浸透

 暑さのせいか、当麻さんの発した言葉のせいか、私の家を侵食し続ける呪いの影のせいか。薬袋家からの帰りの記憶は朧気で、思い返そうにも真っ白な靄となり霧散するのでした。あの日、当麻さんに連れられ薬袋家へと足を運んで以降、私の日常が僅かに反転し始めたのです。日常に非日常が侵食し、気づいたら非日常が日常になるような。いえ、反転するというよりは混ざり合い、日常と非日常の境界線が無くなってしまったと言う方が正しいのかもしれません。中学生の頃に行った浸透圧の実験を思い出してもらえると良いのでしょうか。

 いとも容易く、他愛のない日常は非日常の異常さへと飲み込まれてしまうのだ。

 だから私はこの数日間の出来事を日常の中へ記しておこうと、このノートを書き始めたのだが、今この瞬間が、この文字列が、果たして正常だと誰が判断してくれるのだろうか。いえ、答えは分かっているのです、たぶん無理なのでしょう。えぇ、無理なのです。無理なのです。

 8mmビデオから始まった呪いや儀式などの非日常は、ここ数日間でその根を伸ばしたのではなく、十年、数十年も前から私の人生に絡みついて、じんわりと首を絞めていたのでした。

 部屋の片隅にこびり付いた黑い黴もいつかは気にならなくなるのでしょう。

 私が歩くたびに聞こえるヒタヒタという足音も、帰宅後からじんわりと広がる眼窩の痛みも、どこからか私に届く視線も日常となるのでしょう。薬袋家に残った粘ついた呪いは、私へとは伝播しないと思いたいのです。

 ええ、決して呪いは伝播しません。

 伝播などしないのです。だから安心して欲しい。机に散らばった過去の残り滓と、漂う呪い、さらには揺らぐ紫煙の臭い、依代、藁人形。すべてがただそこに存在するだけ。ただの有機物なのです、依代も藁人形も……。

 藁人形。

 そういえば、私の鞄の中には未だに藁人形が入っていました。当麻さんが私の家に置いたまま忘れて帰った、あの藁人形です。様子を見ようと鞄を覗くと解れた藁が中で散乱し、ハンカチやポーチの隙間、財布のファスナーにまで細かく引っかかり、絡みついていました。

 親指と中指で摘まみだすように取り出し、形の崩れた藁人形を目の前に掲げると、藁人形の心臓部分から飛び出した一本の藁に、細く黒い糸が結ばれていたのが目に入ってきたのです。

 私の髪の毛です。

 不思議なことに当麻さんの髪でも無く、それ以外の人の髪でも無く、私の髪なのだと直感で理解してしまったのです。

「ふふ」

 思わず漏れた笑い声が黑い染みとなり広がり、冷たい空気が首元をゆっくりと撫でるのでした。これは呪いか、救済か。


 突然の通知音で目が覚めたのが十分前でした。

 私はいつの間にか髪の結ばれた藁を握り締めて眠っていたのです。

 さて、まずは私を眠りから起こした通知音の正体について。それは当麻さんからの連絡でした。どうやら薬袋家の呪いを解呪する方法が分かったので、再度あの屋敷へ向かうとのこと。もし数日以内に再度連絡が無ければ探しに来て欲しいとのこと。

 つい先日までは解呪などできないと話していたのにも関わらず、どういうことなのでしょうか。解呪するということは呪詛返しも行うということでしょうか。

 文面を読み進めるうちに嫌な予感が体中を駆け巡り、私は徐に鞄からスケジュール帳を取り出しました。開いたスケジュール帳からぱらぱらと散らばる藁が机の上に広がるのには目もくれず、今日の日付と明日以降の日程を確認していました。幸い明後日までの予定が空白でしたので急いで朝一の特急を予約し、スケジュールの確保を行ったのです。

 何があっても、これから当麻さんが行おうとしていることを止めないといけない。下手をしたら命にかかわってきます。それに幾ら呪いや儀式について詳しくあっても、呪詛返しなど気軽に行ってはならないのです。失敗しても成功しても、その先に待つのは地獄でしょう。呪いを薄める方が堅実なのです。無理に解かず、薄めて現実の一部として広く浸透させてしまう方が安全なのです。

 散らばった藁を掻き集めて隅に寄せ、机に侵食する黑い染みをそっとなぞると、指先に付いた埃が蠢動し体中へと広がるのでした。ヒタヒタという足音が廊下に響き、目の奥の痛みが私の記憶を丁寧に撫でるのです。

 遠い夏の縁側の記憶。

 呪いの記憶。

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