3.プリンの誘惑に抗えない。

 シエルをキルに任せて、俺はピアスを持って街へ繰り出していた。拾ったピアスを交番に届けるのだ。

 キルに慣れすぎて当たり前のようにそうしたが、よく考えたら暗殺者を暗殺者に任せて家を空けるというのもなんだか妙だ。だが気づきはじめた頃には既に商店街まで出てきていたので、もう考えないことにした。


 夏の夕暮れが街を包んでいる。閉店時間間際の商店が、ひっそりと佇む。オレンジの空と、どこからともなく聞こえる人々の営みの声。この落ち着いた空気が、結構好きだ。

 行き慣れた惣菜屋の看板が視界に入り、俺は足を止めた。ガラス戸の向こうに見えた背の高い男を見つけ、戸を開ける。特に用事はないけれど、こいつを見かけたからには挨拶しておこうと思った。


「よう陸。店番?」


「おお、咲夜か。いらっしゃい」


 電柱みたいにデカイ、俺の幼馴染み。海原陸だ。

 引き戸の向こうは、陸が立つカウンター兼ショーケースがどんと陣取っている。その中にはおいしそうな揚げ物や、ナスの煮浸しやら卯の花やらの手作り惣菜が並んでいた。

 陸はこの店の主人の息子である。おじさんとおばさんが店から席を外すとき、こうして店頭に立たされていることが多々あった。


「聞いてよ陸。親父がまひるとばあちゃんを……」


 店に足を踏み入れて、今日の出来事を愚痴ろうとしたときだった。店内にもうひとり、知り合いの顔を見つける。

 艶やかな黒髪を肩に下ろした、芸術品のような美少女がいる。


「日原さん!?」


「朝見くんだー! 花火大会以来だね!」


 俺を見てぱっと笑うその花のような顔立ちは、見ているだけで赤面してしまう。黄色いロングスカートにサンダルの出で立ちは、学校で見る制服姿とはまた違った趣がある。

 クラスのアイドル、日原美月。容姿よし成績よし運動神経抜群、才色兼備のお嬢様だ。それなのに嫌味のない無垢な性格の、パーフェクト女子高生である。俺には眩しぎる存在だったので、関わるのすら恐れ多かったのだが、ここ最近で一気に親しくなった。

 日原さんが、無邪気にこちらへ詰め寄ってくる。


「陸くんのおうちがお惣菜屋さんだって聞いて、お父さんたちに内緒で来たんだ」


 お嬢様である日原さんのマイブームは、ちょっと悪い子になることだ。といってもそれは、平均的な他の高校生と同じ過ごし方をするといったものである。俺や陸みたいな、しょうもない奴らとつるむのが楽しいみたいだ。

 日原さんが俺に顔を近づけてくる。


「こっそり出てきたから怒られるかもしれないけど、いっか。朝見くんにまで会えてラッキー」


「はは……あんまりお転婆しないようにね」


 こちらはどきどきしてしまって、逆に仰け反った。

 日原さんは蝶よ花よと育てられているせいか、若干危機感が足りない。その気もないくせに思わせぶりなことを言うのも、こちらを翻弄して遊んでいるとかでなく、単純に「友達として」会えて嬉しいと言葉にしてるにすぎない。

 こちらとしては、こんなかわいい子に詰め寄られて勘違いしそうな嬉しい言葉を囁かれ、気が気ではない。


「日原さん、なに買ったの?」


 顔を背けつつ尋ねると、日原さんは腕に下げていた買い物袋から惣菜のパックを取り出した。


「マカロニサラダ! それからじゃがいもの串揚げ。あとね、プリンも買っちゃった」


 日原さんを眺め、陸が付け足した。


「今日のプリンは特別仕様だったんだよ。生クリームが載ってる」


「そうなの、ほら!」


 日原さんが袋の中からプリンを取り出した。たしかに普段のプリンとは違い、上に生クリームがたっぷりトッピングされている。長年この店を知る俺でも、初めて見た仕様だ。

 日原さんが、大事そうにプリンを両手で包む。


「お父さんとお母さんにバレないように、部屋でこっそり夜食に食べるんだ」


 日原さんにとっては、この程度のことが大冒険なのである。


「そっか。俺もプリン買おうかな」


 冷蔵ショーケースに残っているプリンは三つ。まひるとばあちゃんがいたら数が合わないが、今日からは三人暮らしだ。ちょうどいい。

 キルが喜びそうだし、シエルの歓迎……いや、歓迎しているわけではないけれど、今日から一緒に暮らすわけだし、特別なおやつを買ってやるのもいいかもしれない。

 陸が壁掛けの時計に目をやった。


「美月ちゃん、時間大丈夫? 門限、七時って言ってなかったか?」


 時計の針は六時四十分を示している。日原さんはぎょっとして叫んだ。


「もうこんな時間!? 折角朝見くんが来たのに……帰らなきゃ。朝見くん、陸くん、またね!」


 日原さんは最後にきれいな笑顔を見せて、店の外へと駆け出していった。

 太陽のように眩しい女の子がいなくなると、惣菜屋はいつもどおりの平穏を取り戻した。陸がカウンターに突っ伏して、俺は壁に額をぶつける。


「はあ……美月ちゃん最高にかわいい……」


「なんかいい匂いした……!」


 俺と陸は日原さんと仲良くさせてもらっているが、実のところまだ慣れていない。


「申し訳ない気持ちになってくる。皆のアイドル日原美月とこの距離感って、すごい背徳行為っぽい気がする」


 妙な熱に浮かされる俺に、陸も顔を赤らめて頷いた。


「美月ちゃんファンからは、恨まれてるだろうな」


 それから陸は、姿勢を立て直してカウンターに頬杖をついた。


「とはいえ咲夜、結構マジで美月ちゃんといい雰囲気じゃないか?」


「なに言ってんだ。そんなわけあるか」


 俺は壁から額を剥がし、カウンターに歩み寄った。


「俺は日原さんに想いを寄せていい身分じゃないんだよ」


「交際できる身分ではないとは思うが、想いを寄せるまでなら許されるんじゃねえか?」


「いや。断じて秋波を送ってはならない」


 というのも、俺が朝見家の生まれであり、キルの飼い主だからだ。

 日原さんは、キルの暗殺のターゲットである。


 大病院の院長の娘である彼女は、父親と政治家との癒着問題のとばっちりを受けたのだ。

 今でこそキルに身分証がないし、依頼人からも停止の指示が出ているからひとまず安泰だが、カードが再発行されて戻ってきて、依頼人からGOサインが出れば、キルは再び日原さんの命を狙う。

