第12話 ピアノの先生

 ペンネームにしていることからもお察しいただけると思うが、私とピアノとの付き合いは長い。そもそも、私の母が、女の子が産まれたら、ピアノを習わせると勝手に決めていたことから始まった。ピアノを始めたのは三歳頃。先生は父の同級生の奥さんというだけでその人に決まった。私が通っていたのは一つ隣の駅前にある小さな文化教室の一階で、S先生はそこにピアノを教えに来ていた。生徒が何人もいて、順番を待っている。レッスン時間は三十分もなかったと思う。月謝のわりにいい加減だったのかもしれない。一通り弾いて問題なければ、次の曲にすすんでいた。もちろん、怒られたことなどない。むしろ、怖いのは母のほうで、学校から帰ると宿題をすませて、すぐにピアノの練習だった。弟の世話と家事があるので、ピアノを弾いている私の側に母はいない。だが、母の耳は確かだったようで、間違えると、

「そこ、違うでしょ!もう一回!」

と、どこからともなくとんできてガミガミと怒る。

 それでも、なんとかピアノは続いていた。母はともかく、S先生にうるさいことを言われず、次々と新しい曲にすすんだのがよかったのかもしれない。小学校三年のころは、一人で電車に乗って教室に通い、それも楽しかった。ある日突然、S先生にピアノ教室を辞めるからと言われて、泣きながら家に帰った。今では考えられないが、保護者へのお便りも説明もなく、S先生はピアノ教室を投げ出してしまったのだ。

 父が、知り合いの娘さんが音大を卒業したと聞いて、半ば強引に頼み込み、ピアノのレッスンを続けられることになった。二人目のピアノの先生、N先生は物静かな人で、ピアノの他に、音楽理論や、簡単な旋律、和音を聞き取って譜面に書くことも教えてもらった。多分、他に生徒がいなかったのだろうが、今から思うと、音大受験も視野に入れて、色んなことを教えてくださったのだと思う。レッスンの場所がN先生の自宅だったので、レッスンが終わってから、先生と二人でお茶とお菓子をいただくのも嬉しかったし、時折、コンサートに連れて行ってもらうこともあり、優しいお姉さんができたようで、私は満足していた。

 ほどなく、N先生が結婚されることになり、次の先生を紹介してもらった。有名な音大のピアノ科卒業のU先生は、美人だったが、とにかく怖かった。二人の先生にさほど怒られたこともなく、順調に次の曲にすすむのに慣れていた私にとっては、次第にレッスンが苦痛になってきた。何よりも、手が小さく、指が太短い私は、ピアノを弾くのに向いていないという現実もわかってきていた。

 U先生に習うようになってから一年も経たないうちにピアノをやめてしまった。怒ってばかりのU先生が最後に

「あなたは、音楽をやっていておかしい人ではない。」

と言った。

 当時、中学校一年だった私には、その言葉の意味はわからなかった。今、思うと、とても大事なことを言ってくださったのだと思う。ピアノはともかく、音楽には関わり続けるようにというアドバイスだったのか、あるいは、音楽を愛する気持ちを持ち続けよとの励ましだったのか。不思議なことに、短いご縁だったU先生の言葉を折に触れて思い出すのである。

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