8mmビデオ

 私が薬袋家の事を思い出したのは、押し入れの片隅で埃を被った状態の段ボールの底から見つけ出した8mmビデオが原因でした。引っ越しの断捨離で、偶然見つけたラベルの無いビデオ。今ではもう見かけることも無くなった骨董品とも呼べるそれは、再生機器も無く本来ならば内容も見ずに捨ててしまっていても可笑しくない代物です。

 しかしながら不思議なことに、記憶にも無い薄汚れたその黒いビデオは私の興味を引きつけ、はやく中身を確認しなくてはという感情で支配するのでした。ねっとりとするような緊張感、夏の日のような湿度の高い忌避感。嫌悪感を抱きつつも私は、好奇心と呼ぶにはあまりにも束縛的な、寧ろ使命感とさえ呼ぶべき感情を捨てきれず、引っ越し先の新居までこのビデオを運んできてしまいました。剰え、町はずれの小さなリサイクルショップで8mmビデオ対応のハンディカムまで購入して。

 荷解きも終わり、新居のリビングが自分の部屋だと馴染み始めたころ、ソファに腰を下ろしてハンディカムを取り出しました。カーテンの隙間から覗く空は黒に染まり、壁にかかった時計は一時を指していたのです。8mmビデオをハンディカムへセットし、動画の再生を試みました。小さなディスプレイに映った真っ青な映像は、あまりにも人工的な色で、不必要に恐怖心を煽るのでした。

 テープの劣化からだろうか、映像が僅かに歪み擦れたようなざらつきと共に、小さな窓に風景が流れ始めます。心臓の音が徐々に大きくなり、聞こえなくなる秒針の音。

 そのビデオテープは、がさがさ、という衣擦れのような籠った音で始まった。


 がさがさ。

 衣擦れのような音が聞こえ、青々とした畳が画面いっぱいに映る。ゆっくりとカメラの視点が上昇すると、小さな白い脚と共に着物を着た少女が顕わになった。四、五歳くらいだろうか、若しくはそれよりも幼いか。

 目の上で切り揃えられ、肩まで伸びた真っ黒い髪が白い着物の上で揺れる。

 正面に映った少女の潤った双眸が、真っ直ぐ液晶越しの私を見つめているようだった。少女の後ろに佇む黒い仏壇からは、二つ並んだ位牌の間に線香の煙が昇る。カメラが小刻みに揺れながら周囲を見渡すと、部屋の右側には市松模様の描かれた襖が、左には真っ白な襖が映った。

「こっち」

 草花が揺れるような微かに柔らかい声に反応するように映像が上下に揺れ、真っ白な襖を開ける少女の後を追った。開いた襖を通ると、質素な文机に屏風、四隅には灰色に薄汚れた小枝のようなものが置かれた部屋が広がる。向かいの障子から入る日光が青白く、部屋全体にじめじめと湿ったような陰鬱な空気が漂う。

 壁の黒い染み。日に焼けてささくれた畳。机の上に転がった万年筆。松が逆さに描かれた屏風。

 カメラが忙しなく周囲を見渡した後に映した天井では、白い蛍光灯が明滅している。

 カサ。

 軽い音がして視線が下を向くと、丸められた紙屑が畳の上に転がっていた。続いて、もう一つ紙屑が転がる。

 畳から視線が上がり、懐紙を丸めて投げつける少女の姿が映る。カメラを向けられると満足そうな表情を浮かべ、左手に持っていた懐紙をそのまま胸元へ戻す。床に投げ捨てられていた羽織を着て、その場で大きく回った。風を含んだ羽織の裾が膨らみ小さな身体を包み込むと、少女は隅に置かれた小枝を両手に取って障子をあけ放つ。

 一瞬だけ画面全体が白飛びし、部屋を出ていく少女の姿を追えなくなる。程なくして映像の中に生活の影が戻り始めると、障子の向こうに広がる縁側へ向かって少女が空を見上げていた。その両脇に落ちた小枝。床に擦れる羽織の裾。

 ぎぃ、ぎぃ。

 少女が左右に揺れる度に聞こえる床鳴り。

 ぎぃ、ぎぃ。

 一定の間隔で鳴り続けている。

 映像は小刻みに震えるだけで動こうとしない。

 ぎぃ、ぎぃ。

 縁側で揺れていた少女は勢いよくカメラの方を向こうとするが、着丈に合わない羽織の裾を踏み、その場へ頭から倒れた。少女の頭が床に接触する瞬間、木霊する鈍い音。床へぶつかった衝撃のせいか、少女の小さな身体が僅かに弾み、再度鈍い音が鳴る。残されたのは静寂だった。

 映像の視点が徐々に下がり、撮影者がカメラを手放したのだろう、最後には真っ白な襖を映しながら床へ落下する。擦り切れた畳の隙間に詰まった砂利、抜け落ちた髪の毛や爪の欠片。

 軽やかな足音が遠ざかる。

 無音。

 床鳴り。

 無音。

 悲鳴。少女の悲鳴が一瞬だけ映像を彩る。

 無音のなか、ざらついた映像だけが時間を刻む。

 僅かに開いた襖の隙間からこちらを覗く瞳と視線が合い、映像が途切れた。


 心臓の音が煩い。

 ハンディカムを持つ指先へ鼓動の一つ一つが伝わるようで、無意識に細かく震えていました。じんわりとべたつく様な嫌な汗が全身に纏わりつき、不快感だけが呆然とする私の隣に座っていたのです。

 何度も繰り返す深呼吸。身体から逃げ出した酸素を必死にかき集めて冷静になろうとしました。

 ぴたん、ぴたん。

 キッチンから水滴が聞こえたのです。

 この8mmビデオは誰が撮ったのだろうか。映っていたのは誰だろうか。そして映像から漂う拭いきれない違和感。どうしてこのビデオが私の手元にあるのか。

 唯一つ、あの縁側は微かに覚えているのでした。

 遠い遠い、子供の頃の記憶。埃の被った灰色の記憶の中に、確かにあの縁側が存在していました。

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