紫煙

 目の前で揺らぐ紫煙が顔を包み込み、灰褐色の海に溺れるのです。目や口、微かな傷口から、空間に留まった怨念を含んだ死が身体の中へ入り込んでくるような感覚。私の脳を、精神を、生臭い呪いが蝕み、黑に染め上げていく。私は声に出さないよう息を止め、畳の縁を何度も何度も爪先で擦るように踏みしめていたのでした。

 そうやって擦り切れた畳の綻びを見つめていると、また一つ古い記憶が朧気に蘇ってくるのです。

 そこには正座をした母の背中。小学生の私も、母の後ろへ隠れるように正座をしているのです。そして、そんな私達を見下ろすように立つ薬袋家の誰か。当麻さんの母親なのか叔母なのか、私には分かりませんが、その女性が三面鏡の広がる化粧台に置かれた小物を煩雑に手に取り、勢いよく投げつけてきたのです。

 乱雑に投げられた化粧品やアクセサリーから私を守る様に、母が目の前で俯きながら座り続けていました。しかし幾ら母が身を挺して庇ってくれても、時折その肩越しに飛んでくる小さな釦や文房具が腕に当たり、頬を掠めるのでした。

 途中から私はただ目を瞑り、じっと声が聞こえなくなるのを待ち続けていたのを憶えています。しばらくして、痛む頬を撫でながら目を開けると、もう女性は部屋から立ち去り、残ったのは畳の上に散乱した小物たちと、ひたすら私に謝り続ける母の声だけでした。

 そして視線を下げると、頬を撫でた手が真っ赤に染まっていたことを鮮明に思い出します。血に見えた赤の理由は、私の足元に転がった蓋の取れたペンの先に広がる、どろりとした染みを見れば理解できたのですが、今になって思えば多少は私の血も混ざっていたのでしょう。あの日から数日の間、身に覚えのない傷が身体中に残っていたのですから。

 私は転がっていた釦を一つ手に取り、力強く握ったのでした。そうでした、この釦に薬袋家の家紋が彫られていたのです。私はその赤く濡れた家紋を睨みつけながら、手を拭っていたティッシュへと包んでポケットの奥に仕舞いました。

 あの日の私は、行き場のない怒りと憎しみをどこへ捨てたのでしょう。

 ヒタ、ヒタという足音。

 答えを見失った思考が終わりの無い螺旋へと落下していく途中で、首筋を撫でる冷たい感触に意識が現実へと戻されました。振り返ると、穴の開いた黄ばんだ障子の隙間から僅かに吹き込む隙間風。その隣には鏡の割れた化粧台と、しゃがんで柱を指で撫でる当麻さんの姿があったのです。

「次の部屋、見ようか」

 当麻さんが、ぽつりと呟きます。私に対して話しかけているはずなのに、その言葉はここにはいない誰かへとむけられているような疎外感がありました。

「はい」

 気持ちの籠っていない返事だけをその場へ残し、破れた障子の隙間から縁側へと続く細長い廊下を覗き込みました。ぼんやりとした白い光の中で、徐々に象られていくのは青白い光に満ちた廊下だけ。

「少し思い出しました、私が薬袋家の家紋を知っていた理由。昔この家で釦を拾ったんですよ、そこに刻印されていて」

 伝える必要のない言葉が口から洩れたが、私の意識は周囲の空間へと向いたままなのです。半分ほど中身の減った香水の瓶が置かれたままの化粧台、割れた鏡の破片が刺さった畳、木の柱へ真横に引かれた数本の線。たぶん当麻さんが指で撫でていたのは、この柱に刻まれた二本の線でしょう。線の横には二十年前の日付が彫られているのでした。このような僅かに残った生活の痕跡に、誰かの生きていた残り香を感じてしまうのです。それがどれほど不快なことか。

「そろそろ大丈夫ですか、この先へ進んでも」

 もとは真っ白であっただろう黒ずんだ襖の前で、私を見つめながら首を傾げる当麻さんの姿がありました。その表情には逆光のせいで影が差し、今ではどのような感情を表情に浮かべていたのかすら思い出すことは出来ません。

「そういえば当麻さん、何か手掛かりとか見つかりましたか」

「うん、この家に残った呪いの原因なら。実は私、儀式の失敗以外にも薬袋家自体への新たな呪いがあったのではないかと思っていまして」

「その根拠が見つかったと」

「そうだね、呪いの輪郭が見えた気がする」

 二重の呪い。

 その可能性について私は全く考えもしませんでした。9mmビデオ、人身御供、儀式、祟り、呪詛、身代り人形。どれだけ思考を巡らせても、明確な呪いの線引きが出来ないまま、私は薄汚れた純白とは程遠い色をした襖の前に立ちました。私にとって呪いというものは全てが同一であり、原因など些細なものなのです。郵便受けに詰め込まれた、差し出し人の分からない有象無象のチラシのようなものでしょう。呪いの差出人など、呪いの中身などどうでも良いのです。私にとって問題なのは、そこに呪いがあり、私がその呪いを受け取ったという、ただその一点だけなのです。

 燻る紫煙が視界を曇らせ、思考を鈍らせるのでした。当麻さんが襖へ手を伸ばす姿を意識の隅で眺めていました。

 どこからともなく向けられた視線を感じながら。

 もちろん、そんな視線など気のせいなのですが。

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