5.図書館ではお静かに。
戦闘は、全員の皿がカラになったところから始まる。キルが椅子から降りて号令を出す。
「行くぞーい!」
ネズミのような素早さで駆け出し、玄関から飛び出していく。あまりにもすばしこくて、捕まえ損ねた。ダイニングで遅れを取る俺の背中に、ラルが細い指を立てて、俺の唇に添える。
「邪魔しちゃ嫌よ。いい子で待っててね?」
わざとらしく体をくっつけられて、全身が硬直する。そして俺が怯んでいる隙に、ぱっと外へと駆け出していった。俺がいちいちどぎまぎしてしまうと分かっているから、こいつはこういうことをする。
あのふたりはもうだめだ。捕まえられない。動きを止めるのは不可能だ。しかし、シエルが遅れをとっている。キルに下っ端と位置づけられている彼は、律儀に食器洗いを終えてから出発するのだ。
仮に今日の内にアンフェールが見つかったとしても、シエルさえ捕まえておけば多分、すぐに殺される心配はない。キルはカードがないから下手に殺人は犯さないし、ラルは自分の利益にならないことはしない主義だ。
俺は食器洗いをするシエルにそっと近づき、外套を脱がそうとした。シエルの武器は、彼が羽織っている外套の内側に隠されている。この外套さえ奪い取ってやれば、こちらのものだ。
しかしシエルも、鈍臭いとはいえ暗殺者だ。俺の気配に気づき、洗っていた包丁の刃をピンッとこちらに向ける。弾かれた水滴が、俺の頬まで飛んできた。
こいつから武器を奪うのは難しい。俺は作戦を変え、玄関に向かった。そしてシエルのブーツを靴箱に隠す。
古典的な嫌がらせだが、出掛けに靴が見つからなければ少しくらいは時間稼ぎができる。キルだったら躊躇なく他人の靴を履いていきそうだが、とろくさいシエルならば隙ができそうだ。
靴を隠してシエルのいるキッチンへ戻ろうとしたそのとき、リビングで予定外の事態か起きた。食器洗いを終えたシエルが、玄関からでなく、リビングの窓から裸足で外へ出ようとしていたのだ。
「ちょちょちょ! そこ!?」
俺は慌ててシエルの外套の裾を引っ張ろうとしたが、察したシエルにさっと躱された。
「僕だって、これでも暗殺者の端くれなんだ。穢れなき人の子には触れることさえ叶わないよ」
仕事となると、シエルに要らんスイッチが入る。痛々しい台詞を吐きながら、彼はぴょんっと窓を飛び越え、塀の上を走って姿を消した。
しまった。こんなにあっさり、全員逃がしてしまうとは。
こうなったら、俺が先に日原さんと合流し、アンフェールを隠し通すしかない。
俺は気持ちを切り替えて、二階へ上がった。自分の部屋に戻り、辺りを入念に調べてから、スマホを握る。日原さんに連絡しなくては。
キルは盗聴器は全て壊れたと言っていたが、鵜呑みにするのは危険だ。電話は使わず、ショートメールを送る。
「おはよう。朝からすみません。昨日はありがとう。アンフェールの件で、会って話をしたい。これから会える?」
心臓がどきどきする。相手が我らがアイドル日原美月だから、というのもあるが、今はそれ以上に暗殺者三人とのレースへの緊張感が
日原さんの返事は速かった。
「もちろん! 私も話したいことがあるの。どこで会おうか?」
快諾してくれた。第一段階はクリア。しかし、日原さんの送ってきた文を見て迷う。どこで落ち合うべきか。
アンフェールから目を離すわけにはいかないから、どこへ行くにしてもアンフェールを連れてきてもらわなくてはならない。今、暗殺者たちが血眼になってアンフェールの目撃情報を集めている。アンフェールが出歩いていようものなら、すぐに嗅ぎつけられてしまうだろう。
日原さんの家に俺が出向くのが、いちばん安全だ。キルでも手出しできないセキュリティの高い日原邸から、出なければいいのだ。しかし、そこまで分かっていても文字を打てない。付き合ってもいない日原さんに、いきなり家に上がっていいかなど言えるわけがない。
早くしないと暗殺者たちがアンフェールの居場所に気づいてしまうかもしれない。焦りが余計に俺を混乱させ、考えがまとまらない。
俺が返事を停滞させているうちに、日原さんの方からメッセージを重ねてきた。
「図書館はどうかな? アンフェールちゃんの国について、調べてみたいの」
日原さんの文を読み、俺はほうと感嘆した。言われてみれば、俺もシエルとアンフェールの母国、スイリベールをよく知らない。
日原さんは更にらもう一文書き込んできた。
「そこまでだったら、運転手さんが送ってくれるの」
そういえば日原さんには、専属の運転手がついている。防弾ガラスの高級車で日原さんを送迎しており、その防御力の高さはキルを寄せつけないほどだ。この車で移動してもらえれば、アンフェールだけでなく、日原さんの身の安全も確保できる。
「そうだな。図書館で会おう」
そう返事を送ってから、俺は速攻、床に置いてあった鞄を引っ掴んだ。財布、スマホ、家の鍵……と、荷物をひととおり確認して、部屋を飛び出す。転げ落ちるような勢いで階段を下り、自分も外へ出かけた。
*
市立図書館は、手前に公園を構えた複合型施設である。自治体の人が使う会議室やイベント会場なんかも兼ね揃えた、そこそこ広い建物だ。
俺と日原さん、アンフェールは、この建物の玄関口で落ち合った。車を降りた日原さんは、落ち着いた茶色のスカートを穿いていて、アンフェールも日原さんから借りたらしきグレーのパーカーと紺色のワンピース姿になっていた。目立つ髪を隠すためだろう、車を降りながらフードを被っている。
