

 シエルがスプーンを止めた。


「日原って、キル先輩のターゲットだった人だよね。たしかすごく金持ちで、邸宅のセキュリティは抜群に厚いとか」


「そう。院長は自分のポジションを分かってるから、命を狙われかねないと自覚してる。それ故に、自分の身や家族を守るためにどこまでも防御を固くしてるんだ。暗殺者が侵入する隙間などない」


 キルが深刻な声色で続けた。


「その日原邸が、アンフェールを匿うシェルターになってる。そこに引きこもられたら手出しするのは非常に難しくなる。美月にアンフェールを託したのがサクの判断なら大したもんだ」


 日原さんを危険に晒したのは間違いないが、キルが手こずっている。皮肉なことに、アンフェールが日原さんのところへ行ったのは失敗ではないようだ。

 とはいえそれは、ふたりが家の中にいる間に関してだけである。アンフェールはシエルに会いたがっているから、自ら進んで外に出てシエルを捜すかもしれない。それに日原さんが同行しようものなら、今回の図書館のように暗殺者に狙われる。

 だが「外出するな」とは言えない。どうしたものか。

 キルとシエルの方も、頭を抱えていた。


「遠くから狙撃しようにも、シエルのコントロールじゃ当たんないよなあ。そこに更にあの日原美月が付くとなると余計に回避率が上がる」


「美月さんは神のご加護でもあるかのように攻撃が当たらない……だっけか。キル先輩も、それでしくじったんたもんね」


「私が麻酔銃でアンフェールの動きを封じて、動けない隙にシエルがしっかり狙って殺すというのが最善の攻略法だと思ったんだけど……」


 キルはため息とともに唸った。


「今やそれも不可能だ」


「そうなのか?」


 俺は横から口を出した。図書館では、まさにキルは麻酔銃をぶっ放ってきた。あのとき、もしもシエルが迷子にならずに、俺について図書館に現れていたら。ふたりの作戦どおり、アンフェールはあの心地よい図書館のフロアで違和感なく眠らされ、動かなくなったところをシエルに狙撃されていただろう。


「なんで不可能になった? 麻酔銃の針が足りなくなったとか?」


 聞いてみても、キルは口を噤んでいる。当然ながら、自ら弱点を開陳したりはしないのだ。だがキルが「不可能」と言い切るのだから、なにか理由があるのだろう。

 シエルが俺とキルを交互に見比べる。


「僕としては、遠くから狙撃するより近くで確実に首を掻っ切る方がいいと思う」


 彼は外套の隙間からきらりと、アイスピックを覗かせた。


「キル先輩だって、当たるかも効くかも不安定な飛び道具より、近くでナイフで切り裂く方が得意でしょ?」


「そうだけど、アンフェールは反撃してくる」


 キルが言い返すも、シエルは強気に続けた。


「僕はアンフェールの、生き別れの双子だ。キル先輩とは条件が違う。あいつは僕を捜してるんだ、僕にはあいつに近づくチャンスがある」


 アンフェールは、シエルと離れて以来彼を心配し続けている。シエルサイドはその気持ちを利用するつもりで、シエルをここへ送り込んでいるのだ。

 その点については、キルも同意した。


「そうだね。折角双子なんだから、最大限に活用するべきか。だとしたら問題は、アンフェールの格闘スキルなんだよなあ」


 キルがオムライスの最後のひと口をまったりと味わって、麦茶を飲む。


「シエルの言うとおり、アンフェールはまずはシエルと膝詰めで話そうとするだろう。だがシエルが襲いかかってくれば、当然受け身をとる。武器を奪われて絞められてノックアウトなんてなったら、任務は失敗だ」


 キルとシエルはしばらく、真面目に考え込んでいた。こいつらが手こずってくれているのは、アンフェール殺害反対派の俺にとっては好都合である。ふたりの行動が慎重になっている隙に、学校から出されている課題でも進めるか。

 一旦頭を切り替えて、食べ終わった後の食器を流しに持っていく。キッチンに入ったそのとき、視界の端に映ったそれを、俺は見落とさなかった。


「あっ……!」


 咄嗟に、口を押さえる。

 “それ”は、素早く冷蔵庫の下へ潜っていった。

 一瞬全ての思考が停止して絶叫しそうになったが、即座に理性が俺を繋ぎ止めた。叫んではいけない。決して、声を上げてはいけない。

 壁に背をつけて、次の行動を思案する。武器はどこにあった。最後に使ったのはいつだ。まだ使えるか。ここのところ見ていなかったから油断していた。どこから入ってきやがった……。