 依頼人とやりとりをしているエージェントは、うちの親父だ。おまけに暗殺組織の総裁はばあちゃんときた。


 さらに言えば、日原院長の案件は、俺の母親の霧雨サニが失敗を犯した因縁の案件だという。これをクリアすればキルはサニを超えられるとし、キルは非常に燃えている。

 この連中に囲まれている俺に、日原さんに近づく資格などない。今のように会話を交わすだけでも、騙しているような気持ちにさせられるのだった。


「そういや咲夜、さっきなんか言いかけた?」


「あっ、そうだった。愚痴を聞いてくれ」


 日原さんインパクトに持っていかれて吹っ飛んでいたが、俺は陸に話したいことがあるのだった。


「今日、親父から連絡があってさ。いきなり外国に来いって言うんだよ。そんで、俺が買い物に行って帰ってきたら、まひるとばあちゃんがいなくなってた。ふたりとも親父のとこ行っちゃったんだよ」


「なにそれ、急すぎじゃねえ? てことは、今のお前ん家、咲夜とキルだけ?」


「それがさ……」


 シエルのことも話そうとして、途中で止まった。なんて説明すればいいのだろう。親父が送り込んできた新しい暗殺者だと正直に話したところで、陸は信じてはくれない。

 キルのときもそうだった。キルは暗殺者なのだと大真面目に語ったにも関わらず、陸はそういう遊びだと思って揺らがなかった。陸の中では、キルは俺の親戚の小学生ということになっている。

 それをヒントに、適当に誤魔化す。


「親父、今スイリベールって国にいるんだけどね。そこで知り合った子をこっちにホームステイで送り込んできたんだ。だからまひるとばあちゃんと交換みたいな感じで、今うちに知らない子がいる」


「マジかよ。混沌としてんな。まあ、あのおじさんなら、そういう突拍子もないことしかねないな」


 付き合いの長い陸は、うちの強烈個性な親父をよく知っている。


「因みにそのホームステイ、女の子? かわいい?」


「男。でもかわいい。顔はね」


 陸にこたえつつ、小さくため息をつく。シエルは、顔だけはかわいい。


「というわけで、そいつの分も含めて生クリームのプリン三つください」


 俺は指を三本立てて、冷蔵ショーケースの中のプリンを指さした。陸が「はいよ」とおざなりな返事をする。プリンを取り出して、陸は俺を労った。


「咲夜はいつも大変そうだな。俺になにかできることがあれば、頼れよな」


「ははは、ありがと」


 こうして話を聞いてくれるだけで充分だ。暗殺なんて関係ない、平和な世界でのんびり生きている陸は、俺に束の間の休息をくれる。

 と、思った矢先、陸はプリンを袋に詰めながら言った。


「にしても美月ちゃんはきれいだよなあ。ラルちゃんも大事だけど、それとこれとは感情の種類が別というか……」


 唐突に出てきたその名前に、俺はぶはっと吹き出した。


「ラル!?」


「花火大会以来、連絡が取れない……」


「そうか! それはよかった! そのまま忘れろ!」


 俺はカウンターに飛びつき、寂しそうな陸に捲し立てた。事情を分かっていない陸は、不思議そうに目をぱちくりさせている。


「なんでそんなこと言う?」


「お前は振られたんだよ。もう忘れような。ラルなんて奴はいなかった」


「振られた!? なんか俺、嫌われるようなことしたかな!?」


 陸が真面目にショックを受ける。これはこれでかわいそうで、俺はフォローの言葉を考えた。


「えっと……陸にミスはなかったと思うけど、ほら、ラルはモテるから。上には上がいたんだよ。大丈夫、陸にはもっといい人がいるよ」


 そこへ、店の奥から店主であるおじさんの声がした。


「陸ー、そろそろ店番いいぞ。ありがとな」


「じゃ、俺もこの辺で」


 購入したプリンの袋を下げて、俺は惣菜屋を後にした。

 陸は暗殺など関係ない平和な世界の住民だ。だというのに、その聖域に入り込んでくる厄介な奴がいる。

 俺はひとつため息ののち、交番の方へと早歩きした。


 *


 最寄りの交番に向かう途中、団地が並ぶ地区に差し掛かった。夕暮れに歌うヒグラシの声がする。団地と団地の間に公園があり、木が多いせいだ。昼間であれば夏休みの子供たちが遊んでいるのだが、この時間ではもう、人の姿はなく閑散としていた。

 道沿いを抜けた先に、交番がある。そこへ向かってすたすたと進んでいて、俺はハッと足を止めた。


 黒いマントの姿を見つけたのは、その公園のアスレチックの横だった。薄い黄色の、ドーム型のアスレチックにもたれ掛かって、黒いマントが座り込んでいる。膝を抱えて、顔を膝小僧にうずめて縮こまっていた。

 ピアスの落とし主だ。交番に届ける前に、本人を見つけられたではないか。俺は黒マントを見つけるなり、駆け寄った。


「あの! これ、落としましたよ」


 声をかけると、黒いマントがびくんと肩を弾ませて顔を上げる。そのとき初めて、フードの中の顔が露になった。

 その顔の造形を見て、俺は思考が停止した。


「えっ……?」


 俺を見上げる瞳は、サファイアを思わせるきらきらしたブルーだ。フードの中を垂れる髪は、透き通った銀色である。肌は病弱に見えるほど白い。

 そして、なにより。


「シエル……?」


 思わず、その名前を口にした。目鼻立ちがシエルと全く同じなのだ。


「じゃ、ないか……」


 目の色が全く違うし、シエルは今、家にいる。だから絶対に、同一人物ではない。だけれど一瞬本当にシエルかと思うほど、完全一致の同じ顔なのだ。


「う……?」


 シエルと同じ顔の造りをしているが、表情はシエルよりずっとあどけない。純粋無垢な目をして、俺を見上げている。

 なんだ、これ。なんでシエルの生き写しというか、色違いみたいな奴がいるんだ。


 パニックに陥った俺を殴るかのように、突風が吹いた。公園の木々がざわめき、木の葉と砂利が舞い、目の前では黒いマントのフードがばさっと引き剥がされた。フードの中から現れるのは、真夏の太陽の光を透き通らせるような、光り輝く淡い銀色の髪。首の後ろで編み込んで、まとめられている。

 同じ顔と言えど、こちらは女の子のようだ。


 そして銀髪の中から覗く耳には、片方だけ、俺が持っているのと同じピアスがついていた。

 なぜシエルと同じ顔なのかは、ともかく置いておくことにした。俺は少女の顔の前に落ちていたピアスをぶら下げて、もう一度言う。


「これ、君のだよな?」


「あっ……あう」


「あ、そっか、言葉が分からないか。えっと……」


 俺は少ない脳みそで、学校で習った英語を思い出そうとした。しかしなんと言えばいいのか、結局分からない。悶々としたのち、俺はずいっとピアスを突き出した。


「まあいいや。言葉は分かんなくても、これは間違いなく君のピアスだよな。とにかくこれ、はい」


 少女はぽかんとした顔で俺を見上げ、やがて手のひらを上に向けてこちらに伸ばしてきた。俺はその上にピアスを置く。少女は呆然と、手の上のピアスを見つめた。そしてぱっと口を開く。