運転手に会釈するふたりを見るなり、安堵のため息をついた。
「無事だった……」
事情を知らない日原さんから大袈裟だと笑われるかと思ったが、意外にも、彼女は真顔で頷いた。
「うん。早く中に入ろう」
施設のメインである図書館は、建物の二階だ。入ってすぐのホールから伸びる螺旋階段を上り、そこへ向かう。その途中で、俺は日原さんに話しかけた。
「アンフェールのこと、本当にありがとう。ご家族も受け入れてくれたんだな」
「うん。少し叱られたけど、事情が事情だから」
日原さんが微笑む。俺はアンフェールにも目をやった。
「君の方も、なんかいろいろと……大丈夫だった?」
「はい。美月さんやご家族に、とてもよくしていただきました」
アンフェールは毅然とした立ち振る舞いで、きれいにお辞儀した。
「お兄さんのお名前、咲夜さんと仰るのですよね。美月さんから伺いました。ここまでご支援いただき、ありがとうございます」
王朝で厳しく教育されてきたのだろう、アンフェールは話し方も仕草も品がいい。シエルとは大違いだ。
勢いに流されて日原さんにアンフェールを押し付ける形になったが、上手く行っているようでよかった。
館内は静かだ。俺たちの足音と話し声は、潜めていても変に響いて聞こえる。
日原さんがすっと、真面目な顔になった。
「アンフェールちゃん、本当に王女様だったんだね」
「えっ、信じてくれたの!?」
昨日は俺の妄言みたいに片付けたくせに、今になって日原さんは事実を受け入れてくれたようだ。日原さんは、まだ信じられないといった顔で頷いた。
「うん……ごめん。正直、昨日は信じてなかった。でも朝見くんがひとりで言ってるだけじゃなくて、アンフェールちゃんも同じこと言ってたから、気になってネットで調べてみたの。そしたらスイリベールの王家の動画が出てきた」
多分、俺が見たのと同じ動画だろう。
「王位継承者の座を争ってスイリベール国内が混乱状態っていうのも、アンフェールちゃんから聞いたよ。そうなると、双子の弟さんが暗殺者っていうのも……本当なの?」
日原さんが怪訝な顔でアンフェールを一瞥した。アンフェールは黙って俯いている。日原さんの元へ身を置くことにした彼女は、シエルについてまで全て話したようだ。
「それが本当なら、アンフェールちゃんはこんなところにいたら危ないよね。また襲われる前に、遠くへ逃げた方がいいよ」
日原さんの提案に、俺はこくこくと何度も頷いた。
「そう! そうそう、それを言いたくて! こういうとき、どこに連絡すればいいのか分かんないんだけど、少なくとも暗殺者が潜んでる町からは離れるべきだ。できるだけ身を隠して、安全な場所から、はぐれたSPを捜して合流したらいいよ」
しかし、アンフェールは大人しかった姿を翻して叫んだ。
「だめです! この町にいさせてください!」
「なんで!?」
「だって、シエルがいたんですよ!?」
アンフェールの足が、階段の最後の一段を上りきる。そしてくるっと、後ろについている俺と日原さんを振り向いた。
「離れ離れになって以来、どこでなにをしているのか、元気でいるのかすら分からなかった、たったひとりの弟です。シエルがここにいるのを分かっているのに、ここを離れるなんて絶対にできません」
青い瞳が、真剣な眼差しで訴えてくる。俺と日原さんは言葉を呑んだ。アンフェールがぎゅっと、パーカーの袖口を握る。
「お願いです。もう一度、シエルと会ってちゃんと話したいです。やっと会えたんです。あの子が私の命を狙うはずがない。昨日の様子は、なにか理由があったんです、きっと」
そうだ。アンフェールは四歳のときになんの前触れもなく消えた弟を、十年近く心配していたのだ。そのシエルがいるから逃げろと言っているのだが、彼女にしてみれば、血を分けた大切な弟との再会でもある。
でも残酷なことに、シエルは正真正銘、アンフェールの命を狙う暗殺者だ。
俺が言葉を詰まらせていると、日原さんが先に口を開いた。
「そうだよね。アンフェールちゃんは、ずっと会いたかったんだもん。弟のシエルくんの方だって、同じくらいアンフェールちゃんに会いたかったはず。そうでなくても、双子の相棒の命を奪うなんて、ありえないよ」
俺は余計に、なにも言えなくなった。アンフェールの気持ちも、日原さんの言うことも、もっともだ。
しかし、それでもシエルは暗殺者だ。アンフェールの会いたがっている気持ちを利用して近づく、そういう作戦の元動く暗殺者なのだ。
日原さんは、階段の最後の段を上りきれず、手摺に捕まって立ち尽くしていた。
「生き別れの双子が、それぞれ王女と暗殺者……それこそ映画だったら、ドラマチックだったかもね」
憂い顔もきれいだ。俺は、アンフェールも知らない事実をそっと付け加えた。
「その双子の弟が、俺の家に住んでるって言ったら、信じる?」
日原さんの表情が強ばり、アンフェールは目を剥いて叫んだ。
「……えっ?」
「ええっ!? シエルが!?」
ふたりは一秒ほど固まって、そして各々、日原さんは呆れ顔になり、アンフェールは興奮した。
「流石にそれは冗談だよね? 朝見くんが暗殺者を家に匿う理由が分からないもの」
「本当ですか!? それならすぐ、今すぐ会いに行きたいです!」
俺はアンフェールの期待に満ちた目にたじろぐ。そうだった、アンフェールはシエルにもう一度会いたいと言うのだから、滞在先をはっきりさせてしまったら会いに来てしまう。それはまずもって絶対に避けなくてはいけない事態だ。
