遺書

 音が聞こえるのです。

 ヒタ、ヒタという足音が徐々に近づいてくるのです。

 私が例の8mmビデオを観たあたりから聞こえるようになり、最初は気のせいかと思うほど小さく、遥か遠くに聞こえていました。しかし徐々に音は大きくなり、薬袋家を訪れてからは幻聴とは思えないほど、鮮明に聞こえるようになったのです。耳の奥にこびりつくほど明瞭に、それでいて背後から一定の距離を置いて私を追ってくるのです。

 正体不明の足音。この足音が8mmビデオの呪いを強く印象付ける要因の一つとなり、私自身が呪われていると自覚する切っ掛けとなりました。

 貴方には聞こえませんか?

 部屋に一人でいるとき。

 シャワーを浴びているとき。

 好きな音楽をイヤホンで聴いているとき。

 ヒタ、ヒタという湿った足音が。

 いえ、聞こえないのであれば良いのです。この音は聞こえるべきものではないのですから。もし、ヒタ、ヒタという足音が聞こえたところで、恐る恐る振り返っても、そこにはただの虚無が広がっているだけなので、何も恐れる必要は無いのです。目に見えないものは恐れる必要は無いのです。

 しかし、8mmビデオの呪いが気のせいだと判明してからというもの、この足音の正体について皆目見当がつかなくなったのです。彼女によって呪詛返しが行われたにしては時期が早すぎるし、その他の呪いについても心当たりがありません。

 呪いなのか、そうではないのか。この幻聴に似た足音について、最後の手掛かりであった当麻さんの死体を眺めながら、私は悩んでいたのでした。


 地面の上を無秩序に這いながら私の靴にまで掛かった当麻さんの髪が、あの日から見え続けていた呪いの黑い黴に見え、足を振り上げて払ったのです。あれほどまでに黒く綺麗だった当麻さんの髪も、死んでしまえばただの穢れにしか見えず、嫌悪の対象となってしまいました。

 どうするべきか。

 警察に連絡するべきか、この場から直ぐに去るべきか、当麻さんの死体を隠すべきか。

 もし貴方ならどうしますか。

 たぶん同じ立場になったら分かると思います。自分でも考えつかない行動をとってしまうということに。

 私は縁側に座って当麻さんの遺したノートを開いていたのです。しかも、当麻さんの死体を眺めながら。ざらついた太陽の熱は、ねっとりと当麻さんの肉体を溶かし、人としての尊厳を奪い去っていくのです。

 日光を反射する真っ白な最初の数ページに目を細めつつ、ページを一枚一枚ゆっくりと捲っていくと、小さく整った字で書かれた一文が現れたのでした。

 『真実を誰かに伝えたいのでここに残します 薬袋当麻』

 当麻さんの最期の望みですので、私は彼女の遺した記述をここに記すことにします。これは私にとってのせめてもの罪滅ぼしであり、これを読んでくださっている貴方への懺悔でもあるのですから。


『このノートが誰かに読まれているということは、私はもう死んでいるのでしょう。願わくばこれを最初に読んでいるのは、渡邊楓という人物であって欲しいものです。しかし、彼女が読むことなく、全くの第三者の方が手に取っているということも考えられますので、私、薬袋当麻という人間が、どのように死に至ったかを少し細かく書いてみようと思います。そして、どのように足掻いたのかも。

 私にはもう時間がないので、どれほど書き残せるか分かりませんが。


 それでは改めて、なぜ私がこのノートを残したかについて記していきますが、もし良ければ最後まで目を通してもらえると嬉しいです。私の犯した罪と、私たち薬袋家が背負う咎と、すべての顛末について、どうか知ってください。どうか。

 まず初めに、たぶんこのノートが置かれていた薬袋家の庭で、私は松の木に吊るされているはずです。それも、両目を五寸釘で刺され、首には注連縄が巻かれた状態で。どうして、そんなことが言えるのかと思うでしょう。勿論、自殺でも誰かに脅されながらこれを記載しているわけでもありません。それでは、なぜ分かるのかというと、私が散々見てきたからです。同じように死んでいった薬袋家の人々を見てきたからです。

 半年程前に、私の父も同じように死にました。

 私の家族も、親戚もみんな、みんな死にました。

 では、どうして薬袋家の人々が死ぬことになったのか。

 その原因は、呪いであり、生贄の儀式の失敗です。

 呪いも生贄も、突拍子もない単語でふざけているのかと思うかもしれませんが、紛れもない事実なのです。

 薬袋家はその昔、何をしても失敗続きで、畑の作物は収穫する直前になると不自然に腐り始め、商いをしようとしても商品は傷むし、いくら警戒しても盗難にあう、どんな努力をしてもぎりぎり生活出来るほどの日銭を稼ぐだけで精一杯だったらしく、それを祟り神に憑かれていると考えたようです。これは呪いだと。その祟り神に対抗するために、何代も前の薬袋家当主は祟り神に対抗する神を降ろしました。そこで必要になったのが人身御供、つまり生贄だったのです。