「すみません、落としていたとは全く気づきませんでした。拾ってくださって、ありがとうございます」


「喋れるのかよ!」


 俺はがくっと膝を折って、少女の前に崩れ落ちた。少女が耳にピアスをつけ直す。


「わざわざ届けてくださるなんて、やはり日本の方は親切ですね」


 想像を絶するほど流暢に話す。先程の様子で日本語は話せないと思い込んでいた俺は、拍子抜けしていた。


「まあ、落としたの君っぽかったから、見てた以上は届けないとと思って」


「ふふ。これ、双子の弟から貰った大事なピアスなんです」


 少女が無垢な微笑みを浮かべる。「双子」と聞いて、またどきっとした。あの赤い瞳のポンコツ暗殺者が脳裏を過ぎる。


「それにしても、こんなところに座り込んでどうしたんだ?」


 商店街で見たときも、おどおどしていた。シエルとの関係性も気になるし、親切ついでに聞いてみる。少女は膝を抱き寄せて首を傾けた。


「私、見てのとおり外国から来たんですけどね。一緒に来た同伴者と、はぐれてしまったんです」


 少しだけ涼しくなってきた夕暮れの公園に、少女の寂しげな声がぽつぽつと零れ落ちる。


「ですが周囲の方に相談しようにも、状況が特殊なため上手く説明できなくて……」


 それで、商店街で話しかけたおばさんから逃げてしまったのか。


「状況が特殊……というと?」


 俺にどうにかできるか分からないが、一応聞いてみる。少女は眉間に皺に作った。


「話せば長くなりますが、私と同伴者を乗せていた飛行機が、操縦士の居眠りでどこぞの島に不時着してしまいまして」


 それを聞いて、どきっとする。飛行機の不時着といえば、シエルが仕組んだあの事故か。いや、あの事故を起こしたのが本当にシエルだという確証もないので、あれもハッタリだったのかもしれないが。

 少女は耳の前に垂れた銀髪を、指で払う。


「同伴者と一緒に安全確認を待っていたら、親切な方にお声をかけていただきました。日本に向かう貨物船が来ているから、急いでいるならそれに乗るといいと案内してくださったのです。私は彼に甘え、貨物船に乗せていただきました」


 日差しを受けた銀髪が艷めく。


「しかし気がついたら、同伴者とはぐれていました。私は船の中でひとりぼっちになってしまい、そのまま荷降ろしされてしまった。一応日本には到着しましたが、同伴者とははぐれたままです」


「ああ、それでひとりでうろうろしてたのか」


「同伴者も日本を目指していますから、きっとどこかにいるはずなのです。日本という島国はとても小さいので、歩いていればそのうち同伴者とも会えると思ったのですが……実際に降り立ってみると、結構会えないものですね」


「地図で見ると小さいかもしれないけど、歩いて回れるほど狭くはないぞ?」


 しっかり事情を話す程度には落ち着いているが、外国からやって来てひとりぼっちでは不安だろう。


「それで、同伴者というのは……?」


 俺はずっと、赤い瞳の暗殺者が頭の中にちらついていた。顔が全く一緒なのだ。無関係とは思えない。この子の同伴者がシエルなのなら、うちに連れていけば再会できる。

 しかし、シエルに同伴者がいるとは聞いていない。そうであれば親父から言われているはずだ。

 それに、飛行機の不時着を故意に招いたのがシエルであると仮定すると、事故に巻き込まれているこの少女がシエルの仲間だとは考えにくい。むしろ、シエルに攻撃された対象だ。

 ……ならば、同じ顔というのはどういう関係だろうか?

 少女は長い睫毛を伏せ、まばたきをした。


「同伴者は、スーツ姿の背の高い女性です。赤みがかった茶色い髪に、緑の瞳をしています」


 やはり、シエルの仲間ではない。となると、この少女は……。


「それじゃ、警察に行こうか。君の同伴者、見つけてもらえるかもしれない。同伴者の方も君を捜してるだろうから、もしもう日本に来ていれば、きっとすぐに引き合わせてもらえるぞ」


 俺は立ち上がり、少女に手を差し出した。しかし少女はふるふると首を振り、立とうとしない。


「残念ながら、それはできません」


「なんでよ」


「その……理由は言えませんが」


 彼女は苦笑いして、膝を抱き寄せる。

 表情の作り方こそ違うものの、見れば見るほどシエルそっくりである。他人の空似レベルではない酷似度だが、この子が捜している同伴者はシエルではない。しかもこの子は、飛行機の不時着事故の被害者である。なにがどうなっているのだろう。情報のピースがバラバラである。

 どちらにせよ、この子をここに放置するわけにもいかない。


 考えていた、その拍子だった。

 視界の端に、くるくる回転しながら飛んでくるなにかが入り込んできた。そしてトスッと、少女の背後のアスレチックにそれが突き刺さる。少女の頭上、すれすれに刺さっていたそれは、ナイフである。ぞっと背筋が凍った。少女も、ぽかんとした顔でそのナイフを見上げる。


「……なにこれ?」


 ナイフを投げる奴といえば、うちのペットの顔が浮かぶ。しかしここに刺さっているナイフは、奴が愛用しているものより、やや大振りだ。刃渡りが長く、柄も重たそうである。

 俺は即座に、ナイフの軌道を辿って振り向いた。

 公園に植えられた木の上だ。そこに、モスグリーンの外套が風を孕んで揺れている。


「うわー。今の、かなりいい感じに狙えたと思ったんだけどな」


「シエル!?」


 家に置いてきたはずのシエルが、太い木の枝に立っている。相変わらず的を狙うのは下手だが、俺を混乱させるには充分だった。

 シエルがにっこりと微笑む。


「咲夜さん、ご苦労様。僕のターゲットまで、案内してくれてありがとう」


「ターゲットって……!」


 息を呑む俺を見下ろして、シエルは外套の内側から、新たにナイフを抜いた。


「そこにいるのは僕のターゲット。スイリベールの王女様、アンフェールだよ! ははは! 闇の宴の始まりだ」


「どういうこと……!?」


 この少女は、本当に王女なのか? ならどうしてこんなところに?