「ごめん、日原さんのおっしゃるとおり。今のは冗談です」
「もう! 変なタイミングでびっくりするようなこと言わないでよ」
日原さんが拳で俺の肩を小突く。アンフェールも、「なんだ」と苦笑した。
「期待しちゃったじゃないですか。早く行きましょう」
アンフェールがすたすたと先へ進む。
日原さんもようやく、階段を上った。俺を見上げて、むくれた顔からすっと微笑みに変わる。
「冗談言って雰囲気明るくしようとしてくれてるの、見え見えだよ。不器用なんだから」
生憎そんなつもりはなかったのだが、日原さんから見て好印象だったなら光栄かな……なんて、下世話な気持ちになったのは誰にも秘密にしようと思う。
ただ、結局シエルのことは話せなくなった。うちにいるとなれば日原さんもアンフェールも会おうとする。それだけは止めなくてはならない。このふたりに納得してもらえるようちゃんと話し、その上で会わないでくれと伝えるべきだとは思うが、今の段階ではどう言えば分かってもらえるか、思いつかなかった。
廊下を歩いて、施設のメイン、図書室に訪れる。整然と並んだ本棚には、各種本がぎっしり詰まって、一種の特殊な空間を作り上げている。本棚の間や閲覧用のテーブルには、勉強している大学生らしき人が数名と、夏休みを持て余す小学生なんかが疎らにいた。中には、日当たりのいいテーブルに突っ伏してすやすや眠っている人もいる。空調が効いていて静謐な空間だ、ゆったりとした時間に心地よさを感じ、眠くなるのも無理もない。
図書館という場所はアンフェールの安全を確保するのにうってつけの場所かもしれない。ある程度人がいて、それでいて人混みではない。そして静かだ。暗殺者はこういう場所では目立つ行動はしない。提案者である日原さんもそこまで考えたのではないだろうが、ここは恵まれた環境と言える。
俺たちは、海外の文化や歴史のコーナーで、スイリベールに関するものをいくつか借りた。それと、双子に関する本も、一冊だけ持ってきた。シエルとアンフェールを見て、双子というものがどんな感じなのか、興味が湧いたからだ。
アンフェールはアンフェールで、日本文化について書いた外国人向けのガイドブックを借りてきている。
本を抱え、閲覧テーブルにつく。窓際に置かれた、四人ぶんの椅子がある小さめの白いテーブルだ。俺と日原さんが隣合い、俺の正面にアンフェールが陣取る。床に荷物を置いて、持ってきた本を開き、日原さんとの間に広げる。まずはスイリベールという国について学ぶ。
スイリベールは、東ヨーロッパに位置する小国である。歴史を重んじる風習が強く、それ故に閉鎖的なお国柄の国家だそうだ。その古い文化のひとつとして、双子は不吉なものとされており、幼いうちに片方を親戚や里親に預けて引き離すという。
日原さんが、隣の椅子から同じ本を覗き込む。
「双子のなにが不吉なのか、意味が分からないね。それ以外にも、変わった風習が多い。『四月は魚を食べない』『毎月二十日は、どんな小さな嘘でも罰せられる』……」
「君主の権力が絶対的に強いのです。即位式を済ませた時点で、王は国のあらゆる権限を手にする。過去の王のひと声でできた法律がいつまでも残っているので、他国から見たら非合理的ともとれるような文化が根付いているのです。……私も、こんな無意味な法律で無駄に国民を縛り付けるのはばかばかしいと思っています」
日本のガイドブックを見ていたアンフェールが、パーカーのフードの中で眉を寄せる。どうやら双子を引き離すのは、こういった意味不明な文化のひとつのようだ。
なんとなく、スイリベールという国が見えてきた。古臭い封建国家で、王の発言はいかなるわがままも理不尽も絶対。こういう風土故に、継承権を持つ者同士が王の座を争うのだ。
「原則的に、五年に一度王様が交代するのね」
日原さんは、神妙な面持ちで本の中の文字を見つめていた。
俺も行に目を落とす。日原さんの言うとおり、王は定期的に交代していると書かれていた。その交代の日は、八月十九日とある。現地時間で夕方五時に引き継がれるのだという。
日本との時差は七時間。スイリベールの十九日の夕方五時は、日本では真夜中、十九日から二十日に切り替わる零時頃に当たる。
「今日が十三日だからちょうどあと一週間か」
この日までにアンフェールが生きていれば、次の王様はアンフェールになるわけだ。アンフェールは、声を潜めてこたえた。
「そうです。ですので王朝の方針としては、私を敵のいない日本で二十日を迎えさせ、その間に替え玉で式を済ませる予定のようです。そうして、私は王となった状態で帰国する、という寸法です」
「えっ、替え玉? 正式な即位式なのに?」
驚く俺に、アンフェールがしれっと頷く。
「過去に、式典の最中に王座に着く直前で暗殺された王女がいたそうです。それ以来、新女王役の別人にベールを被せて、形式的に式典を行うんです」
「変な国……」
自国で即位式が執り行われれば、そこにアンフェールが出席していなくても、日本にいながら王になるというわけだ。即位式というイベントが形骸化してしまっている気もするが、たしかに安全といえば安全である。
「かなりフランクに話しちゃってるけど、アンフェールってすごい人なんだよな……」
考えてみたら、俺のような凡人が話せる相手ではない。今更そんなことを思ったが、目の前にいる少女はやけに馴染んでいて、距離を感じさせない。
