雪折
溜息が反響するほど人影がない薬袋家を、どれほど歩いたのでしょう。身体の奥底から響くような足音と歪な息遣いの中、開き続けたすべての扉の先に当麻さんはいませんでした。どこか予感だけはしていたのです。彼女がいるとすればあの場所しかないと。足元の木目が真っ直ぐに伸びる先、その先はあの縁側だけなのです。
仏間から外へ出て、縁側へと伸びる細長い廊下を進むと、徐々に外の空気の流れを感じられるようになりました。朝日を含んだ青白い空気。
私の目的は、薬袋家に掛けられた呪いを解くことではなく、当麻さんを止めることなのです。彼女がこの場にいないのであれば問題ありませんが、もし呪詛返しを行おうとしているのであれば、今すぐにでも止めなくてはなりません。そんな危険なことをさせるわけにはいかないのです。
私の憧れであった縁側。
8mmビデオの中で、少女を突き落とした縁側。
薬袋家の家紋が彫られた釦を投げ捨てた縁側。
つまり私が、薬袋家を呪った場所なのです。
しかも二度も。
一度目は少女の意思に従って、そして二度目は私の意思で。
開け放った窓から流れ込む風のように勢いよく蘇った記憶が、あの8mmビデオの正体についてそっと囁いてくれたのでした。あれは私に対する呪いではないと。私の日常を黑く侵食し続けている黴の正体は、別の呪いであると。それでは一体、その呪いとは何なのか。
ただ呪われているという感覚。胃の中から湧き上がってくる不快感。
静謐に包まれた廊下の中で、ヒタ、ヒタと足音が響いているのです。
だからこれ以上呪いを受けるわけにはいかないのです。
どうしても当麻さんの呪詛返しは止めなくてはならないのです。
呪詛返しをするつもりなら、当麻さんを殺す必要があるのです。
私の記憶が鮮明になるにつれ、どれほど早く死んでくれと願った事か。
当麻さんが行おうとしている呪詛返しの対象となった呪いの正体、それはきっと、以前私があの縁側から薬袋家を呪って投げた釦に起因しているのでしょう。薬袋家を象徴する逆さ榊の家紋が彫られた釦と、頬から流れた私の血液、そして母を理不尽に傷つけた薬袋家への恨み。私はその全てを縁側から投げ捨てたのです。みんないなくなれと。この家にいる人、みんな死んでしまえと。
えぇ、あれが一種の藁人形の役目を負っていたのでしょう。たったあれだけのことで、呪いというのは成立してしまうのです。例えるなら、小学生の頃に流行った、消しゴムに好きな人の名前を書き、誰にも見られずに使い切れば想いが成就する、というようなオマジナイに似た手軽さでしょうか。
誰でも簡単に試せて、必須条件さえ揃えば効力を発する。私自身は消しゴムのオマジナイを試したことがないので、本当に効果があるかは知りませんがね。
このように幼かったあの日の私にとって、幸か不幸か偶然にも呪いの条件が揃い、無意識下で呪っていたのです。偶然だったからと言い訳をするつもりも、後悔をするつもりもありません。どうしても私は、母に罵声を浴びさせ、虐めたあの女性を赦せなかったのですから。
いまでも心の奥底で、真っ黑いネバネバとした粘着性のある何かがこびり付いて剥がれないのです。
カリンッと、砕けた硝子を踏む音で我に返りました。乱反射する日差しに導かれて視線を上げると、割れた硝子の破片が散らばる縁側まで辿り着いていたのです。右手側には少女を軟禁していた部屋の壁が、そして左手側には開け放たれた庭が見えるのでした。
庭の様子を眺めるために肺に溜まった陰鬱な空気を吐き出し、一歩を踏み出そうとして足が止まるのでした。廊下の中央に置かれた小さなノートが目に入ったのです。それは薬袋家には似つかわしくない程の新しさと清潔さを兼ねた一冊で、このノートの置かれた一部分だけ時間が止まっているのかと錯覚するほどに……。
気味の悪さと嫌悪感が身体を支配し、金縛りのように私の足を縛り付けていると、そのノートからじんわりと黑い黴が触手を広げて私に向かって伸びてくるのです。残念なことに、それはもう見慣れた光景となっていました。なにせ私が8mmビデオから感じ取っていたあの黑い黴なのですから。
しかし見慣れたと言っても、得体のしれない事象への嫌悪感は決して消えることはありません。
明らかな呪いの浸食。
明白な現実への蝕み。
