1.家族に置いてかれた。

 “「わたしの家族」四年二組・朝見まひる

 わたしには、大好きな家族がいます。”


 八月に入って一週間ちょっとの、蒸し暑い昼下がり。俺はリビングで麦茶を飲みながら、妹の作文に目を通していた。


 “おりょうりが上手なお兄ちゃん。やさしいおばあちゃん。遠くではたらいてるけど、わたしをいっぱいかわいがってくれるパパ。それから、かわいいペットのわんちゃんの、キルちゃんがいます。”


 小学生の幼い妹は、まだ漢字を充分に使いこなせない。ガタガタした形のおぼつかない文字を見ていると、なんとなく微笑ましい気持ちになる。


 “ペットのキルちゃんは、「アサシン」という犬種の白い犬です。”


 それを見た瞬間、麦茶を吹き出しそうになった。


「『アサシン』は犬種じゃねえ!」


 声に出したら、顔の真横にひゅっと冷たい風が通り過ぎた。背中がひやりとする。


「うるせえぞ、サク」


 テレビの前に座っていた、“白い犬”が振り向いている。

 ちらと後ろを見ると、俺の背後の壁にはナイフが突き刺さっていた。

 ナイフを飛ばした主は、絶縁手袋を嵌めた手をこちらに突き出し、金髪を煌めかせていた。


「テレビの音が聞こえないじゃねえか」


 悪態をつくのは、白い犬耳フードの外套を着た小柄な少女。


 俺、朝見咲夜には、大切な家族がいる。

 まず、天真爛漫な妹、まひる。


「えーっ。キルちゃんの犬種は『アサシン』だって、お兄ちゃんが言ったんじゃん!」


 作文について物申すため、妹をリビングに呼びつけた。彼女は不服そうに言い返してくる。


「俺が言ったの!? いつ!?」


「寝起きでぼーっとしながら、トースト焼いてたとき」


「なんで俺の意識が朦朧としてるときに聞いたの!?」


 まひるは天真爛漫というか、度を越した天然、はっきり言ってバカだ。どのくらいバカかというと、犬の着ぐるみみたいな服装の人間を、犬と間違えて何ヶ月もペットにするくらいにはバカである。

 高校生の俺は、亡き母と海外出張の多い父に代わって、まひるの成長を見守っている。おかげでまひるの作文どおり、料理だけは得意になった。


「じゃあ、キルちゃんの犬種は本当はなんなの?」


 まひるに問われて、言い淀む。


「ええと……。犬種、作文の中に無理に書かなくてよくない?」


「なんで? まひる、ちゃんと書きたい」


「犬種はそんなに重要じゃないだろ」


 学校に提出する、夏休みの宿題の作文だ。そこにキルについて事細かに書かれては困る。

 なぜならばうちのペット、キルは。


「そもそも私の名前を載せられること自体、よくないんだが……」


 俺の横で渋面を作る、この犬耳フードの外套の、人間の少女だからだ。

 俺は苦い顔のキルに目をやる。


「名前くらいは載せても大丈夫じゃないか?」


「よくない。もしまひるの通う小学校に“敵方”の人間がいたらどうする。キルというコードネームを聞いて私の存在に気づかれたら厄介だ」


 別にキルという名前の犬だとされていれば問題ないと思うのだが、そんな甘いものではないのだろう。なにしろキルは、隠密の存在である。キルは念押しで俺に訴えた。


「『フクロウ』はなんだかんだ、恨みを買いやすいんでな」



「フクロウ」――それは、日本というこの国の、国家公認暗殺者集団の名である。

 世間的にはその存在は伏せられているが、実は日本は、世界でもトップクラスの暗殺技術を誇る暗殺大国なのだ。

 政治、人、金。権力や富を持つ者は、常に人を恨み、恨まれている。そんな仕組みの中でどうしても邪魔な人間を、自分の手を汚さずして抹殺するため、上層の人間は暗殺者を雇うという。

 国の公認で国を動かす邪魔者を、素早く音もなく、そして確実に仕留める。まるで暗闇の森で小動物を捕らえる闇夜の猛禽類、フクロウのように……それが、「フクロウ」の暗殺者だ。

 コードネーム「生島キル」は、そこに所属する敏腕アサシンである。


 そんなものがなぜ平和な一般家庭である我が家にいるのかというと、犬の着ぐるみみたいな変な格好をしていたおかげで、まひるが犬と間違えて拾ってきてしまったからだ。紆余曲折を経てうちで飼われている。

 なお、まひるは今も、キルを暗殺者とは知らずに犬だと思っているらしい。


「そうそう! フクロウといえば、新サービスが始まったんだよ!」


 キルがぱちんと手を叩いた。


「なんと! 身分証なしでも本人確認さえできれば利用できる、暗殺武器レンタルサービス! 無料で貸してもらえるんだ!」


「すごいとは思うけど、すごく嫌だな」


 フクロウという組織は、このように物騒なシステムをのほほんと運営している。

 ふいに、キルが宙を目で追った。


「あっ、虫」


 俺の耳にも、プウンと羽音が届いてきた。真夏だから仕方がないが、どうやら蚊がいるみたいだ。キルがぴょこんとソファに飛び乗り、絶縁手袋の両手を構える。暗殺者であるキルにとっては、飛ぶ虫一匹潰すくらい、容易いのだろうが……。