 戦う術を考えなくてはならないのに、怒りと焦りが押し寄せてきて、思考がまとまらない。

 とそこへ、ひょこっとキルが現れた。


「洗い物、シエルがやってくれるから楽だなー。お、なにやってんのサク」


「しっ」


 人差し指を唇に当てキルを静めた、その直後。床をサササッと、黒い影が横切った。


「うわああああ! ゴキブリだー!」


 盛大に飛び退くキルを、俺は即座に腕を掴んで口を塞いだ。


「やめろ、叫ぶな。奴らは悲鳴を聞き分ける!」


 最悪だ。

 夏になったら現れやすくなるのは重々承知していたし、そのために寒いうちから対策を取っていた。だというのに、あいつの侵入を許してしまった。

 冷蔵庫の下から移動したそいつは、壁に張り付いて停止している。照明を浴びてテラッと光るその様相に、ぞっと悪寒が走る。

 手を離すと、キルは目をまん丸くして小声を出した。


「久しぶりに見た。改めて、ゴキブリってめっちゃキモイな」


「あまりその名前を口にするな。語感だけで背筋が寒くなる」


 キルから食器を預かり、流しに置く。


「とりあえず、あいつをこれ以上移動させたくない。ここはキッチンだ。食材も食器もある」


 俺はちらと、食器棚に目をやった。ウサギと犬がダンスしている、ファンシーな柄のマグカップが鎮座している。


「あれはまひるのお気に入りマグカップだ。万が一にもあれにくっつきやがったら大変だ」


「そうだな。余計なことされる前に、さっさと仕留めようぜ」


 キルの声は、すっかり仕事モードの低音になっていた。俺はしばらく動かない奴を睨みつけた。


「しかし俺、あいつと直接対決した経験ないんだよね」


「えっ。戦ったことがないってどういうこと? 今までどうしてたの」


 キルが困惑する。壁にくっついたあいつから目を離さず、こたえた。


「そもそも出てこないように気をつけてたんだよ。奴らが嫌うハーブとか置いたりして」


「それでも防ぎきれなかった場合は?」


 俺と同じく敵を睨んで、キルが尋ねてくる。俺は数秒躊躇い、切り出す。


「こんなこと言ったら引かれると思うんだけどさ」


「おう。言ってみ」


「まひるが対応してた」


「ドン引きした」


 キルは容赦なく俺を蔑んだ。


「頼りになるお兄ちゃんポジションはっておきながら、ゴキブリ駆除は小さな妹ちゃんにやらせるって……それは引くわ。流石の美月にも引かれるぞ」


「おい。日原さん関係ないだろ」


 俺はちらっとだけキルを睨み、再び奴に向き直った。


「誤解のなきよう。俺が怖気づいてまひるに押し付けたんじゃなく、まひるはあいつに抵抗がないんだ。『虫さんこんにちはー』って。俺はその後のアルコール消毒担当」


「……まひるの天然は、時に異常性すら感じるな」


 キルが真顔で呻く。

 生憎、今日はまひるがいない。これまでのようには頼れず、ここにいる面子だけで乗り越えなければならない。シエルは鈍臭いから戦力外とすると、兵力は更に、俺とキルに絞られる。


「シエルに洗い物をさせる前に対処するぞ」


「そうだね。ま、私に任せな」


 そう言うと、キルは外套の中からナイフを取り出した。


「私はプロのアサシンなんでな。あの大きさ、あの素早さで動く相手でも、絶対に外さない。なに。秒で仕留めてやるさ」


 ナイフの先がキラッと光る。


「私の縄張りに入ってきたことを後悔するんだな」


 俺はそんなキルを一瞥した。


「なにを考えている? まさか殺すつもりじゃないだろうな」


「は……?」


 自信満々だったキルの顔が、ひゅっと驚嘆の色に変わる。


「逆にまさかなんだが、殺さないつもりじゃないだろうな?」


「やっぱり殺すつもりだったのか!」


 俺は今度は首ごと、顔をキルの方へ向けた。


「無駄な殺生はしない。それがこの家のルールだと何度言えば分かる? あの侵入者は生きたままそっと外へ放すんだよ」


 するとキルは、真っ直ぐ俺を見て、存外真面目な声で諭してきた。


「あのさ、サク。私は暗殺者で、他人を殺すのになんの躊躇もない。世間的に見て倫理観が狂ってるのは、私の方なんだろう。だがこれに関してはお前がおかしいぞ」


 キルの指が、壁の黒点を示す。


「無駄な殺生はしないといえど、害虫を殺すのは無駄ではない。なぜなら害虫だから。殺菌と同じだ。これは私が暗殺者であるかどうかに拘らず一般常識として社会的に根付いた価値観だと認識している」


