螺旋

 あれほどまで記憶の奥底に焼き付いていた憧れの縁側は、実際には呪われた地であったのでした。もしあそこまで縁側に惹かれていなければ、好奇心に突き動かされなければ、私が薬袋家へ向かうことにはならなかったでしょう。

 更に薬袋家に縁側が無ければ、私が呪うことも、呪われることもなかったのです。

 あの時、釦を拾わなければ。

 あの時、怪我をしなければ。

 あの時、釦を投げ捨てなければ。

 あの時、恨まなければ。

 呪いとは無縁の生活を送れていたのでしょう。

 しかし、当麻さんの姉を縁側から突き落とした瞬間から全てが始まっているのです。結局のところ自業自得なのです。あの日突き落とした小さな背中は、私自身の背中でもあったのです。

 私の人生は縁側という境界線の上で踊らされていた。長いこと抱き続けていた憧憬は、蜃気楼のように空の青に溶けて消えてしまうほどの儚い幻だったのです。


 風で揺れる木々の音へと目を向けながら、私は当麻さんのノートを鞄に仕舞ってゆっくりと立ち上がりました。ぐらりと揺れた視界が、彼岸と此岸の境界を捉えるのでした。鼻の奥がツンと痛くなるような臭いが消え去るまで、壁にもたれかかって時間が過ぎるのを待ちながら、もう一度、あの軟禁部屋に向かおう決意を固めました。

 中庭に倒れる当麻さんに別れを告げて歩き出すと、私は軟禁部屋へと入ったのです。やはり何度入っても空気の悪さと、徹底的に光を遮断した視界の悪さで気が滅入ります。

 私が薬袋家を離れる前にこの部屋へと足を踏み入れた理由は、当麻さんのノートに書かれた最後の一行に在りました。

『願わくば、姉たちが眠るあの部屋の下でみんなと再会できることを。』

 この場所こそが、『姉たちが眠る部屋』だと感じたからです。

 明らかな死の香りが漂うこの部屋の下に、薬袋家の人間が眠っているのでしょうか。私には直感以外の手掛かりが全くなく、ただ部屋を端から歩き回り探すしかありませんでした。

 ガタッ。

 どこか部屋の中央から音が聞こえるのです。

 貴方は私が少女の遺した紙片を見つけたときにも、同じ音が響いていたことを憶えているでしょうか。あの時の音と全く同じだったのです。足元から聞こえてくるその音の元へ、私はゆっくりと見えない糸で引き寄せられるのでした。もしこの糸が蜘蛛の糸ならば、私はカンダタではなく蜘蛛の巣に飛び込んだ間抜けな獲物でしょう。

 部屋の中央まで足を進めると、異様に柔らかい畳を踏んだのです。その不快な感触が、当麻さんと一緒に初めてこの部屋へと足を踏み入れた時の記憶を呼び起こすのでした。あのとき初めて足を踏み入れた際にも、この不快な感触を感じ取っていたのですが、当麻さんの言葉もあり、せいぜい畳が傷んでいるくらいにしか思わなかったのです。この異様な空気感に意識を囚われ、ただ不快であると思考を放棄していたのです。

 しかし、部屋の下に何かがあると知った今、この異常性は不快とは別の意味を持ち始めるのでした。そこからは身体が勝手に動いていたのです。震える指を擦り切れた畳の縁にかけ、力を籠めて引きはがしました。

 バサン、と想像よりも軽い音を立てて持ち上がった畳の下には、すべてを飲み込むような闇が広がっていたのです。夜よりも暗く、光すらも閉じ込める空間。鞄から取り出したライトで中を照らして覗いてみましたが、高さとしては高学年の小学生がぎりぎり立ち上がれるほどの低い部屋でした。部屋というよりは床下でしょうか。

 床は土で埋められ、柱や枠組みが目に見えるのです。

 じめっとした黴臭さと共に、ほんのりと汗と皮膚が放置された饐えた臭いが漏れ出てきました。この臭いなのです。あの薄汚れた白い襖を開けた瞬間から感じていた人の香りの正体は。