 キルがパンッと手を叩くその〇・一秒前、俺はキルの脇腹に突進してソファの上に突き飛ばした。


「おわあ! なにをする! 外したじゃねえか!」


 キルが牙を剥き出しにして、荒い言葉遣いで怒りを顕にする。俺はそんなキルにきっちり言い返した。


「殺しちゃいけません! 虫だって生きてるんだ!」


「はあー出ました出ました、サクのド善良! 気持ち悪ー!」


 キルが大袈裟に自身の腕を抱く。


「虫けら一匹殺せなくてどうすんだ。さぞ蚊の餌として血を提供してきたことだろうな」


「そりゃそうだろ。俺は刺されても痒いだけで済むけど、潰されたら蚊は死んじゃうんだぞ」


「なんで蚊に慈悲かけてんの?」


 これはキル以外からもよく言われるのだが、どうも俺の善良は度が過ぎるらしい。

 しかし命を大切にするということは、亡くなった母さんから教え込まれた大事な教訓だ。これだけはなにがあっても投げ出すつもりはない。たとえ自宅で暗殺者を飼っていようとだ。

 キルが身軽に飛び起きて、ソファの背もたれに飛び移った。


「だからこの家には殺虫剤がないのか。蚊を潰せないと安眠できないだろうが! 私は止めるぞ、あの不快な羽音を!」


「だめだっつってんだろ! 玄関開け閉めしていればそのうち勝手に出ていくよ」


「バカ野郎! お前はよくても私やまひるやばあちゃんがつらいんだよ!」


 なんて口喧嘩をしていると、俺とキルの間を、蚊がプワワと蛇行した。途端に、キルの目の色が変わる。暗殺者の鋭い眼光を携えたキルが、目にも止まらぬ速さで身構える。しかし俺も負けじとキルの手首を掴み、止める。キルは外套の袖口からシャッと、ダガーナイフを突き出した。その柄を俺の手が振り払い、キルの手からナイフが落ちた。しかしキルはすぐさま俺の静止をすり抜けナイフを拾い、その刃を蚊ではなく俺に向けた。


「じっとしてな」


「させるかチビ」


 俺はキルの、ナイフを持つ手を引っ掴む。するとキルはニヤッと笑って、あっさりとナイフを床に捨てた。

 次の瞬間、キルはタンッと跳ね上がり、俺の肩に右足を乗せて踏み台にして飛び、空中の蚊に向かって両手を伸ばした。見ていたまひるがキャーキャーと、歓声を送っている。

 キルはひとつ手拍子をしたが、俺が咄嗟にキルの足首を掴んだことで的が外れた。キルがチッと舌打ちをし、床に着地する。


「外した! 邪魔すんなサク!」


 キルがまた、袖口からナイフを覗かせる。あろうことか、そのナイフは躊躇なく俺の向けて投擲された。

 しかし俺ももう、キルのナイフは見慣れていて怯まない。ソファの上にあった薄茶色の丸型クッションを取り、キルが投げてくるナイフをクッションで受け止める。クッションの生地が破けて、中綿がぽふっと吹き出した。


「お兄ちゃんすごーい! 速い!」


 まひるが無邪気に喜んでいる。

 このクッションは既に、縫合の跡が十箇所を超える。全てキルの攻撃でついた傷だ。これでまたひとつ、新たに縫い合わせなくてはならなくなった。

 俺はクッションを盾にしたまま、キルを静かに怒りを滲ませる。


「今のが当たって俺が死んだら、どうするつもりだ」


「当たんない。サクなら避けるだろ」


 キルは反省の色など見せない。俺はクッションの横っ面から顔を出した。


「避けるけど! 俺は一般人だし、避けきれない可能性だってあるだろ」


「うるせーな、そのナイフに塗ってある毒は痺れる程度の弱いものだよ。死にゃしない」


「弱かろうと毒塗ってあるのかよ!?」


 暗殺者こいつらは、人に武器を向けることにも毒を盛ることにも、他人の命を奪うことにも一切の抵抗を示さない。

 多分、世界でいちばんペットに向かない生物だ。


「ナイフを避けようが、毒が死ぬほどじゃなかろうが……」


 俺はクッションを、キルに向かって投げつけた。


「俺はお前のご主人様だろうがー!」


「ふぎょっ」


 キルはすばしこい暗殺者のくせに、俺のクッション攻撃を避けきれず顔面で受け止めた。

 まひるがキャッキャと拍手をする。


「きゃーっ! お兄ちゃんの勝ち! キルちゃんもすごかった! もっかいやってー!」


 まひるは大喜びして、作文の原稿用紙をテーブルにパシパシ叩きつけて催促した。その手元に、プワンと羽音が寄る。俺とキルは、同時にあっと叫んだ。

 しかしこちらが動く前に、その小さな虫はまひるの原稿用紙の下でぷちっと消え、その後再び飛び立つことはなかった。


「死んじゃった……」


 俺の呟きを聞き、キルが拳を突き上げた。


「ッシャウラア! 私の完全勝利だ」


「完全ではない!」


 朝見家では、こんなのが日常茶飯事だ。なんなら俺が盾にしたクッションは、クッションであると同時に本当に盾なのである。中に薄く且つ硬い超合金の板が仕込まれており、キルの攻撃を防ぐことができる。暗殺者の飼い主はあまりにも危険が伴うので、キル自身から手渡されたものだ。

 これだけ家の中がドタバタしているというのに、まひるは未だにキルを犬だと思っている。相当なバカだ。

 揉めているリビングへ、柔らかな声が参加してきた。


「あらあらあら。なにを騒いでるの」


 白髪の後れ毛を耳に引っ掛けて、ばあちゃんがリビングにやってきた。まひるがばあちゃんを振り向く。


「おばあちゃーん。キルちゃんって、なんて犬種のわんちゃんなの?」


「キルちゃんは雑種よ」


「ざっしゅ? 漢字でどう書くの?」


「難しい字だけれど、まひる書けるかな?」


 俺の家族のひとり、ばあちゃん。穏やかな人となりで、俺を支えてくれる大切な人だ。今も、強い謎のこだわりを見せるまひるをあっさり納得させてくれた。この人には助けられてばかりである。

