位牌

 一歩玄関へと踏み込むと、ひんやりとした空気が身体を包み込みました。暗く冷たい玄関で、上がり框に立った当麻さんが「おかえり」と笑っていたのです。どことなく緊張していた私に対する彼女なりの冗談だったのでしょう、私は「ただいま」と無理やりにでも笑顔を作って靴を脱ごうとしました。

「靴は脱がなくて良いよ」

 当麻さんの足元を見ると確かに土足でした。そして改めて見渡すと、漆喰と見間違うほどの黒光りする廊下には、砂利や足跡の形をした泥が随所に付着し、素足で歩くにはあまりにも汚れすぎていたのです。その光景があまりにも異様で、未だに奥歯で砂粒をすり潰してしまったような不快感を憶えています。

「もう何年、十何年かな、この家を掃除する人もいなくなったんですよ。庭は荒れ放題、家の中はこの通り砂埃に塗れて、掃除をするにしてもまずは土足で上がるしかないほどです。汚くてごめんね」

 そう話をしながら廊下を進む後姿が、どこか寂しそうだったのです。土足で上った廊下の感触はどこか気持ちが悪く思いました。たぶんアスファルトや畦道の様な細かい凹凸がなく、どこまでも人工的な滑らかさと僅かに弾力のある木張りの床を靴で踏むという初めての経験に加えて、家に土足で上がるという状況に私の脳が拒否反応を示していたのでしょう。とりわけこの日本で、日常的に土足で家に上がるという生活をしている人の方が少ないはずなので、私の気持ちにも共感してくれる人は少なくないはずだと思います。

「当麻さん、あっちの突き当りに縁側があるんでしたっけ」

 私は玄関を上がってすぐ、左に伸びる細長い廊下を眺めながら、古い記憶を呼び起こしていました。振り返った当麻さんが、小さく「そうですよ」とだけ呟き、玄関から正面の廊下を進んでいったのです。ヒタ、ヒタと足音だけが響く家。

 幾つもの扉を開けて進む当麻さんの後ろについて行きました。静かに、靴の音だけが響きます。開けられた扉を覗くと、タイル張りのお手洗いや、洗った後の食器が流しの脇に乗せられている台所、そのどれもが未だに生活感に溢れているのです。しかしその一方で、床には砂や泥が広がり、部屋の隅や天井には大きな蜘蛛の巣が埃を巻き込みながら黒く広がっていました。目に見えずに忍び寄る呪いの影。私は何気なく足元へと視線を落とし、自分の立ち位置を再確認したのでした。

 気付けば家の中の扉という扉のほぼ全てが開けられたままになり、引き出しや押入れなども全て中が見える様に開け放たれたのです。何かを探しているようにも、目的も無く行動しているようにも見える当麻さんの姿を、私はただ一言も喋らずにじっと眺めていました。部屋と廊下、部屋と部屋を隔てる仕切りが徐々に取っ払われることで、家に開いた大きな横穴。寂しさ。虚しさ。外と中の境界が曖昧になった清々しいほどの解放感が、住む人の居なくなった空虚さを増しているようでした。

「次の部屋が最後です」

 最後。確かに当麻さんは、最後と言いました。私は、全く探索をしていないのにもう最後なのかと、喉元まで上がってきた言葉を何とか飲み込み頷き返したのでした。早く外の空気が吸いたいという欲望に逆らえないのです。

 当麻さんと共に閉まったままの襖の前に立ちました。その襖に描かれていた市松模様を目にしてからというもの、早鐘を打つ鼓動が耳の奥で響くのです。息の詰まる私の様子は一切無視したまま、当麻さんが襖へと手をかけます。襖の開かれる光景がゆっくりと、そして禍々しく見え、このまま時間が止まってくれたらと願ってしまうほどに、私の意識はこの襖の奥に広がるであろう景色に怯えていたのでした。

 見覚えがある。

 既視感。

 その感覚がどこまでも私に恐怖を与え続けるのです。

「どうぞ仏間です。長々と付き合わせてすみません。ここが私の目的地ですよ」

 畳は色褪せ、壁には染みが目立つが、それでもほかの部屋よりは荒れ果てた空気はありませんでした。当麻さんの後を追おうと恐る恐る踏み出した一歩。私がその一歩を躊躇したのは、この部屋に対しての恐怖心からであり、いつからか畳を靴で踏むということへの罪悪感が僅かに薄れかかっていたのです。