 そしてなによりどうして、暗殺者のシエルとターゲットの王女が、瓜ふたつなんだ。

 固まってしまった俺を、少女の声が我に返す。


「シエル!」


 ハッとそちらを見ると、銀髪の少女が立ち上がっている。


「シエル! シエルだよね!?」


 嬉しそうに碧眼をきらきら潤ませて、シエルに手を振っていた。


「久しぶりね、会えて嬉しい!」


「ええっ!? あいつ今、君にナイフ飛ばしてきたんだけど!?」


 ぎょっとする俺に、彼女は愛らしい笑顔で紹介した。


「あそこにいるの、私の双子の弟なんです」


「今それどころじゃ……えっ、双子!? 王女と暗殺者が双子? なんなんだ!? もうなにがなんだか!」


 シエルは攻撃してきたというのに、殺意を向けられている少女の方は、まるで緊張感がない。

 俺は一旦、息を整えた。シエルは自称「王女暗殺の命を受けた暗殺者」だが、実際のところキルの足元にも及ばない程度のトロさである。彼が王女暗殺を担っているはずがないから、つまりこの少女が王女というのも嘘くさい。

 ひとまず俺は、少女を庇って前に立ちはだかった。


「ふざけるのも大概にしろ、シエル。双子だかなんだか知らないけど、人様に向かってナイフを投げるな!」


 シエルが面倒くさそうに眉を寄せる。


「だから、それは僕のターゲットの王女だってば。ターゲットにナイフを攻撃してなにが悪いの?」


「いい加減にしろ。王女王女って、お前王女を狙えるほど実力ないだろ」


 王女暗殺の件はハッタリだ。シエルにそんな依頼が来るはずない。もしかして、双子が暗殺ごっこで遊んでいるだけなのか。いや、飛んできたナイフはアスレチックに突き刺さるほど鋭い。間違いなく、本物の刃物だ。


「王女なんて、そんなわけ……!」


 だがそう言った俺の頭上から、耳によく慣れ親しんだマシュマロボイスが降ってきた。


「それがさあ。ミスターに確認したら、マジだったっぽいんだわ」


 びくっと振り向くと、少女が寄りかかるドーム型のアスレチックの上に、白い犬の外套の姿があった。


「キル!? どういうことだ!」


「安心しな。戸締りはきっちりしてきたぜ」


 アスレチックの上のキルは、白いフードの中でニッと笑った。

 整理がつかない頭で、俺はキルとシエルと、背後の少女とをそれぞれ見比べる。


「マジだったって、それじゃ……この子、本当に王女?」


「そゆこと」


 返事をしたのは、木の上のシエルだ。


「言ったでしょ。僕は王女暗殺の命から逃れられない運命。呪われた血族の闇の眷属なのさ」


「要はシエルは王女と双子だから、王女様に近づくのに最適なんだとさ」


 キルがシエルの中二語を通訳してくれた。

 ポンコツのくせになんで、王女様暗殺なんか請け負ってるんだよと思ったら。

 事実、目の前にいる双子の姉はまるで警戒心がない。アンフェールと呼ばれたこの少女は、思い出したように異国語でシエルに語りかけている。なんと言っているのかは分からないが、にこにこ笑って手を振っているところを見ると、どうせ歓迎しているのだろう。


 俺はアンフェールの耳元で揺れる、青いピアスを睨んだ。俺がこのピアスを持っているのを見た、シエルの反応の理由が今なら分かる。

 アンフェールは、このピアスは双子の弟から貰ったと話していた。シエルはピアスを見て、アンフェールがこの街にいると気づいたのだ。

 アンフェールも、事態の不穏さに気づきはじめたようだ。シエルを見つけたときのにこやかさは固くなり、青ざめている。


「シエル……? どうして……」


 大きく目を見開き、震える声で問いかけている。


「呪われた血族の闇の眷属って……どういうこと!?」


「そこ?」


 弟が殺意剥き出しでナイフを投げてきたせいで混乱しているのか、アンフェールはシエルの言葉尻に反応していた。シエルの方も、ニヤッと目を細める。


「言葉のとおりさ。片や君は王女、片や僕は暗殺者。天上の民である君を、僕は僕のサタンに献上するのさ」


「そんな! 久しぶりに会えたのに、シエルは闇に魂を売っていたの……!?」


 困ったことに、アンフェールはシエルの言動を真に受けてしまっている。おかげでシエルが大盛り上がりだ。


「ふはははは! 僕はもう闇に落ちていくのみだ。アンフェール、君を土産にね!」


「なんなんだこの寸劇、ただの仲良し双子なのか?」


 俺はこの痛々しい茶番に辟易していた。


「大体、双子が片方は王女で片方は暗殺者だなんてことあるのか? なにがどうなったらそうなるんだよ?」


「人の子である君には関係ないよ」


 シエルがスタッと、木から飛び降りた。


「お前も人の子だろ……」


 俺は身じろぎし、アンフェールを背中に隠す。シエルはアイスピックを手に持ち、その鋭いニードルに舌を這わせた。


「咲夜さん、そんなところに立たれたら邪魔だよ。僕が的を狙うのが上手じゃないの、分かってるでしょ?」


 その面持ちは、先程キルと揉めて負けたときとは違う。赤い瞳が爛々と輝いているのだ。ターゲットを前にしたからか、中二病心を掻き立てられたからなのかは分からない。だがシエルにスイッチが入ったのは、素人の俺でも分かった。


「どいてやりな、サク。一発で殺させてやろうや」


 キルがアスレチックの上で胡座をかいている。

 俺の背後では、アンフェールが青白い顔で絶句している。俺は額に汗を滲ませた。暗殺者に前後を塞がれ、しかもどいつもこいつも話が通じそうにない。どうすればいい。

 考えている余裕はない。俺はガッと、アンフェールの手首を掴んだ。


「行くぞ!」


「えっ? どこへ?」


「ここ以外!」


 とにかく、ここを離れたい。暗殺者は目立つ場所では殺人はしない。ひとけのある場所まで逃げるしかない。

 アンフェールはまだ狼狽していたが、俺に引っ張られて足を動かす。

 その瞬間、走り出そうとしたその行く手に、ストッとナイフが降ってくる。刃は俺の鼻先を掠め、公園の砂利に突き刺さった。


「そうはさせないぜ」


 からかうような声は、アスレチックの上から下りてくる。キルは二本目のナイフを構え、俺とアンフェールを見下ろしていた。


「どこにも行かせないよ」


「お前な……!」


 俺はアンフェールの手首をぎゅっと握り、キルを睨んだ。


「今、身分証ないんだろ。暴れない方が懸命じゃないか?」


「そうだね。私には王女様は殺せない。だからせいぜい、サクを足止めしてシエルを援護するくらいしかできないかな」


 キルはニンマリ笑ってナイフの先をこちらに向けてくる。


「折角見つけたんだ。シエル、ここで仕留めちゃおうぜ」


「OK、キル先輩」


 シエルの機嫌良さげな声がする。

 暗殺者なんてひとりでも厄介なのに、キルのフォローが入るとなると余計に厳しい。

 俺はアンフェールの手を引き、身じろぎした。少し動こうとしただけで、キルのナイフが容赦なく飛んでくる。真っ直ぐ突き抜けてくるナイフは、俺とアンフェールの真ん前を突っ切ってまたもや地面に刺さった。


「ひゃ……!」


 アンフェールが悲鳴をあげる。

 キルは当たるか当たらないかのスレスレのところにナイフを落としてきて、俺の動きを牽制してくる。バカのくせに、こういうところばかりは器用だ。


「ほらシエル! 私が引き止めててやるから、早く殺っちゃいな」


 キルが催促すると、シエルは頷き、アイスピックを片手にこちらに突っ込んできた。アンフェールが声にならない叫びをあげた。

 額に汗が浮かんだ俺は、アンフェールの手を離し咄嗟に屈んで、アスレチックに刺さっていたシエルのナイフを抜き取った。腕に引っ掛けていた、惣菜屋の袋がガササと音を立てる。

