四華

 きぃ……と、擦れるような音と共に開かれる襖。

 私はその先に広がるであろう光景を想像しながら、無意識に握り締めていた拳を開きました。べったりとした厭な汗の感触に、呼吸を整えようと僅かに目を閉じるのです。

 目を閉じる。ただ視界情報を遮断するという行為一つで、聴覚や嗅覚などが鋭くなり、いままで無意識に避けていた環境情報が濁流のように体へと流れ込んでくるのでした。その中でもとりわけ大きかったのが、人の臭いです。

 砂埃に塗れた全く人気のない家の中で、生活の痕跡が無い部屋の中で、どこからともなく漂う人間の臭い。汗なのか皮膚なのか、はっきりと体臭と呼べるものではないのですが、明らかに人の身体から発せられたであろう、ある種の独特な香りが私を襲ったのです。そしてその臭いは、襖の開かれる音に比例するように濃くなるのでした。この向こうの空間では、未だに誰かが生活をしているような、そんな錯覚を憶えるほど。

 私は嫌悪感と恐怖心の狭間で怯えながらも、例の8mmビデオで見た光景を思い出していました。白い無地の襖を開いた先には小さな和室があり、向かい側の障子から縁側へと抜けられるはずなのです。そして私が僅かに思い出した子供の頃の記憶の中でも、確かにこの部屋には障子があり、その先に縁側が広がっていたのでした。

 砂利が引っかかり、金切り声を上げる襖から音が途絶えたのを確認し、目を開きました。障子から差し込む光に思わず目を細める……ということはなく、私の目の前に広がっていたのは、淀んだ空気と部屋の三方を覆う壁だったのです。障子があると思っていた場所には、外壁と同じ土壁が聳えていたのでした。

 はい、壁だったのです。

 なんと表せば良いのか、まるで部屋の眼を覆うように一切の光が遮断されていたのです。納屋、行き止まり、牢獄。私の頭の中に浮かんだ言葉は、一切、人が生活していたであろう部屋に対するものではありません。

「どうして壁が」

 私は呆然としながら呟いていました。それは当麻さんへの質問であり、私自身の意識を保つために必要な行程だったのです。例の映像や私の記憶は間違いだったのだろうか、崩壊し始める砂上の現実と確信。噛み合わなくなった現実の歯車に、猜疑心と恐怖心が閉ざしていた記憶の隙間から零れ始めるのでした。

「この部屋は前からこうですよ」

 隣に並んだ当麻さんが笑いながら答えるのです。私たちの背後から差し込む光が、真っ直ぐと部屋の中央へ伸びていました。

「楓さんが初めて来たのは小学生の頃なんですよね。その頃にはもうこの部屋は壁で囲まれていましたよ。何か変なことでも?」

「いや、壁で囲まれているのが珍しいなと」

 何故か障子があったことを聞けませんでした。余計なことを聞いてはいけない、ただその意識だけが私を支配していたのです。

「昔は、この正面の壁が障子だったから縁側に繋がっていたんだけどね」

「あぁ」

「十数年くらい前かな、障子から壁になったんですよ。たしか私が幼稚園に入る頃なので、楓さんも幼稚園の頃か小学校に入りたてくらいの頃かな」

「何かあったんですか」

「んー、どうだろう」

 頬に手を当てながらゆっくりと部屋へと進む当麻さんを眺めながら、私の記憶と現実の時間のずれを認識したのです。恐る恐る敷居を跨ぐと、どんよりとした色の無い湿度と生臭さが漂い始めました。黴臭い、黑に染まった呪いの様な空気。

 この部屋を照らす唯一の光は、十字に揃った畳の合わせ目に沿って迷いなく伸び、私たちの影を描くのでした。暗闇に目が慣れ始めると、部屋の中の様子がぼうっと浮き上がってくるのです。文机に散乱した紙、綺麗に十字に揃えられた畳の合わせ目、筆先の折れた万年筆。目の前に広がった光景は、確かに見覚えのあるものなのです。蜘蛛の糸が頬に絡みつき、踏んだ畳縁が深く沈む。私は当麻さんに見えない糸で引き摺られるように、一歩、また一歩と部屋の中へと誘われました。

