依頼

 眩しい光が部屋に差し込み目が覚めると、カーテンの隙間から漏れた青白い光が朝を迎えたことを告げるとともに、昨晩、映像を見た後、そのままソファの上で眠ってしまっていたことを思い出しました。未だに見慣れない間取りが、夢と現実の境目を曖昧にさせて、ここが自分の家であることを認識するまでに僅かに時間がかかります。徐々に覚醒し始める意識の隙間に、こびり付いては離れない擦り切れた映像。私は悪い夢かと思い込もうと考えていましたが、件の8mmビデオは何度見ても机の上に置かれており、当然のことながら現実が変わることはないのです。

 無造作に卓上に投げ捨てられた8mmビデオは気味が悪く、まるでその周辺が穢される様な、黒く煤けていくような錯覚に囚われ背筋がむず痒くなったのを今でも鮮明に思い出します。例えるのなら、プールの隅で真っ黒い黴が巣を張るように広がっているような、一滴だけ零した墨汁の染みが止まることなく広がっていくような、そんな様子を見たときに憶える不安と似ていましたね。そこで私は急いで周囲を見回し、引っ越し後の片付けで余った半透明の白いビニール袋を取り出してから、極力皮膚で触れないように爪先でビデオを袋の中に投げ込むと、空気を抜きながら急いで袋の口を縛りました。

 縛った袋を出来るだけ目につかない引き出しの奥に仕舞うと、跳ねる様にキッチンへ向かい手を洗います。何度も、何度も、掌の摩擦が強くなり、キュッ、キュッと音がなるまで石鹸で手を洗ったのです。今でもあの時の子供じみた行動を、誰にも見られていなかったことに安堵しています。

 しばらくしてリビングに戻ってくると不思議なことに、机の上には8mmビデオが無くなっているにも関わらず、未だにあの気味の悪い錯覚が続くのです。勿論、しっかりと机の上を確認すれば、何の変哲もない唯の木の板ではあることは明らかなのですが。

 私はただ影を見ていただけなのです。あなたも経験はあると思いますが、汚れた場所、例えばキッチンの三角コーナーに落ちた食器や、洗面台に落ちた歯ブラシを幾ら洗ったり除菌したりしても、すぐに口に入れようとすることには抵抗があるような感覚とでもいえば伝わるでしょうか。

 つまり私にとっては、そこにあることが重要でなく、そこにあったことが重要なのです。一度発生してしまったら、決して祓えることのない不可逆的な穢れとでも言いましょうか。

 なぜあのようなビデオが家にあったのか、なぜ捨てずに観てしまったのか、複雑に絡み合う後悔が頭の中をぐるぐると巡っては、溜息という形で口から零れていくのです。このように朝から陰鬱な気分でいると、部屋中に無暗に明るい機械音が響きました。インターホンです。引っ越してから初めての来客に、いま鳴った音が自宅のインターホンの音だと気付くのに少々時間がかかってしまいました。

 間を空けてもう一度。インターホンの音が部屋に響きます。

 急いでまだ解体していない段ボールの中から薄いカーディガンを取り出し、羽織りながら玄関へと向かいました。薄暗い玄関には、小さなドアスコープから差し込む僅かな光がレーザポインターのように真っ直ぐに伸びています。その光の中で漂う無数の埃。

 あたふたとしながら玄関に投げ捨てられた靴を揃えていると、再度鳴らされるインターホン。何度も大音量で鳴らされる音に、僅かに苛立ちを憶えながら恐る恐るドアスコープを覗くと、その向こうには女性が一人、首を傾げながら佇んでいました。年齢は同じか少し年下だろうか、肩で切り揃えた髪と薄く自然に見える化粧が似合っていたのが印象的でした。

 可愛い、まさにその言葉がぴったりでしょう。

 そして見ず知らずの相手でしたが、私と同じ女性ということもあり、僅かに安堵してドアを開けました。はい、ドアを開けたのです。どうして私は開けてしまったのか。

 今でも不思議に思うのですが、こんな早朝に訪ねてきた見ず知らずの人に応対する必要などないはずです。常識外れだと憤慨して無視してしまえば良いのです。ましてや宅配業者や、事前に連絡を受けた相手でもないのだから。

 ただやはり、あのビデオを見たせいで無意識に一人でいることを避けていたのだと思います。振り向けばあの机の上に見えた黒い染みのような錯覚が、私の鼻先まで迫ってきている、そんな風にさえ考えてしまうほどに。ええ、私は自分自身を不用意に追い詰めていたのです。そして、得体の知れない何かに追い込まれてもいたのです。