 俺は振り向きざまに、掴んだナイフを胸の前に掲げた。突っ込んできたシエルのアイスピックにぶつかり、キンッと鋭い音を奏でる。

 上から見ていたキルがどよめいた。


「ふーん、やるじゃねえか。なんの訓練も受けてないくせに、今の動作を咄嗟に取れるのは素質あるぞ。流石は霧雨サニの息子」


「だから、それ言うなって」


 俺がキルを睨むも、キルはニタニタするだけである。

 アイスピックを弾かれたシエルが、不満げな顔で後ずさった。俺はそんな彼を一瞥し、腕にぶら下がっていた惣菜屋の袋を、キルに向けて掲げる。


「なあキル。これがなんだか分かるか」


 途端に、キルの顔色が変わる。


「その匂いはまさか……プリンか!?」


 プリンなんてそんなに匂いの強いものではないのに、キルは甘い香りを嗅ぎ分けたようだ。さながら犬の嗅覚である。


「そうだ。この中にはプリンが入っている。それも、生クリームトッピング。これは十年以上、惣菜屋うなばらを知る俺でも初めて見た」


「なんだって……!?」


「いいのかキル。俺が激しく動けば、生クリームがぐちゃぐちゃになるぞ」


「なっ……」


 キルは暗殺者として天才的な能力を持つ反面、極端に食べ物に執着する。今もこうして、プリンに釣られてわなわな震えている。


「汚いぞサク……プリンを人質に取るだなんて」


「どう考えても挟み撃ちの方が汚いだろ」


 交渉する俺とプリンにぐらつくキルとを、シエルがつまらなそうに見ている。


「なにしてるの、キル先輩」


「待てシエル。今はサクを大人しくさせなくちゃだめだ」


 アホのキルはシエルの攻撃さえも制止する。シエルが語気を荒らげた。


「そんなプリンなんかに……じゃなくて、甘き誘惑の金塊に心を惑わされるのか!?」


「言い直さなくていいよ」


 キルがシエルに呆れ目を向ける。

 俺は内心ニヤリとした。やはり食べ物で釣れば、キルは楽勝だ。

 しかし、そうやって甘く見ていると足元をすくわれる。

 まばたきほどの一瞬のうちに、キルがアスレチックから消えた。え、と思った頃には、彼女の白い犬耳は俺のすぐ脇に現れていた。


「いつの間に……!」


「いただくぜ」


 キルがニヤッと牙を覗かせる。絶縁手袋を嵌めた小さな手が、俺の手から袋を引っ掴む。俺は考えるより先に、プリンの袋を抱き寄せて、持っていたナイフを突き出した。

 キルに対抗できる唯一の俺のカードであるプリンを、ここで渡すわけにはいかない。

 キルが掴んでいる袋の一部だけを、ナイフで切り捨てる。やたらと切れ味のいいナイフの刃は、薄い袋を素早く切り裂いて、掴んでいたキルをふるい落とした。

 袋の切れ端だけ掴まされたキルが、若干よろめいて舌打ちする。

 こいつのペースに呑まれたら最後だ。俺はナイフを放り捨て、代わりにアンフェールの手首を握り直した。


「逃げるぞ」


「はい!」


 今度はアンフェールも深く頷く。片腕にプリンを抱き、彼女の手を引いて走り出す。背後でシエルが高笑いした。


「ふはは! 逃げても無駄だよ。アンフェール、君はすでに闇の手に囲まれている。どこまで行っても無駄だ!」


「うるせー中二病!」


 アンフェールの代わりに俺が怒鳴って、公園の柵を乗り越える。気配を感じて背後を振り向く。すぐ真後ろに、空中で拳銃を構えるキルがいた。


「サク、大人しくしな」


 銃口は俺に向けられている。


「それ以上プリンを手荒に扱うな」


 突きつけられる拳銃にぞくっとする。だがすぐに俺は、平静を取り戻した。大丈夫だ、キルに俺は殺せない。多分その銃は、麻酔銃だ。

 ナイフで動きを牽制するとプリンがぐちゃぐちゃになってしまうと判断したのだろう、強制的に俺の動きを止めようと武器を変えたのだ。

 浮いたキル越しに見える公園の敷地からは、アイスピックを構えたシエルが走ってくる。興奮した赤い瞳が、夏の夕焼けを映してギラギラしている。

 自分の頭には銃口が突きつけられている。構えた暗殺者の動きは、異様にスローモーションに見えた。


 なりふり構っていられない。

 俺は持ち手がなくなった惣菜屋の袋を、降ってくるキルに向けて思い切りぶん投げた。プリンの入った白い袋が、弧を描いてキルの真横を通過した。その刹那、キルの視線があっという間に袋に攫われる。


「おいいい! 丁重に扱えよ!」


 キルは弾かれたように体を捻り、特攻の対象を俺からプリンに変えた。プリンが地面に落下する前にと、夢中でプリンの方へと転がり込んでいく。

 彼女が逆走する先には、こちらに突っ込んでくるシエルがいた。まさかキルが方向転換するとは思わなかったのだろう、素のびっくり顔を見せている。キルはプリンに一直線で、アイスピックを持ったシエルに注意が向かなかったらしい。ふたりはこちらが驚くほど、呆気なく正面衝突した。


「ぎゃああ!」


「ふわあああ!」


 公園の砂利の上にすっ転ぶふたりを見届け、俺はアンフェールを連れて駆け出す。キルにアイスピックが突き刺さっていなければいいが……。あいつのことだ、なんとかかわしているだろう。


 *


 アンフェールを引っ張って、最寄り駅まで出てきた。駅前の駐輪場の傍で、俺はアンフェールとともに立ち止まった。ぜいぜいと息を整えて、汗を拭う。


「なんとか撒いたみたいだな」


「そのようですね」


 万が一暗殺者たちが追ってきていても、ここなら多少人出がある。すっからかんの公園よりは人の目があり、かといって混みすぎているわけでもない。暗殺者が身を隠せそうな場所は多いが、ひとまず、これだけ他人の目に触れやすいロケーションなら暗殺者は慎重になる。