俺がぽつりと呟くと、日原さんが言った。
「王位継承権を争う人たちは、強大な権力を手に入れるために、暫定一位のアンフェールちゃんの命を狙ってるんだよね。アンフェールちゃんはこんなに落ち着いたいい子なのに、もしもこの子になにかあったら、権力のために人を殺すような人が次の王になってしまう」
「そうだな。継承者本人がそう差し向けたんじゃないかもしれないけれど、少なくとも、二番手の人を利用して政治を動かす大人がおいしい思いをする」
俺はちらりと、アンフェールに目をやった。彼女はじっくりとガイドブックと向き合っている。
彼女は王女の品格がある。「シエルに会って話したい」という強い思いは、引き離された彼を心配している、優しさから来るものだ。この子が女王になってくれれば、国は安泰だろう。だけれどそれを許さない人たちが、シエルを動かしている。
外国の王家の制度など、サッと本を見た程度では全ては理解できない。でも「アンフェールを殺せ」と指示を出すような連中に、政権を与えてはならないことくらいは、俺にも分かる。
日原さんがあっと小さな声を出し、ページの中の表を指で押さえる。
「これ、今の王位継承権を持つ人の一覧だって。いちばんてっぺんがアンフェールちゃんだね」
表は継承順位順に、上から名前が七つも書かれていた。シエルを遣わした人は、この順位が二番目に当たる人物の、周辺の人間だ。二番目の人物はまだ七歳の女の子だった。きっとこの子本人はなにも知らされていなくて、周りの人間の利益のために利用されているのだろうと、そこまで想像がつく。
継承者として書かれている人物は、名前の横に現役女王との続柄まで記されている。よく見たら、全員女性だ。
「へえ。女性ばっかりだ」
俺が呟くと、日原さんが表の横の説明文を指さした。
「スイリベールの文化のひとつで、王様は必ず女性と決まっているんだって」
日原さんの指が示す先には、たしかにそう記されていた。スイリベールが独立した際の指導者が女性だったそうで、それ以来国の君主は女性と法で定められているという。現在の女王は二十九代目らしい。このままなにごともなく王位が繰り上がれば、アンフェールが三十代目になるわけだ。
俺はつい、ひとり言を零した。
「そっか。だからシエルの方だったのか」
忌み子として王朝から追放されたのは、アンフェールではなくシエルだった。王位継承権があるのは女性だけだから、必然的にアンフェールが王家に残され、男の子だったシエルは捨てられてしまったのだ。
王朝を出た彼が、どんな生活をしていたかは分からない。だが、王女が忌み子とされる双子であったなど、スイリベールの風土ではあってはならない事態だろう。シエルの存在は、消されたも同然だ。なにより暗殺者になっているくらいだ、ろくな暮らしではなかったことくらいは想像に難くない。
王朝で守られて真っ直ぐ育った王女と、すぐに捨てられて身分を奪われ、存在を歪められた暗殺者。まさに、天国と地獄だ。
純粋なアンフェールは大切な弟に会って話したいのだろうが、ぬくぬく育った彼女とは違うシエルは、アンフェールに嫉妬以上の憎しみを抱えていてもおかしくはない。互いの「会いたい」気持ちは、種類が違う。
ガイドブックを真剣に読むアンフェールの横顔は、かわいらしくも凛々しい。中性的で、どことなく危なっかしい繊細さがある。表情の作り方は違えど、顔の造りはシエルと同じだ、と改めて思う。
俺はスイリベールの本と一緒に持ってきた、双子の研究の本を開いた。ひと口に双子と言っても、一卵性双生児と二卵生双生児があり、更にその中で細かい分類がある。母親のお腹の中での状態によって、パターンがあるようだ。
シエルとアンフェールは、顔のそっくり具合からして一卵性双生児だろう。一卵性の双子は、ひとつの受精卵が分裂して双子になったタイプで、DNAがほぼ同じだそうだ。たまに虹彩の色が違う一卵性双生児もいるらしい。シエルとアンフェールは、顔こそそっくりだが目の色が違う。まさにこのケースだろう。肌の色はアンフェールは色白でシエルは色黒だが、これは単純にシエルが日焼けしているだけと思われる。
そんなことを考えながら、アンフェールの青い目の横顔をぼんやり眺めていたときだ。
トスッと、閲覧用テーブルに銀色の針が突き刺さってきた。
「……えっ」
斜め上から降ってきたそれは、俺の指先すれすれを掠めて机に刺さっている。途端に、俺の中に緊張が走った。
日原さんがきょとんとした顔でこちらを見る。
「ん? どうかした?」
日原さんには見えなかったみたいだ。アンフェールも本に夢中で気づいていない。
俺は無言で、針が飛んできた方向に目線を移動させた。本棚が森のように並ぶ景色と、本を選ぶ人々が数名。一見、なんの変哲もない図書館の風景だ。
しかし針は間違いなく飛んできて、今もたしかに机上に刺さっている。しっかりと目を凝らし、本棚をじっと睨んだ。
そして一瞬だけ、本棚の上から隣の本棚へ飛び移る、幽霊のような白い影が見えた。同時に、窓から差し込む日の光を受けてきらっと光る、閃光が走る。
「そこか」
俺は咄嗟に、床に下ろしてあった自分の鞄を引っ掴んでブンと高く掲げた。光の糸のようだった細い針が、鞄に突き刺さる。日原さんとアンフェールが、目をぱちくりさせて俺を見上げている。
俺は本棚の上に目を凝らした。陽光が反射していて霞んでいたその姿が、今ならはっきり見える。白い犬耳のフードを被った小さな女の子が、本棚の上から足を下ろして座っている。肩に掲げているのは、その幼い見た目に不似合いなライフル。