 真剣に訴えるキルの口調は、低く、物々しかった。


「サクだって、名前を口にするのすら憚られるほど、あいつを憎んでるんだろ?」


「憎んではいる。嫌なものは嫌だ。だけど、憎しみは命を奪う理由にはならない」


 母さんは俺が幼い頃から、俺に命の尊さを説いてきた。俺は拳を握りしめ、訥々と言葉を紡いだ。


「分かってる。あれがいたら不衛生だ。このキッチンを守るためにも、あいつにはいなくなってもらわないと困る。まひるのマグカップに触られたくない。放っておいて増えられてもいけない。それも分かってる」


「そこまで分かっていて、なぜ……」


 キルがらしくない神妙な声で問うてくる。


「サクはバカじゃない。殺さなきゃいけない理由を分かってるなら、ここで粘る必要はないだろ?」


「分かってるけど、それは人間の勝手な都合だ。あいつらはただ、温かくて食べ物がある場所を探して生きてるだけ」


 たとえ害虫だろうと、殺さずに済むなら生かしてやるべきなのだ。

 キルはもはや絶望といった顔で頭を抱えていた。


「だめだこいつ……正義の方向性を履き違えてる。その厄介な信念のために自分や私の安寧が損なわれているというのに、ポリシーがこいつの軸になってるせいで簡単に折り曲げられない」


「なんと言われようが、俺は母さんの言うことをきく」


「その母さんは、暗殺界のレジェンドなんだけどな」


 俺が受け入れたがらない真実を挟んで、ちくりと攻撃してきやがった。

 なにか言い返そうとしたそのとき、壁の害虫がススッと動いた。びくんと肩が弾む。俺もキルも、喧嘩はやめて虫に注目した。キルは身を屈め、ナイフを握りしめた。


「あんたと口論してても、埒が明かないな」


 しかし俺も譲るつもりはない。


「やめろ。殺したら許さない。いいか、あいつは一旦仮死状態にして、紙に包んで外に放す。絶対に殺してはいけない」


「そんなめんどくさいことするくらいなら、シュバッと殺した方が早いだろ。見たくなければ引っ込んでな」


「殺すな。あいつだって生きてるんだ」


「いい加減にしろ!」


 キルはくわっと牙を剥き出しにした。


「歪んだ正義ほど人を狂わすものはない。私は私の平穏な暮らしのため、あいつには死んでもらう!」


「俺がおかしいのは自覚してる! だけどキルの自分本位な考え方も極論すぎる!」


 ギャーギャー揉めている声に反応したのか、壁の害虫が走り出した。声を呑む俺たちを嘲笑うかのように、その翅が広がる。


「うわあああ!」


 叫んだのは俺だったのかキルだったのか、両方だったのか。

 壁を飛び立った虫が、空中を切り裂く。黒光りするその影に、全身があわだつ。

 そして俺は気づいた。その影の行く末が、食器棚の方向であることに。

 嵌め込まれたガラスの戸には僅かな隙間があり、薄べったい虫であれば容易に侵入できる。きれいに洗った食器が危ない。

 もちろん、まひるのマグカップもだ。


 そう思ったら、無我夢中だった。一瞬記憶が途切れて、気づいたら俺は、キルの手からナイフを奪い取っていた。そして黒点の進む方向と移動速度を見極め、奪ったナイフを投擲する。

 ナイフは空中でひゅんっと回転し、壁に突き刺さった。

 ここまで、無意識に息が止まっていた。

 我に返って、は、と短い息を吐く。キルが俺のシャツを掴み、呆然としている。


「お前……マジかよ」


 壁に刺さったナイフの先端には、キッチンの宿敵が磔になっている。俺とキルはしばしその惨めな姿を眺めていた。

 数秒後、俺はじわじわと自分のしたことに気づきはじめた。


「こ……ろして、しまった」


 ただ我が家のキッチンに姿を現しただけの、いたいけな小さな虫。それを俺は、鋭い刃をもってして殺してしまったのだ。

 全身の力が抜けて、膝から崩れ落ちる。


「やってしまった……これだけは絶対に、しないつもりだったのに。母さん、悲しんでるかも……」


「そんなに凹む……?」


 小さくなった俺を見下ろし、キルが怪訝な声を出す。俺は項垂れたまま、顔を上げられなかった。


「たとえ夜中のうるさい蚊でも、殺さずに済むものは殺さずに、十六年生きてきたのに……ついに、母さんの言いつけを破ってしまった」


 生き物を殺す手応えというものを、初めて実感した。キルの言うとおり、キッチンの安寧を守るために必要な犠牲だったのだろう。しかしそれでも、酷い自己嫌悪に陥ってしまう。