 そして、その臭いによって当麻さんの姉たちが眠っていると直感してしまったのです。


 胃の奥で何かが暴れるような感覚に涙がでそうになるのです。しかし、ここで引き返すという選択肢を何故か用意せず、背後から迫る何かから逃げるように、私はその床下へと下りてしまったのでした。

 天井までの高さは低いものの、見渡すと軟禁部屋よりも広い空間でした。ひんやりとした空気と足元の硬い土が、ここが家であるという認識を薄めつつあるのです。ハンカチで口元を抑えると浅く呼吸を繰り返しつつ、ゆっくりとライトを視線の先へ向けました。

 黝ずんだ壁に、斑に汚れた天井。

 天井の汚れに違和感を覚え、恐る恐る顔を近づけて凝視すると、ただの汚れに見えていた染みが意味を持ち始めるのです。明らかに人の手の跡。子供から大人までと大きさは様々で、古い消えかかったものも含めると、幾重にも重なり所狭しと手形で埋め尽くされていました。それが血なのか、汗なのか、私にはわかりませんでしたが。

 天井にも、壁にも、すべて。……すべて。

 私は呼吸をすることすら忘れて、一歩ずつ部屋の奥へと歩いていったのです。手形に埋め尽くされたこの狂った空間から逃げるという選択肢がまたしても私から抜け落ち、進むことを当たり前の事のように受け入れてしまっていました。防衛本能と言えば良いのでしょうか。明らかに狂っている世界に放り込まれた場合、正常なはずの自分が間違っていると考え、無意識に世界に順応しようとするのです。

 屈みながら歩みを進めるほどに、ライトが照らす先に箱の様な影が浮かび上がってくるのでした。徐々に近づくにつれ、その影は明確な輪郭を持って実体化し始めました。それは大人一人が横になれるほどの石製の祭壇であり、遠目からでも分かる不可解な染みに塗れた祭壇の上で僅かに光が反射したのでした。私は宵闇に彷徨う羽虫の如く、その光に導かれてしまったのです。

 カロン。

 軽い音が私の意識を現実に戻しました。

 足元から響いた音。

 ゆっくりと視線を下げると、そこには白く小さい棒が土の中から顔を覗かせていたのです。生きている内に様々な直感に似た何かを感じることはありますが、嫌な予感というものだけは嫌になるほど当たるもので、今回もまた心臓の奥が熱くなるような気持ち悪さに襲われたのでした。

 本物を見る機会が無かったにもかかわらず、その白い棒の正体が人骨だと理解してしまったのです。静かにその小さな骨の周囲にある土をかき分けると、今度は小さな目と視線が合いました。

「ひぃっ」

 小さな悲鳴が口から漏れたのだけは憶えています。私にもまだ悲鳴を上げるだけの人間性が残っていたことが、どうしても笑えてきますね。

 出てきたのは小さな髑髏です。

 悲鳴を漏らしつつも、ゆっくりと足元の髑髏を両の手で抱えてみると、不思議とこの子が8mmビデオに映っていた少女の様な気がするのです。つまり当麻さんの姉であり、生贄の犠牲になった人物です。あの日、笑っていた少女はこの場所で何を想い、何を恨んで死んだのでしょうか。私にはただ気持ちを想像するしかできませんが、少しでもあの8mmビデオの思い出は良いものであって欲しいと願っています。

 私には彼女の骨にそっと土を被せてあげることしか出来ませんでしたが、弔いになればと思ったのです。そして私は再び、祭壇の方へと引き寄せられるのでした。


 やっとの思いで辿り着いた祭壇。その祭壇の上で光を反射していた正体に、私は思わず目を背けたのでした。それは少女のものとは比べ物にならないほど小さい骸骨だったのです。

 どう見ても乳児の白骨死体。

 多分、この子が最後の生贄だったのでしょう。

 思い出してください、当麻さんの遺したノートを。

 思い出してください、儀式の失敗による呪いは止まっているはずという文言を。

 これがその証拠です。

 私たち薬袋家の連中は、生まれた乳児を生贄として捧げていたのでした。

 自分の命を守るために、他人の命を容易く犠牲にしてしまう。そんな狂った一族の呪いの螺旋に、私たちは巻き込まれてしまったのです。

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