「マジか……」
つい、そう口をついた。キルがいる。
額に汗が滲む。まずい、日原さんとアンフェールが一緒にいるのを見られた。
向こうも俺に見つかったと気づいたのだろう。キルは童顔をにっこりさせ、再びすっと光の中に溶けて消えた。俺の視線を追っていた日原さんも、キルを見失った。
「あれ? 今キルちゃんがいたような……ううん、本棚の上になんているはずないか。目の錯覚かな」
キルのアホみたいな犬耳外套は、光学迷彩繊維の特殊装備である。光の屈折を利用して、背景に馴染めるのだ。
俺は机に刺さっていた針を、慎重に抜き取った。素手で触るのには躊躇があったが、日原さんやアンフェールに刺さってしまってからでは遅い。日原さんには最後まで針が見えなかったらしく、ゴミでも取ったと思ったようだ。俺は鞄で受けた針も外し、鞄のポケットへと丁寧に隠す。
日原さんかアンフェールを狙って撃たれたにしては、随分と位置がずれている。ふたりとも動いていなかったのだから、もっと狙いは定まったはず。だというのに、針はむしろ、俺の手すれすれのところを通過していた。
あの針は多分、俺に向けて撃たれていたのだ。鞄で防御した二発目なんか、確実に俺に飛んできていた。さしずめ俺の動きを封じるためか。
俺は鞄を肩に引っ掛けて、席を立った。日原さんが戸惑っている。
「朝見くん? どこ行くの?」
「ごめん日原さん、ちょっと外す。アンフェールのこと、お願い」
考えるより先に、体が動いていた。ともかく今は、あいつを取り押さえることだけに頭が集中する。
今のキルは日原さんを殺せないし、シエルの獲物であるアンフェールに手を下すこともない。飛んできた針は、俺狙いなら強い毒ではないはず。それでも、あれを乱射されたら無関係の人にまで被害が及ぶかもしれない。
本棚が並ぶ周辺へ入り、キルを捜す。棚の上にはもういない。上には隠れる場所がないからだろう。俺に気づかれたと悟った彼女は、目立たない場所へ移動したようだ。
本棚の間を早歩きして、各ブースを覗き込む。どこへ行った。俺がアンフェールから離れたのを見て、逆にキルはアンフェールに接近したのか? 後ろを振り向いて元いたテーブルを確認したが、日原さんもアンフェールも無事だ。
いっそ騒ぎを大きくすれば、キルは逃げざるを得なくなる、とも考えた。図書館や他の利用者に迷惑をかけるが、もっと大事件に発展するよりはずっとましだ。
「キル……っ」
声を出しかけたのと、ほぼ同時だった。
「やっぱお前、少しばかり鋭くなったな」
耳に慣れた声が、背後から降ってくる。振り返るより先に、頭に軽い衝撃があった。
「だが、まだまだだ。私の速さには、到底追いつけない」
俺を踏み台にして飛び越えたキルが、正面に着地する。肩には、小さな体に不相応なライフルを担いでいる。彼女はくるっとこちらを向き、目を細めた。
「ようサク。皆のアイドル日原美月と図書館デートとはいいご身分じゃねえか。いや、そんな比じゃない。なんたって本物の王女様もご一緒だもんな?」
図書館の静寂の中にさえ響かないほど、小さな声だった。俺も、声を殺して問う。
「そういう武器、普段は一体どこに隠してるんだ?」
「このライフルはレンタル品。ほら、こないだ話した新サービスだよ。必要なときに、フクロウ便に運んできてもらえるんだ。すごいだろ」
キルはにこーっと無邪気に笑った。
「これ、自分じゃ買えないような超一級品の麻酔銃なんだよ! こいつをレンタルで使わせてもらえるなんて、フクロウサイコー」
こいつの所属するフクロウという団体は、暗殺者に有利なシステムが行き届いている。お陰様でどこまでも厄介だ。
「どうしてここが分かった?」
「サクが言うには『王女は電車でどこかへ行った』とのことだったが、アンフェールはシエルに会いたがってた。仮に所持金があったとしても、シエルのいる町から離れるとは考えにくい」
キルはライフルで自身の肩をトントンと叩く。
「無料で長居できて、屋根がある場所。このクソ暑い中、冷房が効いてる。そういう場所はこの辺じゃ図書館くらいだ。行く宛のない王女様が寄ってきそうだな、と予測できる」
改めて思う。キルは暗殺者だ。何人もの人間の行動を観察し、隙を見つけて殺してきた。どれだけ逃げても、こうして辿り着かれる。
「しかしまあ、美月もセットで見つかるとまでは思ってなかったな。依頼人からのゴーサインこそ出てないが、いずれにせよそのうち殺す相手だ。チャンスっちゃチャンスだよね」
日原さんとアンフェールが繋がっていると、キルに気づかれてしまった。これでアンフェールの隠れ家はばれたも同然、日原さんの身も危険に晒される。
キルはすこぶる機嫌がいい。
「今なら美月とアンフェール、ターゲット二種盛りだ。どうせ殺すなら、ふたりとも今まとめて殺しちゃいたいな」
「カードがないキルには不可能だろ?」
今はそれが救いだ。国家公認暗殺者の身分証がないキルに、殺人はできない。キルがフードの中でため息をつく。
「サクって本当、甘いよなあ。命の危険を感じることのない、平和な人生だったんだろうな」
「なんだよ急に。キルほど修羅場潜ってるわけないだろ」
「そのようだな。現にあんたは、カードがなければ“殺人は起こらない”と思い込んでるみたいだね」
そう言ったキルの瞳が、ニヤリと細くなる。俺はぞっと、背筋が寒くなった。