「怪我はないか?」


 聞くと、アンフェールはこくっと頷いた。驚いたことに、息が上がるでもなくぴんぴんしている。駐輪場の柵に凭れて息を荒らげているのは俺の方だけだった。


「苦しくないの?」


「お気遣いなく! 私、軟弱そうに見えるかもしれませんが、結構運動が好きなんです。でもこんなに長い距離を思いっきり走ったのは初めて! 気持ちよかった」


 アンフェールはえへへとはにかんで、興奮気味に語った。


「もちろん王宮内では、淑やかに静かに歩くよう教えられています。ですが、国技の格闘技や乗馬なんかを嗜むために体力作りはしてるんです!」


「王宮……」


 俺も荒い息を繰り返す。酸欠の脳が徐々に活性化してきた。


「ああそっか、王女さ……まっ」


 そしてハッと、再びアンフェールに向き直る。


「そういえば、王女って……あれ、本当なのか?」


「ええ。生憎証明できるものがありませんが……あっ、えっと」


 勢いづいて喋ったアンフェールだったが、喋りながら我に返った。慌ててマントのフードを被って顔を隠す。


「なんでもありません。忘れてください」


 一瞬は、ただ双子でそういう設定で遊んでいるだけなのでは、と思ったりもした。だがシエルが親父から派遣されてきたのはたしかだ。あいつは正真正銘の暗殺者である。

 だとしたら、シエルが追いかけるこの少女も、王女である。


「……そんなことってあるのか……?」


 未だに信じられない。今目の前にいる少女が一国の王女だなんて、平凡な暮らしをする自分には世界が違いすぎて冗談としか思えない。

 ひとまず俺は、鞄からスマホを取り出した。「スイリベール」「王女」で検索すると、動画サイトがヒットした。海外のニュース番組の動画で、スイリベール王家のパレードの様子を報道したものである。

 そこにはたしかに、オープンカーから手を振る王女の姿があった。動画の中の少女と、目の前にあるフードの中の顔とを見比べる。銀色の髪も青い瞳も、甘い顔立ちも完全に一致した。


「うわ。マジだ」


 意外とこういうとき、大きなリアクションは出ないものだ。陸と世間話しているときみたいな、やけに乾いた反応になる。アンフェールは動画を覗き込み、フードの淵を持って遠慮がちに下を向いた。


「王位継承権を持つ者同士の争いは、冷戦状態で常に続いていました。しかしそれは、身の回りを調べて不祥事を探したり、相応しくない発言を引き出そうとするなどの程度です」


「陰湿だな」


「ところが、私の国は今、政権交代の時期が間近に迫ってきている。ここへきて一気に追い込みをかけてきた勢力があるんです。即位のその日までに、私を暗殺しようとする動きがあると……聞かされています」


 そうか。アンフェールは、自分を暗殺しようとする勢力から逃げるため、この国に逃げてきたのだ。


「王に即位しても、恨みは買うでしょう。ですが即位さえすれば、ある程度身を守る手段があります。今がいちばん、命を狙われるときなのです」


 青い瞳を上げて、彼女は俺を拝んだ。


「どうか秘密にしてください。王女が日本に隠れていると、大々的に知られるわけにはいかないのです」


「わ、分かった」


 警察に相談できないと言っていたのも、事を大きくしたくなかったからなのだろう。俺としても、こういう事情なら警察には届けられない。日本の国家公認暗殺者集団フクロウは、国が認めているため、警察とも繋がりがある。アンフェールがここにいるという情報が警察に伝われば、最悪、彼女を狙う暗殺者にも漏洩しかねない。

 凡人の俺にはやはりまだ事態を呑み込めていなかったが、厄介なのだけはよく分かる。


「同伴者っていうのは、王女の付き人ってところか?」


 聞いてみると、アンフェールは小声でこたえた。


「王家に仕えるSP部隊に所属する、私の専属SPです。拳銃を所持しているので、あまり日本の警察とは関わりたくないかと……」


「そういう事情もあるのか」


「ええ。あなたのおっしゃるとおり、然るべき手段を取った方がいいのは承知です。ですが、情報を開示すればするほど、危険が増えることも事実で……たとえば、暗殺者の存在とか」


 アンフェールは柵に体重を預け、フードの中で俯いた。


「シエル……会えたのに、とても悲しいです。暗殺者の存在は聞かされていたけれど、まさかシエルだなんて……」


 涼やかな声が、微かに震える。


「シエルとは、もうずっと会ってなくて。久しぶりに会えて、奇跡みたいで嬉しかったのに。会っていないうちにあんなに変わってしまった」


「そうだよな。武器なんか振り回して……ショックだよな」


「シエルはあんなこと言う子じゃない。王宮をこっそり抜け出して、街に出かけて、すぐに見つかって叱られてた。やんちゃだったけど、明るくて、優しくて……」


 アンフェールは耳に手を当て、揺れるピアスに触れた。


「お土産に、このピアスを買ってきてくれた。さんざん叱られたのにケロッと笑って、『アンフェールの目の色と一緒』って……」


 自分と同じ顔をした双子の弟が、思い出の中を一緒に過ごした弟が、暗殺者として自分の命を狙う……酷く残酷だ。アンフェールはううっと呻いた。


「まさか、闇に魂を売ってしまったなんて……! 彼はサタンに仕える闇の眷属と成り下がってしまった!」


「それはただの中二……あー、あながち間違いでもないな……」


 アンフェールがシエルの中二病発言をどこまで本気にしているのかよく分からないが、双子なのに差が歴然としていることは事実だ。


「アンフェールとシエルは、本当に双子なんだな?」


「はい。顔が証拠です」


 アンフェールがきっぱりこたえる。アンフェールとシエルは、目の色こそ違うが顔の造りはまるで同じだ。双子であること自体は、疑う余地はないだろう。

 であれば、シエルも王家の人間なのか。それがどうして、王女を狙う暗殺者なんかになってしまったのだろうか。

 アンフェールは足元を見つめ、ぽつんと零した。


「スイリベールでは、双子は不吉なものとされていて、六歳までに引き離す風習があるんです」


 話し方は凛としていて、それでいてどこか寂しそうでもあった。


「私たちは現在の女王の子として生を受けましたが、生憎、疎まれる存在である双子でした。私とシエルは四歳までは一緒に育ち、ある日を境に、シエルだけが王宮からいなくなりました」


 夏の夕暮れの中に、芯の通った声がしっとりと紡がれる。


「私は王宮の人たちに、シエルがどこへ消えたのか、何度も尋ねて回りました。しかし彼がどこでなにをして暮らしているのか、全く教えてもらえません。そのうち私も聞くのをやめて、初めからひとりっ子だったかのように振る舞うようになりました……」


 俺は、シエルを見たときのアンフェールの笑顔を思い浮かべた。四歳の頃に別れたきりの、双子の弟だ。自分と同じ顔だから、見間違えることもない。母国スイリベールから遠く離れたこの異国の地で再会し、どれほど嬉しかっただろう。

 だというのに、その弟は自身に刃を向けてきた。


「ずっと、会いたかった。でもシエルはそうじゃなかったんですね。そうですよね、私が王女としてなにひとつ不自由なく暮らしている間、シエルは王宮の外に追い出されて、全く別の人生を歩んでいた。のうのうと暮らす私に、殺意を抱くのも無理もありません」


