追憶
約束通り当麻さんから連絡が届いたのは、その日の夜でした。
内容としては簡潔で、可能なら明日の朝には薬袋家へ向かいたいとのこと。幸い予定も無く、私としても出来るだけ早めに対応しておきたかったので、二つ返事で承諾したのです。翌日のスケジュールを確認し、簡単に荷造りをしてから布団に入りました。昨晩から今日にかけて周囲の環境が一変したかのような、引っ越しよりも大きな変化が訪れたかのような気分です。
そんな変化に塗れた影響か、昨晩ソファで眠ってしまった影響か、柔らかな布団に包まれると逆らうことの出来ない眠気に襲われました。真っ暗で静謐な部屋に、乾いた通知音が響きます。刺さるような白い光に目を細めつつ画面を確認すると、どうやら母からのようで、「引っ越ししたみたいじゃん、引っ越し先の住所を教えてよ。荷物送れないでしょ」と書かれていました。そういえば荷解きがある程度落ち着いたらで良いかと、母には引っ越したことを連絡し忘れていました。何故か母と仲の良い私の友人が、引っ越しの話を伝えたのでしょう。
ただその時の私は眠気に耐えられず、そっと画面を消して目を瞑りました。そこからの記憶はもうありません。気付けばアラーム音と共に朝陽がカーテンの隙間から、顔を撫でていました。
眠気眼を擦りながら待ち合わせの駅に向かうと、すでに当麻さんが改札前に立っていました。軽く挨拶をして、始発から一本後の特急に乗り込んだのです。
加速しながら流れゆく景色が、都心から離れるにつれ徐々に緑と茶色が目立つようになりました。灰色一色の景色から、緑や黄色など色彩豊かな景色になるのにどこか寂しさを感じてしまうのは、私の出身が無機質な都会だからなのでしょうか。
鞄の中に入れたお守り。隣の席で眠る当麻さん。結局、昨日の藁人形のことを言い出せずに電車は目的の駅に到着するのでした。駅に着いてから、さらに数本のバスを乗り継ぎ目的地に到着したころには正午を過ぎていました。
薬袋家があるのは山梨県南巨摩郡の人里離れた地域です。数軒の家屋が疎らに建てられ、見渡す限りの畦道と畑が広がるような場所です。バスから降り、舗装されていない畦道をどれほど歩いたのでしょう。澄んだ空気が心地良かったが、日差しがじわじわと肌を刺すのでした。そういえば、私が昔ここに来た時もこんな天気でしたっけ。
一歩踏み出すごとに、遠い過去の記憶が水底から湧き上がる泡沫の如く、ゆっくりと蘇ってきます。
『暑いね』
母親の手を繋いだ私が、母の顔を見上げながら話していました。
『そうね。でもここはまだ過ごしやすいところなんだよ。甲府とか勝沼とかの方は温度もだけど、湿度も高くてもっと暑いのよ』
『湿度?』
『じめじめって感じ。雨上がりにお外へ出ると、もわっとするでしょ』
確か、そんな話をしていたような。思い出しては懐かしくなります。隣を歩く当麻さんを横目で見ると、どこか嬉しそうな表情をして歩いていました。どうしてそんな表情が出来るのか、呪いが目の前に迫っているにもかかわらず、希望を見ているその目の輝きに羨ましさを、そして気味の悪さを感じていました。
程なくすると道の先に大きな平屋が見え始め、そこから五十メートル程度離れた場所にも数軒、立派な屋敷が視界に入りました。明らかに正面に見える平屋よりも、綺麗に整えられた景観が印象的です。いや、正面に見える平屋が寂れていると言った方が正しいのかもしれません。
「あれが薬袋家です。懐かしくないですか」
当麻さんの声で、目の前の廃れた平屋が目的地の薬袋家であったことに気付かされました。私の記憶の中の薬袋家は、もっと大きく大切に手入れをされていた印象だったのです。時間の流れなのか、そこに住む家主の習慣なのか、それとも美化された思い出なのか。
近づくにつれ、また一つ昔の記憶を思い出しました。
また母と手を繋ぎ同じ道を歩いていると、遠くの家屋に人が集まっているのが見えました。緑や黄色が広がる景色の中で、インクの染みの様に真っ黒な服を着た人が集まっていたのが、子供の頃の私にとっては、とても異質でかなり不気味に見えたのです。
『あれなに?』
『きっと出棺ね』
『出棺?』
『亡くなった方……死んじゃった人をね、棺桶に入れてお外へ出して火葬場っていうお別れをする場所へ連れていくのよ』
『なんか寂しいね』
『そうね。亡くなった人はお家の縁側から外へ出すことが多いのよ。どうしてか分かるかな?』
『お外へ出しやすいからかな』
『もしかしたらそれも一つの理由かもね。あとは縁側って縁の境界なの。ここからこっちは外、こっちは内側っていう風に、お外とお家を繋いでいるんだよ。それで亡くなった人にもうお家に戻ってきちゃだめだよ、貴方はお外へ行くんだよって縁側からお外へ出すの。生と死という縁の境界かな』
『難しくて良く分からないけど、ちょっと怖いね』
『そんな怖くは無いよ。今から行く薬袋さんのお家にも、綺麗な縁側があるから気にいると思うな』
『綺麗なんだ』
『うん、とっても綺麗だよ。……死んだら縁側から外へ出されるのか、縁側から出されたから死んだと見做されるのか、難しいよね』
鮮明に思い出した記憶には、縁側という単語があったのです。初めてこの地を訪れた日に見かけた出棺の光景。母から聞かされた縁側の話。どうして今まで忘れていたのでしょうか。私にとっては、とても大事な記憶であったはずなのです。
しかし幾ら悩んでも、その場では答えなどでませんでした。
ただ目の前の薬袋家が近づくにつれ変な汗だけが、首筋を舐めていたのです。
「楓さん、どうぞ中へ」
気付けば私は、薬袋家の入り口で佇んでいました。あたりを見回すと、手入れがされず風化した土壁に、雑草が鬱蒼と生える庭が目に入り何故だか悲しい気持ちになるのです。それと同時に、もうこの家には誰も住んでいないのだなと、肌で感じてしまったのでした。人の住まなくなった家は、数年、いや数か月で死んでしまうという話を身をもって体験し、私はぼんやりと『土佐日記』の帰京を思い出したのでした。
縁側から見える景色は昔のままであって欲しい、という叶わない願いだけをもって私は薬袋家の玄関をくぐったのです。
「おかえりなさい、楓さん」
当麻さんの笑顔を見て、私はポケットの中のお守りを強く握りしめました。
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