「まさか……身分証がないのに、日原さんを殺す気か?」
「平和ボケのサクに、改めて教えてあげよう。私がカードなしでは暗殺は控えるのは、仮に捕まってしまった場合に、国家公認であると証明する手続きが面倒だから。そして経歴に傷がつくから」
キルがゆっくりまばたきをする。
「それってつまり、捕まった場合に備えて慎重になってるってだけなんだよ。要は、ばれなきゃ無問題ってわけさ」
はっきりと言い切られ、俺は言葉を失った。
キルはカードがないと日原さんを殺せないわけではない。面倒を避けて殺さないだけなのだ。彼女がチャンスさえ見つければ、いつ殺してもおかしくはない。
額につうっと、汗が流れる。俺はしばらくキルを見下ろして棒立ちになっていた。やがて、俺は強気な目でキルを睨んだ。
「なるほどな。それじゃ、今この場で俺が大騒ぎしてキルに注目を集めれば、暗殺なんて絶対できな……」
最後まで言うか言わないかのところだった。キルが肩に寝かせていたライフルをくるんと構え、一切の躊躇いなく、俺に向けて発砲した。針がシュッと飛び出す。俺は反射的に身を翻し、本棚に背中を貼り付けて躱した。
キルがライフルを向けたまま、無表情で言う。
「うん。だからサクを先に狙ってんだよ。お前がピーピー騒がないように、口を塞いでおこうと思って」
針が奥の壁に刺さっている。俺は本棚に背を預け、浅い呼吸を繰り返した。心臓がばくばくいっている。まさか、この至近距離で撃ってくると思わなかった。瞬間的に躱せたのは奇跡だ。
危機を間近で感じた体が、激しい動悸で命の危険を知らせるサイレンを鳴らす。俺はキルに目線を当て、声が震えないように胸を押さえて言った。
「主人である俺を撃つとは、とんだ謀反じゃねえか」
「安心しな、麻酔銃だよ。フクロウの薬品開発部の毒……じゃなくてお薬は、即効性抜群だぜ」
銃口が真っ直ぐに、俺に向けられている。俺はハッと、本棚の向こうにいる他の利用客のことを思い出した。
「もしかして、窓際の日だまりでうたた寝してる人たち、キルがその麻酔銃の試し撃ちをしたのか?」
「私はプロだ。無駄撃ちなんかしない。窓辺でお休みの皆さんは単純に気持ちよく昼寝してるだけ。サクも仲間入りしたらいい」
「くっ……気持ちよさそうだ」
「だろ。ゆっくり寝てていいぜ」
キルがぐっと、銃口を近づける。
「弾が少ないんだ。今度は避けるなよ?」
「うわうわうわ! 待て待て待て」
真正面からライフル突きつけられて、大人しく撃たれるわけにはいかない。俺はライフルの先に手を伸ばし、奪い取ろうとした。が、キルはそこまで動きを読んで、ライフルを回し後ろに飛び退く。
「そんなに怯えるなって。さっきはああ言ったが、美月はなぜか私の攻撃を避ける天才だから、簡単には殺せない」
そういえば、キルが未だに日原さんを殺せていない理由はそれなのだ。キルがどんなに日原さんに攻撃を仕掛けても、日原さんは無意識に全て避けてしまう。多分、天が日原さんを味方しているのだ。
「んで、アンフェールに関しては、私には手出しできない。王女様はシエルの獲物だからね。フクロウはあくまで、シエルのサポート」
「代わりに殺しちゃだめなのか?」
そもそも、代わりだろうがなんだろうが人殺しはだめに決まっているが、そうとしか尋ねようがなかった。キルは首を傾げ、素っ頓狂な声を出す。
「なんだお前、ミスター右崎から聞いてないのか? この案件は、他の誰かが代理していいものじゃないんだよ」
「……アンフェールさえ死ねば、誰がやってもいいわけじゃないのか?」
「うん。シエルは暗殺者でありながら実績がないから、このままだとマフィアの親分に処分されちゃうんだよ」
不穏な言葉の羅列に、俺はえっと気色ばんだ。
「そうなの?」
「そうなの。それを回避するためには、起死回生の大仕事をクリアしなくてはならない。それがこの王女暗殺の案件。これはシエルのラストチャンスなんだ」
そうだったのか。
シエルは親父の教え子だという。今回、親父がシエルに手を貸したのは、親父なりの情なのだろうか。自分が育てたひとりの少年が一発逆転できるように、フォローしようとしているのだ。
キルの淡々とした説明を聞いて、俺は血の気が引いた。
「それじゃ……案件が失敗すれば、シエルは……」
以前、キルからこんな話を聞いた。隠密の世界に身を置く人たちは、組織の事情を知っているから、除籍のときに死を持って口を閉ざされる。
マフィアに雇われているというシエルは、この仕事ができなければ「処分」される。
王女暗殺の仕事が計画どおりに進めば、シエルがアンフェールを殺してしまう。しかし失敗すれば、シエル本人が処分される。頭がくらっとした。
しかし、暗殺者であるキルにとっては珍しい話でもないようだ。彼女は淡々と話した。
「私がシエルに代わってアンフェールを仕留めて、それをシエルの手柄だと改竄したとしても、押し通せなくはないんだけどさ。だけど、これからシエルが立派に活躍していくためにも、甘やかすべきじゃないだろ? ミスターからも、私は直接手を出しちゃだめだって指示されてる」
それからキルは、普段どおりの口調で尋ねてきた。
「ところでサク、当のシエルはどうした? 撒いてきたのか」
「撒いたって? 家から飛び出して見失ったきり、見てないぞ」
「っかしいな。シエルには一旦家を出たら、その後はサクを尾行しろと伝えたんだけどな」
呆気なく手の内を晒し、キルはむーっと唸った。
