第4話 創作ダンス
現在、小学校の運動会の華と言えば、組み体操だろうか。練習が大変だと聞いている。私が小学生の時の運動会では、組み体操はまだなかった。運動会の日は給食がないので、みんなの楽しみは、母親達が作ってくれる弁当だった。運動会の日は、はなから給食がないと決まっていたので、雨が降って、運動会が延期されても、弁当が食べられる。だから、弁当の日が増えるように、運動会が延期されるとみんなで喜んでいた。
私は、運動は得意ではなかったが、徒競走で、ほどほどに走り、綱引きは力の強い子に、玉入れは背の高い子に任せていたので、運動会が苦になって困ったことはなかった。運動会の最後の組み対抗のリレーでは、各クラスの代表を応援して、みんなで盛り上がった。田舎の小学校らしい、実に、のんびりとした運動会だったのだ。
六年生になった時、先生達が、創作ダンスを運動会の種目にしてしまった。もちろん私達に何の相談もない。私達、六年生には、最高学年として、恥ずかしくない創作ダンスを創り上げる使命が課された。テーマは先生達が勝手に決めた。その名も「日本の歴史」である。あまりにも、壮大すぎるテーマに、私達は驚き、誰もが無理だと思った。
縄文時代は7〜8人の男女混合グループにわかれて、それぞれで、振り付けを考えて踊るように言われた。
「縄文時代に、たき火を囲んで踊ったイメージで、振り付けを考えろってか?変なの。いや、バカバカしい。」
私達の間から不満が続出した。私のいたグループの男子達は特に不真面目だったので、巻き添えをくって、グループ全員が叱られた。休み時間もグループごと、拘束されて、お説教をされた。最後は男子達が根負けした。彼らの発案で、私達は、盆踊りのような振り付けで、奇声を発しながら踊った。驚いたことに、それがOKになってしまった。もっとも、一番驚いたのは、ヤケクソになって、妙な振り付けを考えた男子達だっただろう。今、考えると、縄文時代の人達に失礼なことだったと思う。
平安時代を表現するために、先生達は何人か一組になり、扇をつくると言った。最初は3人1組ではじめ、徐々に5人、7人と人数を増やして、人間の扇をつくった。
途中から波(ウェーブ)もすることになった。各クラスで、手をつないで、横に一列になり、お琴の音楽にあわせて、立ったり座ったりした。一番端の子は立ったり座ったりするタイミングを覚えるのが大変だったと思う。
残念ながら、その後の時代はどんなことをしたのか、記憶にない。太平洋戦争で負けた時は、先生の大太鼓を合図に、みんなでグラウンドに倒れて死体を演じ、平和になり、復興したことをあらわすのに、フォークダンスを踊ってフィナーレだった。
「今まで、各学年ごとに決まっていたダンスをするだけだったのに、今年になって、創作ダンスって何で?」
「絶対に、Mのせいだよ。あいつ、街の学校から異動してきたんだろ。余計なこと、持ち込むんだから。」
みな、口々に不満を言った。
Mとは私のクラスの担任である。創作ダンスをとりいれたのは、その時の時流だったのかもしれないのだが、普段の高圧的な言動が災いして、何か不満があると、四人いた六年生の担任の中で悪者になるのは当然のことながら、Mだった。
創作ダンスは、保護者達にとても評判がよかった。私達にとっては最後だったが、それから、しばらく創作ダンスは続いたのだろうか。創作ダンスにせよ、組み体操にせよ、運動会の主役は子供達のはずだ。いつの間にか、先生達の運動会になってはいないだろうか。私はにとっては、五年生までの、のんびりした運動会のほうが、性に合うのだけれど。
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