呪詛
冷たい空気が充満する細長い廊下に響くのは、硬い二人分の足音だけでした。
夏だというのに私の体温は下がり、僅かに寒気を憶えるほどなのです。私は縁側だけを目的に進んでいましたが、初めの頃に抱いていた縁側への憧れはもう薄れ始め、私の意識はこの屋敷に絡みつく呪いという名の蔦へ向いてしまっていました。
深く息を吸い込む度に、青白い光の中で漂う埃が身体の中へと取り込まれていくのです。その埃、一つ一つに私にはわからない呪いの残滓、生贄となった人々が発した悲鳴の残響が焼き付いているように思えてしまうのでした。
廊下の突き当り、少し離れて前を歩いていた当麻さんが光の中へ消えるのです。この家自体が朧気で、夏が見せる幻覚だったのかと思うほど、その時の私は迷い家を想像していました。ただ本物の迷い家とは違い、この家から持ち帰ることが出来るものは、呪いと僅かな罪悪感だけなのですが。
当麻さんを見失った突き当りを右へ曲がり数歩進むと、足元で乾いた音が火花のように鳴りました。パリ、パリ。注意深く視線を床へ落すと、縁側から差し込む日差しが漆黒の床板の上で乱反射し、星空を創り上げていたのでした。
「足元に気を付けてね。この外縁へ通じる建具、硝子が割れていて、床に手を突こうすると怪我をするから。ほら、こんな感じで」
床に触れた当麻さんが掌を私に向けて見せてきたのです。赤く、一筋の血が流れた掌を。
「改めて、ここが縁側です。昔に比べたら大分廃れていますけど、少しだけ草刈りがされていたり、一本だけ松の木が残っていたり、他の場所よりは綺麗に見えるでしょ」
私は、そこでやっと縁側の全貌を視界に入れたのです。地面には青々とした草が生えてはいましたが、玄関周辺に比べたら遥かに手入れがされている印象もありますし、青空の下に聳える一本の松は凛々しく綺麗に育っていました。勿論、水が枯れた池や割れた窓硝子、萎れた花壇など衰退した時間の流れを感じ取ることは出来るのですが。それでも、草木を揺らす冷たい風が心地よく私の髪を揺らしながら、私自身に絡みついた呪いを拭い去ってくれているようでした。
「もしかして、この壁はさっきの部屋の」
「そうですよ、もともと障子だった場所。軟禁と言っても、いつでも縁側の景色は見えるような作りだったの」
「この景色が見られるなら、少しは気が楽だったのかな」
「そんなことないと思うけど。だって外と内の境界を常に見せられ、こんなにも外は広く綺麗だと目の前で見せつけられているのに、自分は内から出ることが出来ない。楓さん、それって残酷なことだと思わないですか。絶対に超えることの出来ない境界線が、目の前にあり続けるっていうことが」
彼女の言葉を聞きながら、もともと障子であった壁を指でなぞりました。ざらりとした感触だけが、冷たさと一緒に伝わってくるのでした。私は何かに背中を押されたような感じがして、そのまま縁側から庭へと出て松の方へ向かったのです。草の柔らかな感触と、耳に響くキジバトの鳴き声。
松へ近づくと、その枝が数本折れていることに気が付きました。その不自然に折れた刺々しい枝先が、私の心を深く抉るのです。
「残酷だとしても、それでも私は外を見ることが出来たのは救いだったと思いますよ」
「どれだけ外への希望を持っても、絶対に実現しないのに?」
「そもそも自分たちのエゴで生贄にしようとしている側が、希望を持たせるのは残酷だというのは可笑しいですよ。そんな言葉を使う資格なんて無いと思いませんか」
堰を切ったように言葉が溢れ出てしまいました。目の前の現実から目を背けるために、責任から逃げるように私は全く意味の無い言葉を並べたのです。
「それなら私たちは、どうすれば良かったのかな。生まれる前から続く生贄を止めて私たちだけ呪いを受け入れろと。そして新たな呪いは生贄を続けた罰だと」
「ごめんなさい。別に当麻さんを責めるつもりではなくて」
縁側に立つ当麻さんへ恐る恐る視線を向けました。自分の放った言葉は、彼女の人生に対する一種の呪いになると思ったのです。松の下から見る縁側はどこか別世界のようで、彼岸と此岸の境界がそこにはあったのでした。