「はい」

 恐らく私の声は引き攣っていたことでしょう。猜疑心を隠すことのない声色。

「おはようございます。そしてお久しぶりです。楓さん」

 想定外の反応。ドアの隙間から開口一番に発せられた言葉を聞き、私は呆けていたかもしれません。

「あれ、楓さん。渡邊楓さん、ですよね」

 渡邊楓。その名前は間違いなく私の名前でした。目の前の女性は他の誰でもない私を訪ねてきたのです。しかも、初対面ではないような言葉を口にしながら。

「楓は私ですけれど、貴方は」

「あれ、楓さんのお母様からご連絡届いてないですか。当麻です」

 憶えていませんか、と首を傾げた姿を見ても私の記憶の中には、彼女の名前はありませんでした。そもそも母からの連絡など届いてなかったのです。

「薬袋当麻です。以前数回ほど私の家でお会いしたような気がするのですが、もう昔のことなので」

「薬袋」

 薬袋という名字を聞いたことで、昨晩の映像が更にフラッシュバックし、脳裏には遠い記憶の片隅に仕舞われていた日本家屋が明瞭に呼び起こされることになりました。そして、一日も経たずに縁側の映ったビデオから薬袋家、そして目の前でにへらと笑う当麻さんへと繋がったことに、言い表せない気持ち悪さを憶えたことを今でもはっきりと思い出せます。

「思い出してくれましたか」

「確かに、薬袋さんの御宅へは数回遊びに行きましたね。それで、今日はどのようなご用件で」

 正直、憶えているのはあの縁側のみで、彼女のことは憶えていなかったのですが……。私の気持ちとは正反対に、思い出したと言われて喜んだのか、笑顔を浮かべながら当麻さんは私に会いに来た理由を述べ始めました。それが何とも雲をつかむような話だったことか。

「はい、楓さんにお願いがあって伺いました。私の実家を憶えていて下さったのなら、そこに住んでいた私の家族や親戚のことは思い出して貰えるでしょうか」

「なんとか数人は、ただ顔も名前も思い出せないほど朧気ですけど」

「そうですか。実はあの家に住んでいた人たちが皆、いなくなってしまって」

「いなくなった?」

 あまりにも突飛な言葉に、気付けば私は自分でも笑ってしまうほど間抜けな声を上げていました。突然、ほとんど記憶にも無い親戚がいなくなったと聞かされたら、同じような反応をするのではないでしょうか。冗談だと、悪戯でしょうと。

「所謂失踪です。二十年近く前にあの家に住んでいた人々が少しずつ失踪していき、現在残ったのは私だけです。もう誰とも連絡は取れません」

「もしかして、そのことと私が何か関係していると」

「私は家族の失踪と楓さんの関係を疑っている訳ではありません」

 言葉の端々から、私が疑われているのではないかという感情を汲み取られてしまったのは、私の落ち度でした。もう少し、穏便な言葉選びをするべきだったと思います。しかし疑われたことへの嫌悪感を隠す必要がない程、私には何も身に覚えがありません。

「私たち一家に何かあったら、楓さんを訪ねてみなさいと言われ続けていまして。それで今日、お伺いしたのです。もしご迷惑ならばもう伺うようなことはしませんし、時間を改めろというならば、また後日伺います。でも協力していただけるようでしたら、ぜひともよろしくお願いします」

 そう言って下げた当麻さんの頭を私は見下ろしていました。次に出る言葉を探しながら、十秒、数十秒と。突然見ず知らずの人が自宅に来て、家族が失踪した、協力してくれ、このような言葉を投げかけられたら、貴方はどうしますか。

 しかもその人が頭を下げているのは、玄関の前です。マンションの同じ階の人に見られてしまったらと考えるだけで、ぞっとするのではないでしょうか。

「分かったので、頭を上げてください。別に今からでも大丈夫ですので、取り合えず中にでも入りますか」

「よろしくお願いします」

 こうして私は、ほぼ初対面と言っても良い相手をあろうことか部屋の中へと招いたのでした。8mmビデオ、薬袋家、失踪、そして縁側。すべての要素が私の不安を、そして仄暗い好奇心を刺激した結果なのでしょう。

 好奇心は猫をも殺すとはよく言ったものです。

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