マレビト

 当麻さんから連絡を受けた翌朝、頭痛が酷かったのだけは記憶に残っています。誰かが頭の中を掴み、力いっぱい握り締めているかのような圧迫感を抱えた状態で、私は再び薬袋家へと続く畦道を歩いていたのです。

 徐々に近づく薬袋家の玄関が、早鐘を打つ私の心臓をきつく締め付けるのでした。足元に転がる小石が爪先に当たり、ころころと転がった先で半分に割れるのです。割れた石を踏んだところで、足の裏からは何も伝わらずに、小さな石ころは人知れずに砕け散って土に還るのでしょう。そして私はちっぽけな石ころなど気にもとめず、薬袋家の表札の前へ到着すると足を止めました。足音もずれて止まります。

 当麻さんを止めなければ。

 ただその一言だけを呟き続け、私は再びあの寂れた玄関を開いたのでした。私は帰ってきたのです。もう二度と足を踏み入れたくなかったこの薬袋家の屋敷へ帰ってきてしまったのです。

 鼻を刺すような黴臭さと砂埃の臭い、そして玄関に置かれた萎びたトリカブト。

 トリカブト?

 この花は以前には無かったはずです。私も当麻さんも花を供えるなんてことはしなかったので、この花を置いたのは再びこの場所を訪れた当麻さんかそれとも――。私の心の中で渦巻く薄暗い靄が、行き場を失くして口から吐き出るのでした。

 上り框に供えられたトリカブトを跨ぐのも、放置するのも、ましてや踏むことも憚られ、私は静かに指先だけでその茎を摘まみ上げたのです。ねっとりと張り付いた花弁が、床から離れることを惜しみ微かな音を立てたのでした。

 その姿が必死に生へと縋りつく私のように見えて、言葉にはできない嫌悪感だけがその場に残りました。

 摘まみ上げたトリカブトを投げ捨て土足のまま廊下へと進むと、またも私は砂埃に塗れた床板を踏みしめることになったのです。床に残った僅かな足跡は誰の物でしょうか。私の物でしょうか。当麻さんの物でしょうか。それとも更に古い名前も知らない誰かの物でしょうか。

 一歩踏み出すごとに黴臭さと砂埃の臭いの隙間から、腐臭に似た何かの臭いが混ざり始めるのです。その臭いが私の手を引き、あの仏間の奥の部屋へと急かすのでした。

 冷たい廊下を進むごとに、私の周りの壁が黝く穢れていくような感覚。

 歓迎されていない。

 そう、私は歓迎されていなかった。


 仏間へと繋がる襖が近づくにつれ、心臓を締め付けられる感覚が強くなり、襖へ手を掛ける頃には激しい動機に襲われていたのです。やっとの思いで触れた薄汚れた襖に、指先から黑い黴が伝って徐々に侵食を始めていきました。いえ、私を蝕む呪いがこの薬袋家へと混ざり溶け合い始めたと言えるのでしょうか。

 ぎぃ……と音を立てながら開いた襖。

 私は仏間を通り抜け、あの8mmビデオで撮影された光の無い部屋へと足を踏み入れたのでした。

 立ち込める腐臭とこびり付いた血の臭い。

 想像してみてください、あの腐敗した独特の酸っぱさと血腥さの混ざった臭いが、湿度の高い空気の中に充満し、一気に自分の肺の中へ流れ込む感覚を。私はむせ返るような臭気に気を失いそうになりながらも、胃の中から込み上げる厭忌の塊を飲み込むことで精一杯だったのです。

 脳裏で繰り返される8mmビデオの映像。何度も何度も、あの少女の顔が浮かんでは消え、投げ棄てられた紙屑や千切れた紙片の虚像が、そのまま手を伸ばせば触れられそうなほど鮮明に見えていました。

 ゴトッ。

 足元から何かが倒れたような音が聞こえ、視線をゆっくりと音の方へ滑らします。ゆっくりと。でも錆びたブリキ人形のようにぎこち無く。

 音の方向には、小さな襖の付いた戸棚があるのみでした。地袋というらしいのですが、この際名称などはどうでも良いのです。ただそこにある小さな襖を開けろと、何かに囁かれ背中を押されるように、私は地袋の襖を開き、ざらざらとした畳の上へ膝をつきながら中を覗きました。

 黑。

 ただの闇でした。

 それはそう、この部屋自体に光がないのだから。

 ゴトッ。

 何もない空間がそこにあるという事実に安心したのも束の間、今度は近くで何かが倒れるような音が聞こえたのです。恐るおそる地袋の中へ手を伸ばしましたが、やはり指先に広がるのは虚無でした。

 不思議なもので、明らかに何も無いと判断した瞬間、人間というのは恐怖心を忘れるらしく、闇雲にその戸棚の中を地面に這いつくばりながら弄り始めたのです。

 えぇ、無暗に闇雲に暗闇の中で。

 カサッ。

 背筋に悪寒が走りました。突然、首の付け根を優しく撫でられるような不快感。

 戸棚の天井部分に触れた瞬間、指先に乾燥した薄い何かの感触が伝わってきたのです。連想するのは、家の隅で放置され乾いた羽虫の死骸。玄関先で転がっている蝉の死骸。死。

 そして私は、勢いに任せて指先に触れた何かを引っ張ったのです。

 パリッという、軽い音と共に現れたのはただの紙のようでした。入口から差し込む明かりの方へ紙を翳してみたのです。それは好奇心というよりは使命感に近かったのだと思います。

 黑く変色したその紙片には一言、「しにたくない」とだけ書かれていました。そして、黑く変色していた部分を指でなぞってみると、水分を吸い乾いた状態の紙に現れる特有の突っ張り感があったのです。

 血だ。私は直感的に理解してしまいました。

 誰かが隠すように、戸棚の天井にこの紙を張り付けたのでしょう。もちろん、糊などもないから自分の血液を使って。

 その後同じ個所を触ってみると、幾枚もの紙が貼りつけられていました。

 そのどれもが黑く変色しています。

「こわい」

「いやだ」

「たすけて」

「のろう」

「しんで」

「みんなしんで」

「しんでのろう」

 拙い字で書かれた平仮名は一種の祈りのようでした。

 そしてどこか私はホッとしていたのです。これは私に向けられた呪いではないことが、文字に触れただけで理解できたから。蜷局を巻いて背後に広がり続けるあの黑い染みとは違い、太陽の日差しに似た暖かさが指先から伝わるのでした。

 これが現在、薬袋家に降りかかっている呪いの一つ。

 内側から蝕む呪い。

 笑みが零れるのを抑えることは出来ませんでした。

 やはり呪いというのは存在するのですね。

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