 俺はキルの襟首を掴んで回収し、穴の空いたクッションも小脇に抱えた。


「ありがと、ばあちゃん。まひるが作文にキルのこと書こうとしてて困ってたんだよ」


 ばあちゃんにこそっとお礼を言うと、彼女は皺の多い顔をよりくしゃっとさせて微笑んだ。


「それはよくないわねえ。フクロウの所属暗殺者が晒されるのは、ちょっとね」


 ばあちゃんの柔らかな笑顔から「暗殺者」なんてワードが出ると、頭が痛くなる。

 キルが俺を見上げた。


「ほらな! 総裁もこう言ってる。僅かな油断が命取りになる世界なんだよ」


 するとばあちゃんが、ぺちっと優しくキルの頭を叩いた。


「こらキルちゃん。『総裁』もやたらめったら口にしちゃだめよ」


 これは最近判明したのだが、俺の祖母、朝見夕子は「フクロウ」の創設者であり現役の総裁なのだという。つまり、フクロウに所属するキルにとっては親玉だ。

 こんなに温厚な普通のおばあちゃんなのに、俺が知らなかっただけで、日本じゅうで暗躍する暗殺者たちを取りまとめていたのだ。

 なにも知らずにおばあちゃんっ子で十六歳まで生きてきた俺としては、心の底から悲しい真実だった。

 ばあちゃんはまひるの作文に寄り添いながらも、俺とキルに声だけ投げてきた。


「あなたたち、大騒ぎしていたけれどまた喧嘩してたの?」


「聞いてよばあちゃん。キルが蚊を殺そうとしたんだ」


 ばあちゃんが暗殺者集団の総裁だと知っても、俺はばあちゃんに甘えてしまう癖が抜けていない。


「それを止めようとしたら俺にナイフ投げてきた。総裁からもなんとか言ってよ」


「そうねえ。咲夜も変だけどキルちゃんも危機管理がなってない」


 ばあちゃんが、床に点々と落ちているナイフを一瞥する。


「キルちゃん。あなたは今、身分証がないでしょ? 騒ぎを起こした場合、通常どおりにスルーされる立場じゃないのよ」


「うっ……」


 俺の手に捕まっているキルは、苦々しく首を竦めた。

 そうだった。キルは今、フクロウ所属を示す身分証「ホー・カード」を失っている。

 カードがあれば、キルたち公認暗殺者は人を殺しても誰からも咎められない。国から殺人を認められているからだ。

 しかし逆に言えば、このカードがないと公認暗殺者である証明がないということになる。事件を起こせば当然、警察の厄介になる。フクロウから警察に連絡が行けば釈放されるそうだが、暗殺者として、目立つ行為があれば経歴に傷がつくのは想像に難くない。

 キルは直近の案件で、うっかりこの身分証のカードを割ってしまい、暗殺者としての業務が行えない状況にいるのだ。

 ばあちゃんがにこっと微笑む。


「そうでなくても、実務に関係のない戦闘は不要。ましてや総裁の大事な孫に傷をつけるだなんて以ての外ね。万が一この子が怪我でもしたら、どう償うつもりだったのかしら?」


「ひっ……ごめんなさい」


 キルが縮こまる。あのキルに謝罪させるとは、流石はうちのばあちゃんだ。

 ホー・カードは暗殺者の身分を証明するだけでなく、内蔵のICチップで仕事内容が記録される手帳のようなものでもある。さらにはクレジットカードにもキャッシュカードにも電子マネーにもなるというので、実質彼ら暗殺者の生命線なのだ。

 それを失って再発行申請中のキルは、仕事もできずお金もない。なすすべもなく我が家に寄生しているのだった。

 ばあちゃんが横目で俺を見据えた。


「咲夜も。キルちゃんは頭の造りが単純なんだから、下手に怒らせないようにね」


「う……ごめんなさい」


 俺も素直に謝った。ばあちゃんは朗らかに続ける。


「あなたはお母さん似だから、機敏に避けられるかもしれないけれど。まひるにナイフが当たるかもしれないからね?」


 母さんのことを言われると、これまた胸がグサッと痛くなる。キルも眉を寄せて、俺の顔色を見ていた。ばあちゃんはそんな俺の気まずい顔を面白がって、歌うように言った。


「とはいえ、咲夜がキルちゃんと揉めると霧雨サニの遺伝子がはっきり見て取れて、私としてはちょっと嬉しい」


「……それ、忘れたい」


 俺はキルを解放し、クッションを抱えてソファに倒れ込んだ。

 フクロウにはかつて、伝説と呼ばれた暗殺者がいた。そのコードネームは霧雨サニといい、「音速真空斬りの死神」のふたつ名を持つ最強の存在だったという。

 俺が生まれる前の話だが、二十年前、東ヨーロッパのスイリベールという国で王朝の反逆者代表、君主の弟が消された。この反逆者であるベルゼン氏を暗殺したのが、霧雨サニだという。


 そしてその霧雨サニの正体は、俺の亡くなった母親、朝見明子だ。

 その遺伝子を受け継いだ俺には暗殺者としての適性があるらしく、キルの攻撃を避けたり反撃したりが自然にできてしまう。こちらとしては、命あるものを大切に慈しみたいと思っているのにだ。虫も殺せない優しい母親の虚像を信じていた俺としては、母さんが人殺しだったという事実だけで頭が痛くなる。

 なにからなにまで、本当にもう勘弁してほしい。

 俺の血筋に関しては、キルも思うことがあるみたいだ。今も童顔を険しく歪めて、俺を睨んでいる。


「サクに霧雨サニの血が流れてると思うと、腹立たしいやら羨ましいやら妬ましいやらで、頭の中ぐっちゃぐちゃになる」


 フクロウ最強の暗殺者である霧雨サニは、キルにとって嫉妬の対象なのだ。キルは「ふたり目の霧雨サニ」と呼ばれるほどの実績があるらしいのだが、この二番煎じ扱いが気に入らないらしい。キルは霧雨サニ超えを目標としている。