 アンフェールの言葉を、俺は黙って聞いていた。事情が複雑で、どう声をかけてあげたらいいのか分からない。

 言葉を探して無言になる俺を、アンフェールはちらっと見て、それから大きな身振りでお辞儀した。


「お兄さん、助けてくださってありがとうございました!」


「あっ、うん……いや、これからどうするの?」


 アンフェールは同伴者、つまり専属SPとはぐれているのだった。その上、ひとりで迷い込んだ街に、自分を狙う暗殺者が待ち構えていたという最悪の事態である。

 アンフェールは困ったように笑い、俺に会釈する。


「大丈夫です、私、自分でなんとかしますから!」


「なんとかなんないと思うよ!? 日本じゅうを歩いて回って同伴者を捜すなんて無理だと思う!」


「なんとかします、なんとか。親切なお兄さん、本当にありがとう。失礼します」


 彼女は楽天的に笑い、立ち去ろうとした。俺は言葉を詰まらせながら、手を伸ばす。迷子と分かっていて、王女と分かっていて、暗殺者に命を狙われているのまで分かっていて、野放しにする奴があるか。しかし「うちにおいで」とは絶対に言えない。なぜならば、うちにはシエルがいるからだ。

 どう引き留めようかと惑っていたそのとき、背後から、耳慣れた優しい声が聞こえてきた。


「朝見くん?」


 どきっとして振り返ると、そこには黄色いスカートを風に靡かせた日原さんが立っていた。


「あれ!? 日原さん、なんでここに? 門限大丈夫なのか?」


「帰りの電車をギリギリで逃しちゃって……。次の電車を待ってる間、ホームから外を眺めてたの。そしたら朝見くんっぽい後ろ姿を見つけて、下りてきちゃった」


 えへへとはにかむ顔も、抜群にかわいい。

 日原さんは、俺の向こうにいたアンフェールに顔を向けた。


「あの人は?」


 立ち去ろうとしていたアンフェールだが、日原さんを見て固まっている。日原さんはアンフェールに駆け寄って、フードの中の顔を覗いた。


「あれっ、外国の人? こんにちは。日本語は話せる?」


「は、はい。初めまして」


 アンフェールが挨拶をし、頭を垂れる。丁寧な所作と顔を見て、日原さんはわあっと感嘆した。


「きれい……!」


「えっ、そうですか?」


 アンフェールの声が嬉しそうに弾む。日原さんは無邪気に頷いた。


「お顔も瞳も髪の毛も、仕草も、すごくきれい。しかも日本語、とっても上手ね」


 目をきらきらさせて、日原さんがこちらを振り向く。


「この子、朝見くんとどういう知り合いなの?」


「俺も会ったばっかだよ。この子はスイリベールの……」


 王女、と言いかけて、呑み込む。アンフェールから秘密にしてほしいと言われたばかりだ。


「スイリベールから来た留学生なんだって。でも降りる港を間違えて、迷子になっちゃったらしい」


 留学生というのだけは出任せだが、後は大体事実だ。

 日原さんが驚嘆する。


「外国から来て迷子!? それは大変。かわいそう。助けようとしてる朝見くん、本当に人がいいよね」


「俺は別に、成り行きというか……」


 驚きついでに褒められて、俺はまごつき語尾を濁した。


「けどこの子、事情が複雑で警察に届けられないんだよ」


「えっ。警察を頼れないって、どんな状況?」


 日原さんのきれいな顔が、ぴくっと表情を固くする。


「犯罪に巻き込まれてるとか……?」


 それを受け、アンフェールは目を泳がせた。


「その、上手く言えないのですが、大丈夫です。お気になさらず」


「大丈夫じゃないよ! お財布は持ってるの? 携帯は?」


 人のいい日原さんは、アンフェールのマントの端を握って詰め寄る。アンフェールの方は、日原さんの勢いに押されておたおたとこたえた。


「所持金は一切、同伴者に預けてしまっています。連絡ツールも、同伴者に持たせた荷物の中です……」


「お金がないんじゃ、ご飯食べられないじゃない。それにホテルはおろか漫画喫茶にすら入れない。どこで夜を越すの?」


 日原さんはぐいぐい詰め寄った。


「そうだ、同伴の人の電話番号は覚えてる? 私のスマホからかけてみようか」


「携帯電話とは違うオリジナル通信機ですので、スマートフォンからはかけられないかと……」


「完全に詰んでるじゃない!」


「大丈夫です、私のことなどお気になさらず。ご心配ありがとうございます」


「こうしてここで会ったのもなにかの縁でしょ。私にも一緒に考えさせて」


 日原美月という少女は、びっくりするほど清らかな性格をしている。美人で金持ちのお嬢様ならば少しくらい性格に歪みがないとバランスが取れないと思うのだが、この子に関しては、性根までパーフェクトなのだ。キルにも見習ってほしいと、俺は常々思っている。

 日原さんは、掴んでいたアンフェールのマントをぐいっと自身に引き寄せた。


「もしよかったら、私の家に来ない?」


「へっ!?」


「え!?」


 俺とアンフェールが叫んだのは、ほぼ同時だった。日原さんが繰り返す。


「だって、どこにも行く宛がないんでしょ? 同伴者さんが見つかるまでの間、うちへおいでよ。お父さんとお母さんには、ちゃんと話せばきっと分かってくれる。ね、それがいいよ!」


 早口に捲し立ててから、日原さんはちょっと、声のトーンを落とした。


「それとも、迷惑かな」


「いいえ! とんでもない。こちらこそ、ご迷惑ではありませんか?」


 アンフェールが青い目を輝かせる。日原さんの背中を見ていた俺は、ぽかんと口を半開きにした。

 日原さんは救いの女神なのではないか、と心の底から思った。アンフェールが路頭に迷っているのに、俺にはなにもできない。しかし日原さんの家なら別だ。それに彼女は大病院の院長の娘であり、家のセキュリティはキルでも破れないほど厚い。この好機に甘えない術はない。

 アンフェールも、縋るような目で日原さんを見つめていた。


「いいのですか……!?」


「うん。あなたが困ってるのをちゃんと説明すれば、私の両親もあなたを追い返そうとはしないと思う」


 俺もぜひ、アンフェールを日原さんに任せたかった。だが、王女を匿ってしまったら、日原さんの身にも危険が及ぶかもしれない。


「日原さん、もう少しよく考えて。さっき言ったとおり、アンフェールはちょっと事情が特殊で……」


 厚意はありがたいけれど、日原さんを巻き込むわけにはいかない。しかし、日原さんの意志は俺が思う以上に固かった。


「それなら尚更、誰かが手を差し伸べるべきでしょ」


 さらっと言ってのけ、その上で訝るような目で俺を睨んでくる。


「えっ、朝見くんは反対するの? じゃあこの子どうするの? 困ってるのに放っておくの? 朝見くんってそういうこと言うんだ。見損なっちゃうな」


「う……そういうつもりじゃ……」


 わざとっぽく俺を責めてくる日原さんに、俺は根負けしそうになった。日原さんはじとっとした目つきで俺を見据え、やがてくすくすと笑い出した。


「どうせ私に迷惑がかかると思って気にしてるんでしょ。いいんだよ、私の方から提案してるんだから」


 俺が彼女自身の身を案じているのも、日原さんにはきちんと伝わっていたみたいだ。日原さんがアンフェールに向き直る。


「私、美月。あなたの名前は?」


「私はアンフェールといいます。美月さん、本当に甘えていいんですか?」


 アンフェールが重ねて確認している。

 日原さんの家にいきなり他所の子を預けること自体が、迷惑かもと思ったのは事実だ。ただそれ以上に、アンフェールが抱える事情が突拍子もないものであるのが、最大の不安であって。

