夜の帳のその中で
ある冬の日の夜、一人の女が路上で歌を歌う。
柔らかく伸びと透明感のあるその声は、一人の男の意識を惹きつけた。
「お上手ですね」
男は、たまらず声を掛けた。
「ありがとう」
女は、にっこりと微笑み応える。
「あの、その歌の題名を教えて貰えませんか?」
男は、そっとたまたまコンビニで買ったばかりのホットミルクティのボトルを差し出した。
「嬉しい。寒かったし、昔からミルクティ好きなの。」
女は、やはりにっこりとホットミルクティを手に取ると両手で握りしめて暖を取る。
「歌の題名よね、ごめんね。無いの。」
申し訳なさそうに、俯きがちに小さな声で女が謝った。
「無いんですか。聞いたことがあると思ったんですが・・・」
男は、自分の古い記憶のどこかにある旋律の在処を探すように空を仰いだ。
「ごめんなさいね。お母さんが、歌っていた曲なの。お母さんも題名は無いのよって言ってたわ。」
女の言葉に、男はハッと女を見つめた。
「どうしたの?」
「いえ・・・ちなみに、お母さんのお名前は聞いてもいいですか?」
男は、少し食い気味に女に向かって問いかける。
「正木恵理子ですけど・・・あの?」
女は、男の行動に驚きながらも母の名を口にする。
「あぁ・・・」
男は、ため息にも祈りにも似たような声を絞り出して両手で顔を覆った。
「あの?大丈夫ですか?」
女は、心配になって男の方に手を添えた。
「だい・・・じょうぶ・・・です。ありがとう。」
男は、そっと自分の方に添えられた手に手を重ねた。
「お母さんのお知合いですか?」
女は、至極当然の疑問を男に問うた。
「いえ・・・いいえ。」
男は、それだけ言うと重ねていた手を名残惜しそうに離した。
「ありがとう。素敵な歌でした。また、お会いしましょう」
男はそう言って、去って行った。
残された女は、疑問を残しながらもホットミルクティを両手で包み込んだ。
父と言えるほどの年の男性が、母の名前を聞いて反応した。
きっと、お知り合いだったのだ。
ならば、伝えねばならぬ。
母が、今朝亡くなったことを。
そして、聞かねばならぬ。
父親が、どこの誰であるのかを。
女は、男の去った路地を男と反対側に歩き出す。
明日もまた、ここであの歌を歌うつもりだ。
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