 ばあちゃんが再び、まひるに向き合った。


「この作文、家族をテーマに書くの?」


「えっとね、テーマは自由なの。夏休みの思い出でもいいし、読んだ本の感想でもいいの。でもね、まひるね」


 まひるがぱっと、花笑みを浮かべる。


「まひる、お兄ちゃんもおばあちゃんも、パパもキルちゃんもいーっちばん大好きだから、皆のこと書くの!」


 それを聞いて、ソファに寝そべっていた俺はクッションを抱きしめて震えた。キルも膝から崩れ落ちて、犬耳フードの頭を俺の脇腹にうずめてくる。


「かっわ……」


「これだからまひるは天使なんだ……」


 なんやかんや言って、俺もキルもまひるの純粋無垢な愛嬌に弱い。

 俺にとってまひるは、歳が離れているせいもあって、かなり世話を焼いてきた存在だ。そうでなくても、たったひとりの妹である。

 キルにとっては、飢えていたところを拾ってくれた救世主だ。キルはまひるに恩返しをしたいらしく、暗殺者のくせにまひるには甘い。

 まひるが原稿用紙を手に唸った。


「でもねえ、よく考えたら、パパについてあんまり書くことないかも」


 鉛筆を顎に当てて、首を捻っている。


「パパって、いっつも遠くてお仕事してるでしょ。毎日傍にいるわけじゃないから、お兄ちゃんたちみたいに書けることたくさんないの。まひる、パパといっぱい一緒に過ごしてみたいなあ」


「ああ……親父、海外ばっかだもんなあ」


 正直俺は、自分の父親が苦手だ。だから出張でいなくなってくれるのは俺からすれば都合がいいのだが、人懐っこいまひるは親父が大好きで、いなくなったら寂しがるのだ。


「今どこ行ったんだっけ……フランス? だっけ?」


「フランスはひとつ前! 今はイタリア! もう、お兄ちゃん忘れないでよ」


 まひるが律儀に訂正してくる。俺は親父が苦手なあまり、彼のことをなるべく考えたくなくて、今どこにいるのかさえまともに把握していない。

 まひるは鉛筆を両手で握って、虚空を見上げた。


「パパが過ごしてる街ってどんなところなのかな。まひるもついて行って、一緒に暮らしてみたいなあ」


 おバカなまひるがこんなことを言い出すのは危険だ。放っておくとそのまま火がついて海外旅行に行きたがるかもしれない。俺は早めに芽を摘むべく、現実的に諭した。


「あのなあ、まひる。海外で暮らすことになったら、今の学校から転校しなくちゃならないぞ? 言葉だって、向こうじゃ日本語では通じない」


「分かってるよお……でもちょっとだけ、パパと遠くの国で暮らしてみたい。そしたら作文、いっぱい書けるのに」


 唇を尖らせるまひるに、キルが顔を上げて言った。 


「あの父親と暮らしたいだなんて、まひるは寛大だね。私だったら……長時間はちょっとやだな」


 キルも、俺の親父が少し苦手みたいだ。

 そんなやりとりをしていると、ばあちゃんがぽんと手を叩く。


「まひる、お父さんに会いたいの? ならちょうどよかった! そうだったわ、この話をするためにリビングに来たんだった」


 ばあちゃんはまひると、ソファに崩れる俺とキル、それぞれを見渡した。


「さっきお父さんから電話があったの。これからイタリアを出ることになったって」


「なにっ! ミスター右崎から電話だって!」


 キルが目を剥く。俺は肩を強ばらせた。


「えっ、じゃあまた帰ってくるの?」


 苦手な親父が帰ってくるのは、ちょっと怖い。ばあちゃんは微笑みながら首を横に振った。


「ううん。日本には戻ってこないで、すぐに別の国に移動するのよ。今度の国は、スイリベール」


「ふうん。次はどのくらい滞在すんだろ。できれば戻ってこないでほしい」


「それがね。今回はお父さんだけでなく、私も、咲夜もまひるも一緒に来ないかって! 電話で誘われたの!」


 うふふっと、ばあちゃんはご機嫌に笑った。

 俺は雷が直撃したかのように固まり、まひるはぱあっと目を輝かせ、キルは目を見開いて絶句した。


「はあっ!? なにそれ!?」


 俺はソファから飛び起きた。ばあちゃんがにこにこと続ける。


「期間としては二週間くらいの予定。夏休み中にすっぽり収まるから、転校の心配はないわ」


 即座に、まひるが鉛筆を放り投げて両手を振り上げた。


「行きたーい! 行きたい行きたい、行っきたーい! パパにいーっぱい遊んでもらうの!」


「そうね。咲夜もいいわね? なるべく早めに日本を発ちたいから、早速だけれど準備をしておいてね」


「待って待って、選択権はないの!?」


 あまりにも唐突な話で、俺はまだ頭の中が整理できていなかった。ばあちゃんはきょとんとしている。


「あら? 長い期間じゃないし、お父さんがいれば言語の心配もないわよ」


「そうかもしんないけど……そんないきなり、外国だなんて。パスポートとか、用意しなくちゃならないよな」


 普通なら、海外旅行なんて聞いたら喜ぶところかもしれない。だがあまりにも突然すぎて、たとえ短期間だとしても気持ちが追いつかない。

 それになにより、俺は自分の父親が大嫌いだ。あの人と一緒に慣れない外国の地で暮らすだなんて、想像しただけでも苦痛である。

 するとばあちゃんは、口元は微笑んだまま目元だけ真剣な色になった。


「パスポートなんか必要ないわ。そんな通常の手続きで入国するつもりはないから」


「ん!?」


「というのもね。スイリベールの案件については、総裁である私が訪問した方がいいのよ。だけれど私が日本から出ている間、咲夜にまひるを押し付けちゃうのもいけないと思ってね」