一歩踏み出すたびに足元から聞こえる耳障りな硝子の悲鳴が、なんとか私を現実に留めてくれている中、ゆっくりと伸ばした手がノートに触れると、先程までの黑い黴は綺麗に消えてしまったのです。
手に取ったノートも色褪せは無く、若干の砂埃が付着しているだけで新品同様でした。それは当麻さんがここにいた証であり、彼女の存在確認が私の目的でもあるのです。誰かに背中を押されるような感覚に、眼前の物体に囚われ混濁した意識が一瞬にして澄み渡り、ノートの中身を覗く前に肝心の当麻さんの姿を探そうとしたのです。そう探そうとしたのでした。
ギ、ギィ……。
意識を遮るように、微風と共に庭から異音がしたのです。
遠く木々の香りに混ざった違和感。
砂埃に混じった邪気。
ゆっくりと庭へ視線を向けました。
異音は変わらず響くのです。
ギ、ギィ……。
日差しの眩しさに白飛びした視界が徐々に回復し、青や緑といった色彩が現実に戻ってくる中で、庭に唯一残った松の木が異様な存在感を放っていたのです。
いえ、異様な存在感という生易しいものではありませんでした。ただの異物であり、この世との明白な境界だったのです。
それは呪われたモノの生々しい成れの果てでした。私はそれをただただ眺めることしかできず、空を見上げては通りで頭上に広がる天候は、透き通るほど晴れ渡っているわけだと的外れなことを考えていましたt。
松の木に吊られた影が微風とは無関係に揺れ動くのです。
縄の擦れる音。
枝の軋む音。
いま、私が立っているこの縁側から一歩でも外へ出てしまうと、私自身も目の前に広がる彼岸へと足を踏み入れてしまう気がするのです。庭で揺れるそれに一歩でも近づけば、少しでも手を伸ばせばどうなってしまうのか。ヒタ、ヒタと足音が大きく響いています。
それでも私は縁側から庭へと下りて、その生々しい影に手を伸ばしたのです。
首を吊った当麻さんの後姿へ。
わたしの手が肩に触れた瞬間、ゆっくりと身体が回転し、当麻さんの顔がこちらへと向くのです。じっとりとした粘ついた時間が流れ、当麻さんと目が合いましたt。
いえ、正確には目は合いませんでした。
合わせられなかったのです。
えぇ、彼女には目がありませんでしたので。
当麻さんの両目には錆びた五寸釘が突き刺されており、赤黒く変色した涙が頬を伝った痕を残していたのでした。
貴方は当麻さんが私の部屋を訪ねて来たときに話していた、薬袋家が今も尚行っている生贄の儀式を憶えているでしょうか。藁人形の目に当たる部分へ釘を刺し、周囲を見張って貰うために生贄の『目』を捧げるという話です。目の前に広がっている光景が、まさにその贄と同じ姿だったのでした。
目には釘が刺され、首は注連縄で吊られていました。
誰が彼女の目に釘を刺したのでしょうか。
何が彼女の首を注連縄で締め上げたのでしょうか。
普通ならその犯人、つまり実行した人間がいると考えるのでしょうが、私は一切そうとは思わないのです。呪いのせいなのです。薬袋家を苦しめ続けている呪いの元凶である、この屋敷に棲みついた件の祟り神によるものです。
私は彼女の首元に手を伸ばし、改めて当麻さんの死を確認しました。呪詛返しを行う前に死を迎えたのでしょうか、悲しさや恐怖よりもまず先に、不安混じりな安堵の感情が湧き出ている自分自身の心に嫌気が差してくるものです。
当麻さんの整った綺麗な顔に手を伸ばし、頬を伝った一筋の汚れを拭こうとしたその瞬間、乾いた軽い音が響きました。
当麻さんを支えていた木の枝が折れたのです。足元に崩れ落ちた彼女の身体に、私はあの日の少女の姿を重ねてしまうのでした。あれは私の罪なのですから。決して消えることの無い傷なのですから。
それから私は少しの間、折れて柔らかな繊維がむき出しになった枝の断片を眺めていたのです。この不自然に折れた刺々しい枝の断片が、この木には幾つもあるのです。それはきっと同じことの繰り返しがあった痕跡であり、目の前に広がる光景は、この松の木の下では珍しくないのでしょう。
静かに積もった黑い雪は音もたてずに命を蝕み、最期には残滓となった僅かな温もりを摘み取るのでしょう。
折れた枝先が風で揺れるのです。
これは呪いが雪のように降り注いだ末路。
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