「お前、今朝はアンフェールの居場所についてしらばっくれてたけどさ。過度に善良なサクが、暗殺者に狙われてるアンフェールの安全を確保せず野放しにするなんて有り得ない。今日もアンフェールと合流するだろうなと思ったから、シエルにはサクの番を任せたんだよ。私が見つけたからよかったものの……あいつ、どこ行ったんだ?」
ここまで見透かされていたのか。こいつのこういうかわいげのなさは、おいしそうに食事をするあどけない顔とは別人みたいだ。
俺はだいぶ気圧されていたが、なるべく毅然として振る舞った。
「とにかくその物騒なもの捨てろ。こんな静かなところで暴れたらどうなるか、流石に分かるだろ?」
「だから、騒ぎを大きくしないためにサクにぐっすり寝ててほしいんだって。何度も言わせるなや」
キルがくいっとライフルを向けてくる。ピシュッと空気を切り裂く音がして、銃口から針が飛び出した。俺は反射的に避けたものの、針は頬のギリギリを掠めたところだった。ほんのコンマ数秒が命取りになるのだと、改めて思い知らされる。
頭の中は混沌としていた。シエルは任務に失敗すれば処分される。だからといって、シエルの思いどおりにアンフェールを死なせるわけにはいかない。
キルがいらつきはじめた。
「避けるなって。弾数少ないんだから……」
と、そこへ、キルの背後からよく知った涼やかな声がした。
「咲夜さん? どうかされました?」
アンフェールがやってきたのだ。俺が「逃げろ」と叫ぶより先に、キルが素早く振り返り、俺に向けられていた銃口をくるっとアンフェールに向けた。
「チッ。あんたも寝てな」
「うわっ……」
アンフェールが硬直する。俺は堪らずキルに向かって飛び出し、キルの腕を取り押さえようとした。しかしその気配を察し、キルがまたこちらにライフルを向ける。躊躇なく撃たれた針が俺の首筋に向かって直進してくる。
これは避けきれず、鎖骨の辺りにチクッと痛みが走った。
「あっ……」
途端に、頭がぐわんと重くなる。揺らぐ視界の先に、したり顔のキルと青ざめるアンフェールが見えた。
「咲夜さん……!」
アンフェールが声にならない声で叫ぶ。俺はふらりと、本棚に寄りかかった。
キルがフードの中に手を入れて、耳につけた通信機で連絡を取りはじめる。
「シエル、お前今どこにいる? こっちは王女を見つけたぞ。厄介なサクも戦闘不能にしておいた。早く来い」
まずい。シエルが呼ばれてくる。アンフェールをどこかへ逃がさなくてはいけないのに、体がいうことを聞かない。
膝ががくっと崩れ、俺は本棚に体重を預けたまま、床に座り込んだ。アンフェールが駆け寄ってくるが、彼女は震えるばかりで声すらあげられない。
その向こうで、キルがぴくっと眉を顰めた。
「はあ? 迷子になった? なに、土地勘がない? 外国から来たばっかだから?」
危険なのはアンフェールだけではない。日原さんだって安全ではない。ふたりをここから離さないと……。でも、眠くて体が泥のようだ。
「仕方ないな、ラルを迎えに行かせる。今どこにいる? なにが見える?」
キルの話し声だけは、耳に届いてくる。
「おいラル、ラルー。今からシエルを回収して図書館に……はあ? いい感じのカフェを見つけたから休憩中? いや、そんなのいいからこっちに協力してよ。ちょっ、ちょっと! ラル、切るな!」
「チームワーク悪すぎかよ……」
俺は眠りかけの微睡む頭を押さえて呟いた。そのまま体の重さに耐えきれなくなり、くてりと床に突っ伏す。
アンフェールが息を呑み、俺の肩を揺する。
「咲夜さん! 咲夜さん、しっかりしてください!」
俺は強制的に眠りに落ちていく感覚に身を預け、祈った。どうかこのままアンフェールが騒いでくれて、他の利用客や図書館の職員がキルに気づきますように。
王朝で大事に育てられたアンフェールのことだ。俺が銃撃されて動かなくなったのを見れば、きっと取り乱して泣き叫ぶ。騒ぎが大きくなれば、キルは撤退せざるをえなくなる。
俺を揺すっていたアンフェールが、ふいにその手を止める。そしてすっと、無言で立ち上がった。ぼやけた視界に、アンフェールとキルが真正面から対峙している。キルがひとつまばたきをして、アンフェールを一瞥する。
「すまんな王女様。シエルが来るには時間がかかりそ……」
「お嬢さん。失礼ですが、咲夜さんになにをなさったんですか」
キルの言葉を遮って、アンフェールが低い声を出した。泣いて騒ぐどころか、冷静に、そして気丈にキルへ問いかける。普段の涼しげな声とは違う、やけに重く、深みのある声色だ。
キルがアンフェールに銃口を向けた。
「眠らせただけだよ。こいつは私も利用する駒だ、殺したわけじゃない。あんたも一緒にねんねしな」
「失礼します」
あろうことか、アンフェールは真っ直ぐキルに突き進んでいく。キルも予想しなかったようで、慌ててライフルの引き金を引いた。しかし狙いが定まらず、発射された針は明後日の方向へ飛ぶ。
アンフェールがガッと、キルのライフルを掴む。そしてライフルごと振り上げて、キルを床に叩きつけた。
俺は床に寝そべって、あれ、と思考が止まった。
アンフェールがキルを床に叩きつけた? そんなはずないだろう、アンフェールは王女だ。温室育ちのか弱い王女様だ。それが、あんな……。
カツーンと、俺の頭の横にライフルが落ちてきた。アンフェールがキルからライフルを奪い取り、こちらに投げ捨てたのだ。
アンフェールが、キルからライフルを奪う?