 俺はばあちゃんの口からサラッと出た言葉を、頭の中で噛み砕く。キルも同じように考えたようで、ぽつっと小さく呟いた。


「総裁が直接訪問か……。ミスター右崎、でっかい魚ひっかけたな」


 俺の親父、朝見暁吾は、暗殺者集団フクロウにおいて依頼人と暗殺者を結びつけるエージェントをしている。右崎左門という偽名で活動しており、「ミスター右崎」と呼ばれているらしい。もちろん、まひるには内緒だ。まひるだけは、親父のことを日本料理の料理人だと教えられて信じている。

 キルもミスター右崎から仕事をもらって動いている暗殺者のひとりであり、彼を尊敬している。とはいえ、先程洩らしていたとおり、性格的にはちょっと相容れない部分はあるようだ。

 俺はソファにもたれているキルに目をやった。


「事情は深そうだけど……俺とまひるも行くとして、キルはどうするの? 一緒に来るのか?」


 暗殺者集団の活動については、一般人である俺は深く穿つことはできない。仕事の内容は聞かずに問うと、ばあちゃんは頬に手のひらを添えて小首を傾げた。


「もちろん、キルちゃんは連れていけないわ」


「ええっ!? なんで!?」


 悲鳴をあげたのはまひるである。


「キルちゃんはうちのわんちゃんだよ? どうして置いてけぼりなの!?」


「ごめんね、まひる。わんちゃんはこの旅行には連れていけないの」


 まひるを宥めてから、ばあちゃんはぽんと彼女の肩を叩いた。


「わんちゃんはペットホテルに預けるから大丈夫!」


「分かった! まひる、お出かけの準備する。黄色いリュックサックに、お気に入りのお洋服を詰めてくる!」


 単純なまひるは海外遠征に浮き立ち、原稿用紙と鉛筆を放置して自室へ駆け出していった。まひるがいなくなるや否や、ばあちゃんが俺とキルに向き直る。


「キルちゃんは今、身分証の再発行申請中でしょ。それが戻ってきたら、いつまた暗殺の仕事が再開されるか分からない。だから下手に遠出させるわけにはいかないのよね」


「そっか、前回の案件は『停止』扱いだもんな」


 キルが顎に手を寄せる。

 身分証ホー・カードが割れて仕事を受けられないキルだが、その前に受けていた仕事については、依頼人から停止の指示が出ているのだという。ただそれは完了でもなければ失敗でもない、一時的に止められているだけだ。カードさえ戻ってきていたら、GOサインが出次第すぐに活動を再開するのである。


「えっ、じゃあ俺がスイリベールに行ったら、その間キルは野放しってこと?」


 俺が確認すると、ばあちゃんは静かに頷いた。今度はキルが問う。


「サクがいない間、私はごはんがもらえないのか!?」


 ばあちゃんが頷く。俺はまた、ばあちゃんに聞いた。


「キルを見張る人が誰もいないってこと? 俺がいない間にキルのカードが戻ってきて、暗殺再開の指示が出ちゃったら、キルはまた人殺しを始めるのか!?」


 ばあちゃんは頷いたのち、柔らかな口調で言った。


「キルちゃんはそれがお仕事だもの」


「いやいやいや、待て待て! 殺されるのって日原さんじゃん!」


 現在は停止中だが、キルの暗殺のターゲットは俺のクラスメイト、日原美月である。大病院の院長の娘だからという理由で、キルに命を狙われているのだ。当然ながら、俺はそんなのを許すつもりはない。

 キルの方も、慌てていた。


「困るぞ、私は今財産がからっぽなんだ! ごはんにありつけない!」


「あら。暗殺者仲間にでも甘えたらいいのに」


 ばあちゃんがくすくす笑うも、キルはフードを振り払わん勢いで首を振った。


「総裁だって分かってるだろ、暗殺者仲間に借りを作るわけにはいかない」


 そしてばっと、俺を指さした。


「なにしろ、今はサクが私の主人だろ!? ペットの面倒はちゃんと見てもらわないと困る! サクが作るごはんがいちばんおいしいのに!」


「えっ、そう? ありがとう」


 思わずお礼を言うと、キルはちらっとこちらに目配せしてきた。


「褒めてやったんだから今夜は私の希望を聞け。ハンバーグね」


 夕飯のリクエストをぶっ込んでくる。悪い気はしないので、今夜はハンバーグを作ろうと決めた。

 俺はばあちゃんに、再度尋ねた。


「ばあちゃん、どうしても外国に行くのか? 親父なんか放っといて、日本で過ごせばよくない?」


 そもそも、ばあちゃんはもうあまり体の自由が利かない。


「総裁としての仕事についてだって、無理に遠出する必要ないでしょ。向こうの国の人だって、ばあちゃんがもうお年寄りだから遠くへは行けないって説明すれば分かってくれる」


