第6話 ピアノ伴奏

 小学校に入学して、最初の担任のA先生に関する記憶は一つだけだ。本当に、申し訳ないのだが、きっと普通すぎる先生だったのだろう。本来なら、A先生が、一年生から二年生まで、担任のはずだった。ところが、私の住んでいた田舎が、ベッドタウンとして、急に人口が増えた。当然、小学生も増えて、一学年、三クラスだったのだが、四クラスにしなければならなくなった。

 やむを得ず、二年ごとのクラス替え、担任替えが、私が二年生になる時に前倒しで行われた。二年生になったばかりの時、A先生を見かけて、

「先生!」

と声をかけた。A先生は私の両手を握って、

「頑張るのよ。頑張りなさいね。」

と、何度も繰り返した。子供心に、奇妙な感じがしたことを覚えている。これが、A先生の唯一の記憶なのだが、確かに、この後、二年生から四年生までの担任のI先生がとんでもない人だったので、今から思うと納得がいく。

 前にも書いたが、I先生は給食を食べられないので、毎日、弁当持参。授業は、すべての科目がいい加減で、後で聞いた話だが、I先生は保護者会で吊し上げられたらしい。それでも、めげずに定年まで勤め上げたらしいから、鋼のメンタルの持ち主である。

 音楽の時間は自分がピアノを弾いて伴奏ができないという理由で、なんと、この私が伴奏をしていた。私は三歳から母親にピアノを習わされたのだが、小学校二年生の時にはソナチネぐらいまで弾けるようになっていたので、音楽の教科書に載っている歌の簡単な伴奏なら弾くことができたのだ。

 おかげで、私は、音楽だけは好きで、歌うことも好きだったのに、歌う時間(楽しみ)を奪われたことになる。クラスのみんなは状況をよくわかっていて、伴奏している私をいじめたりすることもなかった。むしろ同情されていたかもしれない。

 体育の時間も遊具で遊ぶか、子供同士でボール遊びをするか、はっきり言って、休み時間とかわらなかった。図工の時間も基本的にほったらかしだったが、一度だけ、I先生に

「そんなに下手くそな絵は捨てなさい。」

と言われて、本当にゴミ箱に画用紙に書いた絵を捨てたことがあった。特に悲しいとか腹立たしいとかの感情もなく、子供ながらにI先生はこういう人だと割り切っていたのかもしれない。

 I先生がろくな授業をしていないことを、再々、保護者達が訴えたのか、他の先生達が応援にきたのは、随分たってからだったが、それでも、私はピアノ伴奏をずっとしていたように思う。

 今から思うと、他の先生達も自分のクラスのことで手一杯のはずなのに、どうしておられたのか同情する。小学校生活の半分が、I先生が担任だったのだが、クラスの雰囲気は悪くはなかった。締め付けがないかわりに、子供達で好き勝手をしていたが、問題がおこっても、自分達で、それなりに解決していた。

 「私はできないから、できる人にやってもらう。たとえ、それが子供であっても。」

というのが、I先生の考え方だったのだろう。教師として、いかがなものかと思う。その一方で、これくらいの図太さがないと、この世を生きぬくことができないな、と、今になって、妙に感心している自分がいる。

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