 脚を動かすたびに、ざらっとした砂粒よりも大きな何かを踏む感触が靴底から伝わってくるのです。じっくりと目を凝らすと、畳に広がる折れた爪や髪。得体のしれない過去の残骸が、誰かの生きた証が私の足元で声も上げずに死に絶えているのでした。黄色く変色した爪も、毛先が幾重にも枝分かれした髪も、8mmビデオの終わりを私に思い出させるのです。

 異様に柔らかな畳の感触と、固形物の擦れる音から意識を逸らすために、別の話題をどうにかして言葉として吐き出そうと、何度も何度も口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していました。貴方も話したい話題はあるのに口に出すことは出来ず、苦しんだことはあるでしょう。地上で空気に溺れる魚の如く、その時の私も空気に、言葉に溺れていたのでした。

「どうですか、この部屋。気持ち悪いでしょ」

 当麻さんの言葉だけが暗闇から浮かび上がり、この部屋の中で反響し続けました。

「独特な雰囲気ですね」

「良いよ気を使わないで。私はこの部屋のことが心から嫌いだし、反吐が出るほど気持ちが悪いと思っているから」

「そこまで言うなら……確かに気持ちが悪いです。人が生活するには余りにも窮屈というか。気になることも沢山ありますし」

「うん、そうですよね。気になるのはどの辺りが?」

「あの部屋の四隅にある、木の枝みたいなものとか」

 部屋の四隅には、埃を被り灰色に染まった木の枝らしき物体が転がっているのでした。えぇ、例のビデオに映っていた少女が、部屋を出る直前に手にした枝と似ているのです。

 ヒタ、ヒタという大きくなる足音。

 当麻さんが息を吐き、畳の一点を凝視していました。

「曼陀羅華 摩訶曼陀羅華 曼珠沙華 摩訶曼珠沙華 而散仏上」

 彼女の言葉を理解できずに曖昧な声を出して、その枝へ視線を落としました。木の枝に見えたそれは、棒のようなものに幾つもの切り目が細かく入った紙が巻き付けられたものだったのです。

「昨日も言ったけど、別にこの家は特別何かの宗教を信仰しているわけでは無いんだよ。その癖に、都合の良い時や責任を逃れるときは神頼み、仏頼みで嫌になる」

「じゃあこの部屋は何の目的があって、こんな状態に」

 指先に絡まった蜘蛛の巣を解きながら、視界の隅に散乱する紙片に幼い字で記された「しにたくない」の文字が、今でも脳裏へ焼き付いたまま消えることなく残っていました。その文字は無差別な呪いのように、深く私の心に巣食って精神を蝕むのです。

「贄を育てるんですよ」

「贄」

「儀式に使う生贄を育てる部屋なんですよ。生贄をこの部屋に軟禁して、ただただ儀式の日を待ち続ける。楓さん、その足元の畳、凄く柔らかいでしょ」

 当麻さんが目を細めて悲しそうに笑ったのです。感情が読めなかった彼女の心に、少しだけ触れられたようなそんな錯覚。一枚だけ異様に柔らかくなった畳から足を離し、僅かに後退りをしてしまいました。隠そうとしてきた私の中の動揺が行動となって表れてしまったのです。

 後退りした踵に触れて大きく揺れ動く屏風には、逆さまに描かれた松が描かれていました。

「この部屋も、この屋敷も、その畳みたいに腐りきっているんですよ。すみません、外へ行きませんか。縁側で気分転換をしましょう」

「生贄を育てるって……、人間の生贄はもう捧げてないんですよね」

 私の記憶が正しければ、生身の人間を生贄に捧げてはいないと言っていたはずなのです。代わりに藁人形を使っていると。

 この牢獄から出ようとする当麻さんが足を止め、少しだけ視線を上げました。一体何を考えているのか、何を背負っているのか。その後ろ姿は悲し気であり、不気味でもありました。

「ごめんね、楓さん。あれは嘘。いまでも生贄は人間だよ」

 私は言葉を返せませんでした。

 どう言葉を返せば良いのでしょうか。何を言えば正解だったのでしょうか。私には無言のまま呆然と立ち尽くすことしか出来なかったのです。それにもし、いまも人身御供が続いているのなら、私の鞄に入っている藁人形は何なのでしょうか。どのような意味を持つのでしょうか。

「楓さん。この世には、生まれた瞬間から呪われる人もいるんですよ。不公平ですよね」

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