 祟り神の呪いの影響が現れる度に、数十年おきに生贄の儀式を行っていたようです。

 儀式については、薬袋家の中から生きた人間を一人選び、目隠しをしたまま眠らせて屋敷の地下に閉じ込めるという簡単なものでした。私自身も聞かされた話ですので、地下で何が行われていたのか詳しくは知りませんが。

 最後に儀式が行われたのは、私が幼稚園に通っていたころなので、十数年前です。そして、その時に生贄として選ばれたのが私の姉でした。姉は生まれた直後から生贄として育てられており、屋敷のとある部屋に軟禁され、人間としての自由はほとんど奪われ、姉にとってその何もない小さな部屋が世界の全てである、そんな生活を送っていました。まるでそこにいないかのような扱いをされていた姉でしたが、僅かに開いた襖の隙間から目が合うたびに、幼かった私に対し優しく笑って手を振ってくれるのです。僅か数歳の違いしかないのに、凄く大人びて見え、私の憧れでもあり自慢の姉でもありました。直接会話する機会など殆ど無いにも関わらず、家族の縁というものは不思議なものです。

 そしてある夏の日、姉は生贄に捧げられました。私の知らない内に、姉はこの世から消えてしまったのです。正常とは言えない狂った人生の幕を、強制的に閉じさせられたのです。

 姉がいなくなってから数か月後、すべてが始まりました。最初の犠牲者として叔父が死にました。両目を釘で刺され、庭の松に吊るされていたのです。秩序を保って死体の周囲を飛び回る蠅の羽音が未だに耳から離れず、死が近づくにつれ叔父に自分の姿が重なって思い起こされるのです。

 死の連鎖の始まり。つまり、生贄の儀式が失敗していたのでした。

 ではなぜ儀式が失敗したのか。

 その答えは簡単で、生きた人間が必要な儀式において、生贄として捧げられた姉が既に死んでいたからだったのです。正確に記すと、既に死んだと思われてしまっていたのです。

 どういうことか、その理由を説明するにはある人物が関わっています。

 その人物とは、冒頭に記した渡邊楓なのです。彼女は私の遠い親戚筋の生まれで、年齢は姉の一つ下でしょうか。

 あの儀式が行われる数年前です。渡邊楓が初めて薬袋家を訪れた日、私は見てしまったのです。薬袋家の屋敷にある縁側から、彼女が私の姉を突き落とす小さな後ろ姿を。

 空いた襖の間からはっきりと見てしまったのです。

 その光景を見た後、私は呆然としたまま立ち尽くし、そこからの記憶は殆どありません。ただ気付けば祖母の膝に泣きつきながら話していたのでした。姉が死んだと。縁側から落とされ死んでしまったと。

 勿論、実際には死んでおらず生贄として捧げられるまで生きていたのですが、私がその現場を目撃して以来、姉からは更に自由が奪われるとともに彼女を見かける機会が大幅に減ったのでした。そのため、姉は死んでしまったという感情に縛られて生きていたのです。たぶん私の祖母をはじめとした、他の薬袋家の人間も少なからず、姉の死を頭から切り離せなくなっていたのだと思います。

 その結果が儀式の失敗へと繋がった。死んだと思われた人間を生贄として捧げることの意味は、神に対する一種の冒涜であり、もはや生贄とは呼べるものでは無かったのです。


 このように、渡邊楓が姉を殺したと思い込んだ私が、姉の死という認知を薬袋家に広めたことで死の連鎖が始まったのでした。

 もうすぐ私は皆と同じように死ぬのでしょう。呪いの足音が背後まで迫っているのですから、逃げられないことは私が一番よく分かっています。怖くないと言えば嘘にはなりますが、これは私が背負った罪なのです。

 ただ一点だけ気になっていることがありました。

 父は死の直前に、儀式の失敗による呪いは止まっているはずだと私に伝えていたのです。それでも呪いは明らかに続いているのです。確かに儀式の失敗後に続いた死の連鎖は、数年の間だけ収まっていた時期はありました。しかしそれも十年以上前の事で、今現在もこのように呪いによる死は逃れられません。

 それでも父は、儀式の失敗による呪いは止まっていると言ったのです。

 そして最期に、渡邊楓という名前と私の母が遺した日記を貰いました。


 以上が姉の死を無駄にした私の罪であり、誰かを犠牲に生きてきた薬袋家の背負う咎です。


 残すのは、顛末のみです。この呪いの行く先と私がどのように足掻いたのか。もう少しだけお付き合いください。』


 当麻さんの遺したノートの中に自分の名前が出てきてからというもの、背中を撫でる冷たい汗が張り付いたまま一向に消えて無くならいのです。自分の身体が水中に押し込められ、遠くの虫の声や風の音、自分の息遣いまでもがくぐもって聞こえ始めるのでした。

 自分の居場所が分からなくなる、そんな感覚。

 それでも私が縛られている呪いの正体を知りたくて、ゆっくりとページを捲るのでした。

 私たちはもう逃れられないところまで来ているのです。

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