「大丈夫ですよ。私も報いは受けるべきだと思っているの。人を呪わば穴二つって言葉通りにね。呪いは受ける側が呪われているという認識を持つことで、徐々に精神が侵食されていくものだけど、それ以上に誰かを呪い続けるという呪う側の精神も削られていくの。当然だよね、相手を呪うための余りにも強い言葉を、感情を一度でも吐き出してしまえば、二度と取り消すことは出来ないから。それ以降、呪った相手に何かあったら呪いのせいだと思ったり、いつかその呪いが自分に返ってこないかと怯えることになる」
この家を呪った誰かは今も後悔しているのでしょうか。それとも呪った事すら忘れて、のうのうと生きているのでしょうか。そして私がビデオから感じたあの呪いは、ただの気のせいだったのでしょうか。いや、もしかしたら誰かを呪った残滓を感じ取ってしまっただけかもしれません。
「だからね。私は、私たちが生まれる前から生贄にされてきた人たちの恨みや怒りを、呪いとして受けることは当然だと思っているよ。その人たちがいなければ、ここに私はいなかった。その代償としてね。だからこそ、あの儀式を正当化するつもりはない。まあ、呪いという言葉だけでは説明できない存在がこの家に住み着いている、取り憑いているのは理不尽だと思うけれど」
そこまで言って、当麻さんが悲しそうに笑ったのを今でも鮮明に憶えています。
「ただ厄介なのは、生贄を捧げないと祟ってくる神様でも、過去の怨念でもないんだよね。楓さんは何だと思う」
厄介なもの。
私にとって厄介なのは、差出人も中身も分からない呪いらしきものでした。まだ呪いかどうかも確定していない、私を縛り付ける黑い黴。
「呪いの原因が分からないことですか? 呪われたという事実だけが存在している状態」
「大体正解。問題は誰が呪っているかが分からないこと。だって、折角呪いを解いても呪詛返しできないからね」
呪いを解く方法はあるのだろうか。
その日の私も、今現在の私も解呪方法は分からないまま、結末を先延ばしにしようと必死に抗っているだけなのです。
「だって、もう手遅れでも、呪いを返すことが出来れば少しは気分が良いでしょ」
その言葉が今も私の心の中に残り続けています。私には、まるで生きることを諦めたかのように、自分の最期を自覚しているかのように聞こえたのです。
梔子色の日差しの中で、陽炎のように立っていた彼女の姿。当麻さんがゆっくりとトートバッグの中から、小さな箱のようなものを取り出して顔の前に構えました。その刹那、風音に紛れて微かな機械音が鳴ったのです。場違いなほど軽い音。
「これ? チェキですよ。写真に撮っておきたくて持ってきたの」
カメラから出てきた一枚のフィルムを手に取って、小さく扇ぐ姿を私はぼんやりと見つめていました。写真を撮ると魂が撮られるという古い迷信めいた言葉が脳裏に過ってしまうのです。
「あぁ、失敗かな。呪いも何もかも消えてしまえば良いのに、死んでしまえば良いのに」
手元のチェキを二つに折りながらそう呪くと、緩慢な動作で縁側から外へ投げ捨ててしまいました。木の葉のように舞い散って、静かに地面を滑ったのでした。
「楓さん、今日はありがとうございました。お陰で手掛かりが掴めました」
「私は何もしてないですよ」
「いいえ、十分です。最後に一つだけ」
足元に広がる影が、黴のように地面を侵食し続けていました。
「昔ね、私、この庭から血に汚れた釦を拾ったことがあるんですよ。ちょうど原因不明の新たな呪いが湧き出てきたころね。確か薬袋家の家紋が彫られた釦だったかな」
そうでした。もう日付も思い出せないあの日も空にも、透き通るような青が広がっていました。陽炎の向こうで揺れる草花。投げ捨てた恨みと釦。
「それに、私の姉がこの縁側から誰かに突き落とされたんですよね。誰がそんなことをしたのか」
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