 そんな俺を、キルは呆れ目で見ていた。


「大丈夫、お母さんはそんなことで悲しんだりしないさ」


 よほど面倒くさかったのか、ありきたりなフレーズで粗忽に慰められた。それからキルは、ぽつっと小さな声で付け足す。


「むしろあんたは、そのお母さんの血を確実に受け継いでると思うよ」


「またうちの母さんを暗殺者扱いか」


 じろっと睨むと、キルはため息をついた。


「暗殺者扱い? 実際、暗殺者でしょ。しかも最強クラスの」


「やめろ!」


「この私の隙をついてナイフを奪い、ターゲットに一瞬で狙いを定め、的確に仕留めた。これを霧雨サニの遺伝子と言わずになんと言う」


「やーめーろ!」


 母親が人殺しだとか、信じたくない。まして自分にその能力が受け継がれているだなんて、認めたくない。

 耳を塞ぐ俺を横目に、キルは存外真面目な声で続けた。


「サクはさ、相手がゴキブリにも拘らず『殺したくない』って駄々こねてただろ。でもいざとなったら、人が変わったように容赦なく殺した。あんた、殺した瞬間の記憶ある?」


 言われてみれば、あまりしっかりは覚えていない。まひるのマグカップになにかあったらと思ったら、思考より体が先に動いた。

 沈黙する俺に、キルは静かに言う。


「多分サクは、普段はただの善良な高校生なんだよ。純朴で真面目で、堅物で、料理が上手いだけのただの高校生。だけどな、時々スイッチが入る」


「スイッチ……」


「多分、咄嗟の反射だ。堪えきれない怒りだったり、なにかを守ろうと必死になるときだったり。感情が理性を凌駕したとき、殺し屋・朝見咲夜が発露する。……んじゃないかな?」


「そんなことない」


 嫌だ。自分の中にそんな衝動が潜んでいるとは思いたくない。拒絶も虚しく、キルはやめてくれない。


「スイッチが入ったときのサクは、いつものサクからは考えられないくらい目の色が違う。ああなってるときのあんたなら、目的のためであれば殺しに躊躇はないよ。きっと人も殺せる」


「そんなこと……!」


「たとえ、相手が私でも」


 キルは堂々と言い切った。


「美月を守ろうとして私に銃口を向けた、あのときのサクに迷いはなかったよ」


 思い起こすのは、かつて行った花火大会だ。日原さんに襲いかかったキルに、俺は本物の銃を向けた。

 あのとき、手に震えはなかった。


「そろそろ認めたらどうだよ。あんたは『こっち側』だ」


「一緒にすんな!」


 なんと言われようと受け入れたくない。キルの言っていることは理解できるし自分でもそんな気がしつつあるが、『そっち側』に行きたくない。キルは肩を竦めた。


「あーはいはい。分かった分かった。サクは尊い命を重んじる心のきれいな青年だよ。さ、優しい君ならゴキブリを弔ってやれるよな」


 壁に打ち付けたままだった虫を指差し、促してくる。そうだった、あのまま放置はできない。しかし取るのも気持ち悪くて、尻込みしてしまう。


「どうしよっかな……下に紙を敷いてからナイフを抜いて……」


「早くしてやらなきゃかわいそうだぞー。ゴキブリって脳がふたつあるらしいから、あの一撃じゃまだ生きてるかもしんないしさ」


「あいつ、まだ助かるかもしれないのか」


「そう捉える? 動き出したらびびるだろ、普通」


 そうこうしていたら、食器を持ったシエルがやってきた。


「なにを騒いでるの。あっ、ゴキブリだ」


 壁に刺さった虫に気づき、シエルは食器を流しに置いて歩み寄った。ティッシュを数枚とると、ナイフを抜き取って、なんの躊躇いもなく死骸を掴む。


「うわっ」


「おっ」


 俺は仰け反り、散々促していたキルも飛び退いた。俺は恐る恐る声をかける。


「すごい。そんなあっさり。気持ち悪くないのか?」


 シエルは虫を包んで、こちらを振り向いた。


「僕、スラム街育ちだよ? こいつらよく見かけてたから、慣れてる」


 すたすたとキッチンを出ていくシエルを見送り、俺とキルは目を合わせた。

 シエルが暮らしてきた日常は、俺たちが想像できる範疇よりずっとハードだったのかもしれない。突然頼りがいを見せてきた彼に呆然としつつ、そんなことを思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る