第6-2話 近づく妖魔
正門前にはすでに数十名の住人が集まっていた。
人垣で前が見えない。
さまざまな人の会話が混じりあって耳に届くばかりだ。
不意に、ゴムベルトと金属とこすれあうキュルキュルという音があがった。
一斉に息をのむ音がして、会話がぴたりととだえる。
森のなかでも聞いた。
妖魔の鳴き声だ。
「これじゃ見えねえな」
耳もとで新入りの声がする。
まだついて来ていたのか。
どさくさにまぎれて離れようと思ったのに、面倒だな。
頭の片隅でそんなことを考えながら、前に出る方法はないものかと思案する。
そのとき、見覚えのある後ろ姿が目に入った。前のほうだ。周囲より頭ひとつぶん、飛び出ている。
アレグロさん、いや和弘さんだ。
「すみません、とおります」
半身になって群がる人の間をすり抜けながら、目的の男性を目指す。
押された人たちは迷惑そうな視線をちらりと向けるが、すぐにもっと重大な関心事に戻った。
わたしは人の間に身体をすべらせながら、背後に視線を向ける。
しつこい男ははるか後方に置き去りになっていた。
心のなかでほくそ笑みながら、和弘さんのそばまでたどり着く。
背の高い男性は前方に視線を据え、厳しい表情をつくっていた。
「あの、和弘さん」
恐るおそる声をかける。
今朝がた、はじめて言葉を交わしたばかりなのに、なれなれしい女と思われないだろうか。
和弘さんの顔がこちらに向く。
訝しげな視線がわたしを認め、穏やかな表情に変化する。
「美紗紀か」
落ち着いた低音がわたしの懸念を払拭してくれた。
「はい。妖魔が来たのですね」
「そうだ。ここまでやって来るのは久しぶりだな」
その言葉にどきっとした。
「まさか、わたしが引き連れて来てしまったのでしょうか」
森から逃げ帰るときにつけられていたのだとしたら、わたしのせいだ。
化け物どもに知性があるのかわからないが、やつらにとってここは格好の
和弘さんは首を振った。
「安心しろ、その可能性は低い」
「どうしてですか?」
「違う個体だ。それに森で出会ったやつは違う方向に行った」
「あの妖魔の行方を見ていたんですか?」
「そうだ」
わたしより先に逃げたはずなのに、どうしてそんなことができたのだろう。
頭に浮かんだ疑問はひとまず脇に置き、現状を聞くことにした。
「妖魔の様子はどうですか?」
口を開きかけた和弘さんは、そこでわたしの状況に気づいたようだ。
「自分の目で確かめたほうがいい」
わたしの腕をつかむと、前にいる人たちを押し割って進んだ。
「すまない、通してくれ」
強引ともいえる方法で最前列に出る。
目の前に妖魔がいた。
フェンスを隔てた向こう側だ。
森のなかでは樹上から見下ろしただけだったが、今度は正面だ。
くすんだ茶とグレーの入り混じった体色、体毛のない甲羅に覆われた身体。
口もとを覆う顎脚は、いまは固く閉じられている。
長い腕をだらりと下ろし、突っ立ったままの化け物は、大きな赤い目を左右に動かしている。
その目がもっとも近い場所にいるふたりの警備員に据えられた。
喉の奥で小さな声を漏らした男性たちが一歩退く。
手に持ったライフルが小刻みに揺れているのがわかった。
銃を持っている警備班の人たちでさえ、恐怖で震えている。
あいつにとって、わたしたちは単なる獲物に過ぎないのだ。
和弘さんはどうしているだろう。
わたしは隣の男性を仰ぎ見た。
たくましい年上の男性は冷静な表情を崩さず、顔をあげてフェンスの先を注視している。
電流の流れるフェンスの高さは二メートル程度だ。
その上には、簡単に乗り越えられないよう、コイル状に巻いた有刺鉄線が張られている。
妖魔の跳躍力を懸念しているようだ。
「大丈夫だと思います」
わたしは声をかけた。
男性はこちらに目を転ずる。
「どうしてそう思う?」
「わたしは木の上にいました。このフェンスと同じくらいの高さです。あいつは下で待っていただけでした」
和弘さんの目がふっとやわらぎ、微笑があらわれた。
「美紗紀、頭がいいな。よく冷静に観察していた」
褒め言葉は嬉しいが、首を振る。
「とんでもありません。怖くてしかたありませんでした。ずっと震えていたほどです」
「おまえは素直だな。自分に正直な者ほど伸びしろが大きい」
「和弘さんはどうですか? 怖くはないのですか?」
「おれか? おまえと同じだよ。怖くてしかたない」
「とても信じられません。まったく動じていないように見えます」
豪胆な男性は軽く笑った。
「そんなことはないさ。そう見せかけているだけだ」
突然、フェンスががしゃんという大きな音を立てた。
群衆から恐怖の声があがり、人垣が数歩後退する。
わたしたちと警備員ふたりだけがその場に取り残された。
妖魔が電気柵に衝突し、阻まれたようだ。
化け物がゆっくりと後じさりした。
充分に距離を取ったと判断したのか、湾曲した脚をたわめ、こちらに向かって跳躍する。
背後でわき起こる悲鳴を聞きながら、思わず首をすくめた。
再びフェンスに激突する音が鳴り響き、巨大な身体が弾かれる。
地面に降りたった妖魔の口にある顎脚が左右に開いた。そこからオウムの雄叫びのような声を響き渡らせる。
数人の女性が耳をふさぎ、その場にしゃがみこんだ。
ほかの人々は蛇に睨まれたカエルのように凍りつき、恐ろしい化け物に目を奪われている。
「フェンスはもちそうだな」
和弘さんは呟くと、わたしに声をかける。
「おれは先に戻っている。おまえも、もう戻れ」
わたしが返事をする間もなく背を向け、ゆっくりと歩み去っていった。
和弘さんがいなくなると、冬山で身体を守ってくれるコートを外されたような気分になる。
外を見ると、あきらめたらしい妖魔が森のなかに戻っていくところだった。
わたしも帰ろう。
ほっと息を吐き出し、自分の部屋に向かおうとしたとき、耳もとで不快な声がした。
「なあ、あんた、アレグロとかいうやつと話してなかったか?」
新入りの男だ。
この男は妖魔より、和弘さんのことが気になるのか。
いらいらしながら顔を向ける。
そんなわたしの気分を新たな声が救った。
「赤リボン殿!」
少し先のほうで神官が手を上げている。
レイダさまとの面会の時間になったようだ。
ようやく、この男から解放される。
「すみません、少しお待ちください!」
わたしはほっとしながら返事をした。
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