王女のアンフェールに、そんなことができるはずないだろう。
絶句するキルに詰め寄り、アンフェールは彼女の腕を引き寄せた。そしてキルが逃げ出す隙も与えず、バックチョークを決める。
「咲夜さんの仇!」
「うぐっ! やめっ、やめろ! さ、サク! 助けてえ!」
キルが短い悲鳴を繰り返している。なんだ、これ。俺に見えている不思議な景色は、もしかしてもう夢の中の光景なのか。助けを求められても、キル自身に撃たれた麻酔のせいで体が動かない。
キルの苦しげな声を聞きつけ、周囲にざわざわと人が集まってきた。中には日原さんもいる。
「アンフェールちゃん、なにを……!? えっ、キルちゃんがいる!」
日原さんは目を白黒させつつもキルを見つけ、能天気な笑顔を咲かせた。キルがびくっと目を見開く。
「うわあっ、美月! くそ、見つかった!」
「久しぶりに会うね! 遊んでるの? アンフェールちゃんとキルちゃんって、お友達だったのね」
アンフェールがハッと手を緩める。
「あっ、美月さん! この娘をご存知なのですか?」
「キルちゃんは朝見くんの従姉妹だよ。仲良しなのはいいけど、図書館ではそんなやんちゃな遊びはだめよ」
平和ボケした日原さんが的外れなことを言う。
その隙にキルはアンフェールの腕をすり抜け、目にも止まらぬ速さで駆け抜け、窓を開け放って逃げ出していった。
アンフェールは取り乱すことこそなかったが、結果的に注目を集めてキルを追い払った。よかった、これで安心だ――。
俺の意識が途切れかける中、誰かが俺に気づいた。
「あっ、倒れてる人が!」
「なにがあったんだ!? とにかく、医務室へ!」
声ひとつ出せない俺を、数人の人々が囲む。腕を取られ、体を抱えられた。目が開かなくなっていく。
俺はその辺りで、完全に意識を手放した。
*
目が覚めると、俺は図書館内の医務室の布団の中にいた。
薬で強制的に眠らされたとは思えないような心地よい眠りだったし、目覚めも爽やかだ。フクロウの麻酔銃は、無駄に高品質だった。だが、はっきり覚醒しているのは頭だけで、体はまだ起き上がらなかった。
医務室は八畳程度の静かな部屋で、ベッドの横には窓がある。ガラスの向こうには図書館の手前にある公園が見える。青空に浮かぶ日がかなり高いところを見ると、ちょうど正午くらいのようだ。
周りには誰もいない。代わりに、扉の向こうから会話が聞こえる。
「君たちはもう帰りなさい」
「でも……目を覚ますまで、ここにいます」
図書館の職員と、日原さんの声だ。アンフェールもいるようで、声が加わった。
「咲夜さんはライフルで撃たれたのです。私、見てました」
「君ねえ。ライフルなんて持ち込まれたら、もっと大騒ぎになってるよ」
現場を見ていたアンフェールが必死に訴えてくれている。職員には相手にされていないようだが、俺には充分ありがたかった。ライフルを見ていない日原さんも、職員に頑固に返している。
「ライフルはおもちゃでしょうけど、理由もなくいきなり眠ってしまうなんておかしいです」
「疲れていたんでしょう。とにかく、大丈夫だから。見たところ体に異常はない。起きたら職員が彼を車で送ります」
やがて、アンフェールが声に怒りを滲ませた。
「仕方ありませんね。美月さん、帰りましょう」
「朝見くんは?」
「ここで待たせてもらえないのならどうしようもありません。一度帰って、出直しましょう」
俺の体が自由に動けるようになる前に、日原さんとアンフェールは引き上げたようだ。会話は聞こえなくなり、静寂が訪れる。
ひとまず、あのふたりが無事でよかった。特にアンフェールは、シエルが到着してしまったら殺されるところだった。これもアンフェール自身がキルを追い払ってくれたお陰だ。
そこまで考えてから、俺は自分の記憶を疑った。アンフェールがキルを返り討ちにするなど、起こり得るだろうか。なんだかそんな恐ろしい光景を見た覚えがあるが、アンフェールはそんな子ではない。どこから夢だったのだろう。
起き上がることもできず大人しく横たわっていると、カラカラと窓の開く音がした。振り向いてぎょっとする。窓の桟に、ラルが座っているではないか。
「お前……なぜ窓から……」
「こっちの方が、どきどきするでしょ?」
すらりと伸びた美脚を床に投げ出し、ラルは医務室内に侵入してきた。俺の横たわるベッドに座り、体を捻って布団に手を突く。
「キルから連絡があったわ。ターゲットが束になってたのに、取り逃しちゃったようね」
「どうなることかと思ったよ」
たった今、日原さんもアンフェールも引き上げた。そこで俺はハッと、思うように動かない体で身じろぎした。日原さんとアンフェールから目を離したら、それこそキルやシエルに襲われるのではないか。今すぐ追いかけなくては、と思った矢先、思考を読んだかのように、ラルは俺の頬に手を添えて制止した。
「大丈夫よ、ふたりとももう、建物の前に迎えの車が来てる。キルはシエルくんを捜しに行ったし、私はここにいる」
「いいのか? アンフェールを取り押さえなくて……」
「私にそんなに義理はないもの。もう少し、慌てるキルを見ていたいしね」
ラルはこういう性格だ。暗殺者とか諜報員として容赦なく動く立場でありつつも、どこか片手間なのだ。ゲームのように楽しんでいるというか、事態を面白くするためならわざとチャンスを逃がす。仕事としてキルに呼ばれていながらカフェでサボるのも、そういう力の抜き方故だ。
俺はラルに尋ねた。
「なんか俺、キルに麻酔を撃たれてから頭がぼんやりしてて、記憶が定かじゃないんだけどさ。キルはなんで撤退したんだ?」
「暗殺者なのに人目に触れたからよ」
ラルは多くは語らず、にっこりと微笑んだ。
「王女様のこと、ちょーっと侮ってたのよね。強いていえば、それが敗因ね」
そして彼女はひょいっと立ち上がり、再び窓に足をかけた。
「じゃあね。咲夜くん、もうお昼時よ。帰ってキルとシエルにごはんを作ってあげて」
ラルが窓を飛び越え、姿を消す。それとほぼ同時に、図書館の職員が後ろの扉を開けた。
「ああ、起きてる。体調はいかがですか」
「もう大丈夫です。ご迷惑おかけしました」
自分が寝ている間に、なにが起こったのか。これは、キルに問い詰める必要がありそうだ。
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