「まあ……それもそうね。私ももう歳だし。だからこうして、大人しく隠居してるんだし」


 ばあちゃんは難しい顔で考えていた。


「咲夜は行きたくない?」


「行きたくない。日本でキルを見張ってないと、日原さんの身になにが起こるか分からない」


「私のごはんのためにも、サクにはいてもらわないといけない」


 俺とキルが声を揃える。俺はキルにも目をやり、ばあちゃんに訴えかけた。


「そうだろ。だから、今回は見送ろう」


「それもそうね。お父さんには私から断りの連絡を入れておく。まひるには……なんて言おうかしらね」


 ばあちゃんは引き続き悩みながら、リビングを出ていった。俺はクッションを抱え、ため息をつく。


「はあ……なんとか引き止めた」


「危なかったな。私も、サクがいなくなったらどうしようかと思ったぞ」


 キルも安堵している。

 キルを見張れないというのはもちろんのこと、やはりあの父親と見知らぬ場所で二週間は無理だ。耐えられない。回避できて本当によかった。

 俺はクッションをソファの片隅に置いて、のそっと立ち上がった。


「挽肉買ってくる」


「いってらっしゃい」


 キルは今日の夕飯がハンバーグだと察して、ほんのりと口角を吊り上げていた。


 *


 サンダルを足に引っ掛けて、真夏の商店街へと繰り出す。熱されたアスファルトがムシムシと熱気を跳ね返し、上空からは蝉の声が降ってくる。のんびり歩いているだけでも、体が溶けだしそうだ。

 ハンバーグの付け合わせのメニューを考えながらも、頭の片隅からは先程のばあちゃんの話が離れずに残っていた。


 朝見家は、日本でいちばんの名門アサシン一家である。

 俺もつい最近まで、ごく普通の中流一般家庭だと思っていたのだが、いきなりこんな事実を知らされて、強制的に納得させられている。

 戦後間もない激動の時代、水面下では数多くの暗殺計画が図られた。

 その当時ばあちゃんは、日本軍の諜報の名残りで、スキルの高い暗殺者と交流があったという。要人たちはこぞってばあちゃんに情報提供を求めた。ばあちゃんは平等に情報を流すために、恨みっこなしの組織的暗殺部隊を設立した――それが、フクロウの始まりだそうだ。


 総裁の娘、明子は、敏腕暗殺者霧雨サニとして暗躍した。やがてエージェントと結ばれたが、エージェントはまさかサニが総裁の娘だったとは知らなかったのだそうだ。

 そうしてエージェントと暗殺者兼総裁の娘という強烈な夫妻が生まれ、のちに俺とまひるの両親となった。


 ……という、知りたくもない仰天エピソードが、俺の出生には隠されていたのだ。その上、今はペットとして暗殺者であるキルを飼っているのだからもはや救いがない。

 とはいえ、俺自身は普通の高校生である。ちょっと並外れた反射神経と回復体質を持ち合わせているみたいだが、それを除けば、顔も学力も秀でた点がない中庸な学生だ。強いて言うなら、キルが絶賛してくれるくらいには料理が得意なだけ。つまり、家系がどうであろうと俺は暗殺者など継ぐつもりは毛頭ない。


 *


 スーパーで買い物を終えた俺は、買い物袋を下げて家路についた。まひるの宿題の作文を添削したが、考えてみたら俺自身の宿題が手付かずだった。さっさと帰って、ハンバーグを捏ねて宿題を進めようと思う。


 家に向かって歩いていると、ふいに、周囲のざわめきに気づいた。なにかと思って顔を上げると、正面から歩いてくる人物に目が止まった。

 頭にすっぽりと、黒いフード付きのマントを被った人がいる。フードのせいで顔は全く見えないが、足元はひらひらした淡い空色のスカートの裾が見えている。そこだけやけに華やかで、真っ黒なマントには不似合いだった。

 その不思議な姿が通り抜けると、街の人々は一瞬時間が止まったかのようにそちらを注視する。俺も、固まってしまったひとりだった。

 マントとスカートの裾を風にたなびかせ、その人は、少しもたつきながら歩いていた。フードを被った頭で周りをきょろきょろ見渡して、人になにか言おうとして、惑い、諦めている。困っている様子なのは、なんとなく見て取れた。その挙動を心配して、お節介そうなおばさんが声をかける。


「あなた、どうしたの? なにか困ってる?」


 話しかけられたマントの人物は、びくっと跳ね上がった。


「あっ、あー……うう……」


 発されたのは、甘く涼しげな声だった。変声期を迎える前の子供、或いは若い女性らしき声だ。マントの裾からスカートが覗いているから、女性で間違いない。

 おばさんに向かって声を発しているが、言葉になっていない。話しかけたおばさんが、あっと手を口元に置く。


「もしかして、日本語が分からないのかしら」


「あう、え、えと……ゴメンナサイ」


 マントの女性は泣きそうな声で言って、おばさんを振り切って走り出す。そのときピンッと、アスファルトに光るなにかが落ちた。

 困らせちゃったかしら、と、おばさんが申し訳なさそうに呟いて去っていく。ざわざわしていた街の人たちも、各々通常運転に戻った。黒マントの女の姿がなくなった商店街は、いつもどおりの風景へと返る。


 俺は、黒いマントが駆け抜けたときに落ちた、光の粒に歩み寄った。やはり見間違えではなかった。アスファルトの上に、なにか落ちている。

 銀のフープの中に青い石がぶら下がった、ピアスだ。石は傾けるとさざ波のように色が揺れる。なんだかよく分からないが、このピアスは多分、今しがたのマントの女のものだろう。


 今から追いかければ、まだ捕まえられるだろうか。マントの女が走っていったのは俺の進行方向とは逆だったが、俺はピアスを握って、女が去った方へと駆け出した。

 しかし、商店街を抜けて住宅街や川原など捜しても、女の姿は見つけられなかった。目立つ容姿とはいえ、見失ってしまっては見つけようがない。

 商店街まで戻ってきた俺は、手のひらを開いて、ピアスを見つめた。


「これ、どうしよう……」


 落とし物として警察に持っていくべきだろうか。いやしかし、帰り道で持ち主に遭遇するかもしれない。俺はピアスを鞄に入れて、俺はスーパーの買い物袋を握り直した。そして今度こそ、家に向かった。


