第13話 アーモンドチョコレート

 早いもので、もうすぐ十月が終る。年末が近づくと思い出すことがある。後にも先にも、たった一回だけ、父親と二人で行った「第九」のコンサートである。

 私が小学校五年生の時だっただろうか。ピアノの先生がベートーベンの「第九」のコンサートのチケットを手配してくださった。ところが、先生の都合が悪くなり、よりにもよって、父親と行くことになってしまった。

 前にも書いたように、私のピアノの先生を見つけてくれたのは父親である。しかしながら、父親自身は音楽、特にクラシックに興味のかけらもない人間である。最初は、娘が生まれたらピアノを習わせたいという母親の希望をかなえ、次は、ピアノをやめたくないと泣いた私の希望をかなえるべく、尽力してくれただけなのだ。田舎生まれの田舎育ちで、勤めのかたわらに、休みの日は農作業や長続きしない趣味に明け暮れるおじさんである。

 コンサートホールは私の家から遠く、しかも時間は夜。チケットは二枚。弟のこともあり、夜に家をあけるのを母親がいやがった。

「俺が連れて行ってやる。俺にまかせろ。」

と、父親が張り切ってくれたまではよかったのだが。

 電車を乗り継いで、コンサートホールについて席に座った途端に、父親はカバンから何かを取り出した。

「腹がへるから、食え。」

と言う。見ると、いつの間に買ったのか、細長いアーモンドチョコレートの箱を持っている。

「うん。」

と言って、一粒、口にはいれたが、コンサートホールである。飲食が禁止だということは小学生の私でもわかっていた。だが、父親はおかまいなしである。

「美味い、なかなかいける。」

と、むしゃむしゃとアーモンドチョコレートを食べている。オーケストラの演奏が始まっても、ゴソゴソとチョコレートを箱から取り出していた。

 顔から火がでるというのは、こういうことだと思った。場所がら、着飾った上品な人が多いように思った。いとこのお兄ちゃんの結婚式のために、珍しく買ってもらった一張羅のワンピースを着て、一番上等な赤い靴をはいていたのだが、気分は最悪だった。周りの人達は、非常識な父親のことをどう思うだろうと考えると、私は、うつむいたまま、顔をあげられなかった。「第九」の旋律や合唱の歌声も頭に残らなかった。後日、ピアノの先生に感想を聞かれて心底、困った。

 帰りの電車の中でも、私は、父親には何も言わなかった。私のために、コンサートについてきてくれたことはわかっていた。ただ、父親にとっては、コンサートホールは場違いなところだったのだろう。天地神明に誓って、父親には悪気はなかったのだから。

 最近は細長い箱に入ったアーモンドチョコレートは見かけない。私にとっては、良くも悪くも思い出のあるもので、見かけないと寂しいものだ。父親が早くに亡くなり、父親との思い出は少ない。せっかく、父親と二人で行くのなら、映画館にすればよかったと今は思う。

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