 なんにせよ、日原さんがこんなふうに考えてくれているのなら、隠し事はすべきでない。俺は日原さん越しのアンフェールと目を合わせた。


「助けてもらうなら、秘密ってわけにはいかないよな?」


「……そうですね」


 アンフェールも、下を向く。なんのことか分からずきょとんとしている日原さんに、俺は真剣に切り出した。


「落ち着いて聞いて。アンフェールは、本当は留学生じゃない。嘘をついてごめん」


 アンフェールと日原さんとを交互に見比べて、話す。


「この子、スイリベールの王女なんだ。国のいざこざから身を守るために日本に逃げてきていて、同伴者とはぐれて迷子になってる」


「えっ……!?」


 日原さんの顔色が変わった。俺は辺りを見回して、物陰に暗殺者の影がないのを確認する。


「折角逃げてきたけど、アンフェールを狙う暗殺者が日本まで追ってきてる。だからアンフェールを匿うなら、日原さんにも危ない目にあわせてしまうかもしれないんだ」


 日原さんは、大きな目を見開いてしばし呆然としていた。無理もない、王女だとか暗殺者だとか、あまりにも日常からかけ離れていてぴんとこないのが当然だ。

 日原さんは呑み込めないといった顔で、数秒間沈黙していた。石のように固まっていた彼女が、ようやく声を出す。


「あのね、朝見くん」


「うん」


「もうすぐね、すごく面白そうな洋画が始まるの」


「……うん?」


 なんでいきなり洋画の話が出てきたのか。いきなりトリップしてしまった日原さんは、にこやかに続けた。


「お姫様が王国を抜け出して、街でお転婆する映画だよ。近々上映されるから、観に行きたいなって思ってるの。朝見くんも好きそうだから、もしよかったら観てみて」


「ん!?」


 もしかして日原さん、俺が言っていることを信じていないのではないか。

 そうだった、日原さんはキルが真正面から武器を持って襲ってきても、暗殺者「ごっこ」と受け止めてしまうほど平和ボケしているのだった。そうでなくてもアンフェールの話は嘘みたいな背景だ、すんなり信じてはもらえないだろう。

 しかし日原さんの言い回し、まるで俺が映画と現実をゴッチャにしているかのような受け取り方ではないか。


「待って日原さん、違うんだ!」


「あっ、そろそろ電車が来る。私もう行かないと」


 日原さんがスマホの時計を確認する。


「それじゃ朝見くん。これから先、アンフェールちゃんのことで動きがあったら連絡するよ。あと、困ったときも相談していい?」


「それはもちろん……て、マジで預かってくれるの?」


 戸惑い気味に言ったら、日原さんは照れくさそうにはにかんだ。


「もうとっくにその気だったよ! アンフェールちゃん、おいで」


 日原さんが急ぎ足で駅の階段へ向かっていく。呼ばれたアンフェールは日原さんを目で追いかけ、ついていく前に、俺に丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございました!」


 そしてアンフェールも、ぱたぱた走って日原さんの後に続く。俺は駐輪場の柵の前で、ひとりぽつねんと取り残された。


「日原さんにとって……俺、中二病……!?」


 ショックが大きすぎて、しばらくそこから歩き出せなかった。


 *


 とぼとぼと家に帰ると、玄関の鍵はかかっていなかった。ドアを開けると同時に、中から騒ぎ声が飛んでくる。


「だからあ! 貴様のせいで生クリームがベチャベチャになっちゃったんだろうが!」


「責めたいのはこっちだよ。キル先輩が誘惑の金塊に魂を売ったせいで、僕は悪しき堕天使を射止め損ねた」


「私がプリンに気を取られたせいで、王女を殺し損ねたって意味か? 回りくどいんだよ! そもそも、あんたがあの場できちっと殺していれば解決しただろうが!」


 どうやらうちのペットたちは、自主的なお散歩から帰ってきていたみたいだ。


「ただいま」


 ダイニングに顔を出すと、テーブルについていたキルが、すぐさまこちらを振り向いた。


「あっ、おいサク! 聞いてよ。シエルのせいでプリンの生クリームが暴発してしまった!」


「甘き誘惑の供物など今はいい。それより咲夜さん、アンフェールをどこへやったの?」


 シエルが駆け寄ってくる。アンフェールと同じ造作をしているのに、アンフェールのような品の良さは欠片も感じられない。


「アンフェールなら逃がしたよ。どこへ行ったかまでは絶対言えない」


「なんで!? ミスター右崎の禁じられた血を受け継ぎし者なのに、僕に協力できないというのか!?」


「協力するなんて初めから言ってない」


「人間はおかしなことを言う……!」


「お前も人間だろ。あとお前の方がおかしいよ」


 アンフェールと顔を合わせて刺激されたのか、シエルの中二病が酷くなっている気がする。

 変な怒り方をするシエルをあしらって、俺はダイニングと繋がっているリビングの方に顔を向けた。そして、はたと気がつく。


「あれっ、窓が直ってる」


 シエルにぶち割られた窓が、きれいに修復されているのだ。キルがテーブルで頬杖をついて言う。


「言ったろ、『戸締りはきっちりしてきた』って。サクが出かけてすぐ、フクロウ抱き込みの業者を呼んで直してもらった」


「マジかよ」


「シエルが壊したんだから、シエルの飼育費用として経費で落としてもらうよう、ミスターにも交渉済みだぜ」


 キルはなんというか、こういうところがある。暗殺者として俺にも容赦しない冷徹な姿を見せる反面、変なところで人情があるのだ。仕事に関しては相容れないが、個人の性格としては憎めない部分もあり、そのせいで俺はなんだかんだでキルを受け入れてしまう。

 プリンを買ったのも、暗殺者たちに喜んでほしかったからだ。

 キルが惣菜屋の袋からプリンを取り出す。


「シエル、いつまでもクサクサしてないでプリン食べるぞ。甘いもの食べて思考を切り替えろ」


 キルの誘いを受け、不機嫌だったシエルは肩を竦めた。


「それもそうだね。誘惑の供物で臓を満たせば闇の力も増幅する」


「『甘いものでお腹を満たして元気出してこー』って言えよ」


 シエルの面倒くさい言い回しをぴしゃっと咎め、キルは俺のことも流し目で見た。


「サクも食べようぜ」


「なんでキルが仕切ってるんだよ。それ買ってきたの俺だからな!」


「うんうん。ありがと」


 プリンはカップの中で、プリン部分とクリームがぐちゃぐちゃにミックスされてしまっていた。だがそれはそれで、甘ったるいペースト状の別のデザートみたいで、悪くはなかった。

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