 *


「おっかえりー」


 家に帰ると、リビングのソファで横になるキルに迎えられた。怠惰な態度は、どうにも暗殺者らしくない。遠目に見ると本当に白い大型犬に見える。


「ハンバーグ、ハンバーグ。ソースはなに? デミグラス? 和風おろし?」


「今なら選べるぞ。どっちがいい?」


 俺の返事を受けて、キルは大真面目に唸った。


「悩ませるじゃねえか。うーん、デミグラスソースにとろけるチーズもいいし、和風おろしにさっぱりした大葉もいいな。あっ、きのこのクリームソースなんてのもありだな」


 とうとう、ピアスの主には会えずじまいだった。結局、ピアスを持って家に帰ってきてしまったのである。夕飯を作ったら、このピアスは街の交番に届けに行こうと思う。


「ソースの希望、まひるとばあちゃんの希望も聞いとくか」


 材料を冷蔵庫にしまいに、キッチンへ向かう。キルがぴょんと跳ね起きて、俺についてきた。


「いや、まひるとおばあちゃんはもういないよ」


「へっ? なんだって?」


 しれっと言われたそれは、あまりにもあっさりしていて聞き間違いかと思った。


「いない?」


「いないよ。ついさっき出ていった」


「どういうこと? なんで!? どこ行ったの!?」


 全く理解が追いつかない。動揺する俺を、キルはきょとんとして見上げている。


「どこって……空港?」


「んんんん!?」


 聞けば聞くほど分からない。キルはあっけらかんとして言った。


「スイリベール。ミスターに呼ばれて、ふたりとももう行っちゃったよ」


 頭の中が、真っ白になった。


「やめたんじゃなかったのか……!?」


「そのつもりだったさ。でもサクが買い物に出てる間に、おばあちゃんがミスターに、断るための電話をしてね。そしたらミスターが、サク置いてまひるとおばあちゃんだけ来ればいいじゃんって」


「それでふたりとも、俺を置いていっちゃったの?」


「うん。なんかスイリベール行きの飛行機が、なんか航空会社の事故だかなんだかの影響で、今後は便が減るらしい。だから急いだ方がいいらしくてな。最小限の荷物だけ抱えて、すぐに出ていったよ」


 キルが説明してくれるが、俺は茫然自失だった。


「なんで……なんでこんなことに……」


「だからあ。ミスターが呼んでるから、まひるもおばあちゃんもサクを置いてったの。そんで飛行機急ぐから、ふたりともすぐ行っちゃったの」


 二回説明されたところで、納得できるものでもない。


「急すぎないか……!?」


「急もなにもあるもんか。暗殺者は素早さが命だ。フットワークの軽さがものを言う」


 一般ピープルの俺には到底追いつかないスピード感だ。

 行きたくないとごねたのは俺だ。行く気だったばあちゃんを説得し、まひるからも楽しみを奪った。はずだった。

 まさか買い物をしているうちに置き去りにされるとは、想像もしていなかった。


 数秒絶句したのち、俺は鞄からスマホを取り出す。まひるもばあちゃんも、携帯を持っていない。となると、連絡がつくのはあの人だけか。なるべく話したくない相手だが、背に腹はかえられない。俺は意を決して、自ら着信拒否していたその番号に電話をかけた。

 ワンコール目が終わるより速く、その男は応答した。


「さーくやー! 咲夜からパパに電話くれるなんて天変地異の前触れかなー? とりあえずパパ、超嬉しー!」


 壮年の男のハイテンションボイスが、俺をどっと疲れさせてくる。


「もしかしてもしかしてもしかすると、まひると夕子さんに置いてかれて、早速寂しくなっちゃったかな? よし、咲夜もパパの胸に飛び込んでおい……」


「少し黙れ」


 親父のテンションが上がれば上がるほど、俺の怒りが累積されていく。

 これだから嫌なのだ。俺のクソ親父は。

 電話口から洩れる声だけで、キルまで顔を顰めている。


「相変わらずテンション高いな、ミスター右崎……」


 エージェントミスター右崎、即ち俺の父親は、恐ろしいほど鬱陶しい。常にこの調子だから、普通に対話をするだけでも必要以上に体力を吸い取られるので、俺はどうしてもこの人を好きになれない。


「まひるとばあちゃんを返せ……」


 諸々省いていきなりそれを言うと、親父は電話の向こうで高笑いした。


「それはだめ。夕子さんにはフクロウの総裁として、来てもらわなくっちゃね!」


「ばあちゃんは体がしんどいんだぞ。無理に外国へ連れ出すなんて、なに考えてんだ」


「咲夜ったら事の重大さが分かってなーい! そんなところもかわいい!」


「でかい案件だかなんだか知らないけど、とにかく無理をさせるな」


 親父のおどけた態度にいちいちいらついていると、話が進まない。ある程度無視してつっけんどんに訴えるしかない。それでも怯まないのが、このわくわくおじさんである。


「まひるもすごく楽しみにしてくれてるよん。折角の夏休みだから、どこか遠くへ連れて行ってあげたいなって思ってたところだったんだ」


「優しさっぽく言ってるけど、暗殺の仕事のついでだよな?」


「なんだっていいじゃん。まひるには真実は分かんないだろ。あの子にとっては、パパと一緒のハッピーハッピー海外旅行なのだー」


 テンションだけは振り切って高いが、言っていることはなかなかえげつない。


「咲夜もまだ未成年だから、咲夜だけ家に残すのは本当はパパ、胸が痛くて堪らないよ。咲夜のこともいっぱいいっぱいナデナデスリスリしたい。でも咲夜はこっちに来たくないっていうから、パパは愛する咲夜の気持ちを尊重したよ」