 仄かに香る線香の匂いが波のように顔を撫でては、部屋の外へと逃げていくのでした。匂いの原因は部屋の隅に置かれた仏壇でしょう。部屋全体に対して、黒檀の表面は汚れが少なく丁寧に扱われていたのが一目でわかります。当麻さんは、その仏壇の前に置かれた紫の座布団へと、迷いなく足を運び腰を下ろしました。

 鞄から取り出した三本の線香に火を点け、一本ずつ手で火を消しながら立てていく姿を、私は少し離れて見ていたのです。ええ、私は彼女の付き添いなのです。一歩引くこと、間違っても踏み込まないこと、それだけを胸に刻み私はこの場にいたのです。だって私の目的は、この頭の中に巣食う黒い黴の様な呪いを消し去る糸口を掴むことだから。

「楓さんもどうぞ」

 立ち上がった当麻さんが笑ったのです。一歩引く私の胸の内を覗き込んだかのように、笑って緩慢な動きで座布団を手で示していました。

「私も、ですか」

「はい、彼女も喜ぶと思うので」

 拒否することを許さないかのように嗤う当麻さんの姿に、流されるように私は座布団へと座りました。不思議なことに汚れの無い座布団。柔らかな弾力のある座り心地の良さ。そのどれもが荒れ果てた家屋に対し均整のとれない姿であり、不自然さの象徴として目に映ったのです。絶妙に噛み合わない会話のような不自然さ、気持ち悪さ、その類に似た感覚といえば分かってもらえるでしょうか。

 そして、そんな感覚の裏では彼女とは誰であろうかと、私は必死に心当たりを探そうとしていました。

 ゆっくりと視線を上げました。確かここには位牌が二つ並んでいたはずだと、脳裏に蔓延る8mmビデオの映像が私に伝えて来ていたのです。いつの間にか8mmビデオの映像が、完全にこの家で撮られたものだと確信している事実に、指先が震えました。

 揺れる線香の煙の向こうに並んだ、三つの位牌。あの映像と比べると、一つ増えた位牌が当麻さんの言う「彼女」なのだろうか。戒名からは想像も出来ず、私はそっと手を合わせました。ヒタ、ヒタと足音が背後から聞こえましたが、当麻さんのことは考えず私の今後の身の振り方を考えていました。しかし思考というのは砂のようなもので、気を抜いた瞬間、まとまらない考えが指の間からすり抜けてしまうのです。その代わりに、昔の記憶が朧気に呼び起こされるのでした。小学生のときに二度、確かに私はこの仏壇の前で手を合したのです。理由もわからず、親戚の家に伺ったら行う一種の慣習、礼儀の一環として。そのせいか、細かな部分、例えば位牌の数までは記憶していませんでした。

 背後で大きくなる、ヒタ、ヒタという足音に急かされるように目を開くと、薄くぼんやりとした視界の中で、仏壇に刻まれた家紋が目に飛び込んできたのです。鶴翼を逆さにしたような模様。神棚に祀る榊の枝でしょうか。

「ご挨拶は終わりましたか」

「え、ええ」

 勿論、挨拶などしていません。咄嗟の嘘をこれ以上重ねないように、私は露骨に話を逸らすことにしました。

「これ家紋ですよね」

「そうですよ。逆さになった榊の枝って珍しいでしょ」

「私、ずっと薬袋家の家紋は逆向き、えっと、榊の枝が上を向いているものだと思っていました。逆さになっているのが正解なんですね」

「薬袋なら、もっと別の家紋でも良いと思いませんか? 他の家紋のように袋紋とかで。そもそもこの家紋のせいで、薬袋家が呪われていると思うんですよね。だって神棚に祀るような植物が逆さまって、なんとなく良くない気がするじゃないですか。神の世界と人間の世界の境界になるような植物ですよ」

「そうですね」

「ごめんなさい、つい文句を。それにしても楓さん、うちの家紋を昔から知っていてくれてたんですね」

 言葉が詰まりました。真っ暗な暗闇で出口を探すように、行き場を失った言葉たちが喉の奥で暴れまわるのです。そして指摘された瞬間にやっと気付いたのです。私が薬袋家の家紋を知っていたことを。しかも本来の向きとは逆さまに記憶し、無意識に言葉にしてしまうほどには、しっかりと私の頭の中に残っていたのでした。

 私はいったい何を忘れているのでしょうか。果たして思い出しても良いものなのでしょうか。悩み始めた私の気持ちなど無視するように、当麻さんは大きな目を細めて嗤っていたのでした。

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