 こちらが辟易している間に、親父が一方的に喋る。


「咲夜はしっかりしてるから、ひとりにしても大丈夫だ! ……あ、ひとりじゃないか。キルがいるもんね」


 俺はちらっと、横にいるキルを見た。キルは洩れ出している親父の声に耳を傾けている。俺はぞっと、背筋が寒くなった。


「俺、暗殺者とこの家にふたりっきりなの……?」


 親父はむふふとわざとらしく笑った。


「お年頃の息子と妙齢の女の子が、ひとつ屋根の下でふたり暮らしだねえ」


 キルが気まずそうに目を泳がせる。


「んーと……それはちょっと、私も思った」


「は!? キルお前、自分のこと女の子だと思ってんの!?」


 俺は勢い余ってスマホから耳を離した。


「親父も親父だよ、なんの心配してんだよ。女の子じゃねえだろ、メスの暗殺者だよこいつは」


「あん?」


 キルの目つきが鋭くなった。左手にシャキッとナイフの刃が覗く。次の瞬間には俺の視界から消えていて、背後からドスッとこめかみをどつかれた。

 床に降り立ったキルが、ナイフを逆手に持って柄をこちらに向ける。


「もう一度私に礼節を欠くことを言ってみろ……今度は柄で殴る程度じゃ済まさない。その首、縦に掻っ切るぞ」


「ほら、もうこれだ! こんなのとふたりぽっちにされるとか、どんな罰ゲームだよ!」


 耳から離しているスマホから、親父の笑い声が聞こえてくる。俺は再び耳をつけた。


「よく考えて。自分の息子を人殺しとふたりきりにしていいと思う?」


「咲夜もよく考えて。お前は最強の暗殺者霧雨サニの息子で、エージェント右崎の息子で、フクロウの総裁の孫だよ。殺し屋やその関係者に囲まれて育ってきてるんだよ。人を殺した報酬が朝見家の家計だよ。今更なにを言ってるんだ?」


「やめろおおお」


 俺が目を背けていた事実を、ここぞとばかりに突きつけてくる。親父はあはははと軽快に笑った。


「不安か、咲夜」


「当たり前だろ」


「誰かもうひとり、家にいてほしい?」


「まひるかばあちゃん、返してくれるの?」


 交渉が利くのかと、希望が見えた気がした。しかし親父な呆気なくその光を消す。


「いや? まひると夕子さんはもうパパのもの。咲夜に贈るのは、新しいペットだよ」


「ペット……?」


 どういうつもりだろうか。まさかこれ以上、俺になにか負担をかける気か。


「そろそろ着くんじゃないかな?」


 親父がそう言った、瞬間だった。

 キルがなにかを察して叫ぶ。


「サク、下がれ!」


 突然、バリーンッとガラスの破壊音が耳を劈いた。粉々に割れたガラスが、こちらに吹き飛んでくる。キルが素早く身構えて、ナイフを持って飛び跳ねた。

 俺はというと、スマホを耳に押し付けて固まっていた。唐突な出来事に、咄嗟にフリーズしてしまったのである。

 ただ、リビングのガラス窓が粉砕されてカーペットに、ガラスの破片が飛び散っているのだけは分かった。

 電話の向こうで、親父が機嫌よく喋っている。


「日本に派遣したい暗殺者がいてさ。フクロウ所属じゃないんだけど、ちょっとこっちでも手塩にかけてる子でね。そっちで路頭を迷わないように、朝見家を訪ねるように伝えちゃったんだなー」


「おい。誰だ貴様」


 ソファの背もたれの上で、キルがナイフを構えて姿勢を低くして威嚇している。


「窓からお出ましとは、随分といい躾を受けてるじゃねえか」


 キルの声を聞き、俺はそっと、キルの目線の先を追った。飛び散ったガラス屑の中に、モスグリーンの外套を羽織ったなにかがいる。フードを目深に被っているせいで、緑色の塊にしか見えない。そいつが立ち上がると、手に持ったアイスピックがきらっと光った。


「どうも初めまして」


 男とも女ともつかない、中性的な甘い声だ。


「入口が分からなかったから、入れそうなところから入らせてもらったよ」


「どう考えてもそこじゃねえだろ」


 キルが威嚇するその相手が、ぱさっとフードを脱ぐ。中から露になったその顔に、俺とキルは呼吸を止めた。

 銀色の長い前髪が、日焼けした顔の半分を覆っている。右だけ露になっている瞳は、ルビーを嵌め込んだような赤。頬に切り傷を作って細く血を流し、余裕げに微笑むのは、俺より少し幼いくらいの、かわいらしい顔だった。

 キルが腰を低くした姿勢で、ふっと笑う。


「おっ……かわいいお嬢さんだな」


 呆然とする俺の耳には、親父の楽しげな声が流れ込んでくる。


「シエルくんっていう、スイリベールの暗殺者。そっちに送ったからね! 悪いんだけど咲夜、面倒見てやってくれ!」


 目の前の銀髪が、腕で頬の血を拭う。


「初めまして。僕はミスター右崎から派遣された暗殺者、シエルだよ。しばらくの間よろしくね」


 銀色の髪から、ぱらぱらとガラスの粉が落ちる。外套の中は、シンプルな白いシャツに黒いハーフパンツ、足元は裸足といった、驚くほどの軽装だ。細身な左腕には包帯が巻かれ、その端がひらひらと揺れている。羽織った外套には、くっきりと血飛沫の跡があった。右手には、鋭く光るアイスピック。

 キルがえっと呟いた。


「男だったか」


 微笑む少年の端正な顔立ちを前に、俺はしばらく、声が出なかった。


「あっ……えっと……」


 俺は、整理がつかない頭で言葉を捻り出した。


「ハンバーグのソース、なにがいいですか……?」


 絶対他に聞くべきことはあったはずだけれど、なぜか俺は、真っ先にそんな質問を投げかけていた。

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