第5話 スプライト2

「何だっていうんだ! こんなちっぽけなやつらが!」

 新入りが左腕を押さえ、痛みに顔を歪めながら罵る。


 ほかの新顔たちが、恐れるようにスプライトの塊から身を遠ざけようとした。


「余分な動きをするな!」

 リーダーの制止の声。


 命令を無視してひとりが走りはじめる。

 あのショートカットの女性だ。


 動きを察知したスプライトが、蜂のように女性を追いかける。

 瞬く間に揺れ動く緑の花粉に包まれ、足を止めた。

 スプレーガンを手にしたまま、両腕で顔を守るように動かす。


 緑色の花粉のなかでしばらくもがいていたが、突然ぴたりと静止する。

 目を見開き、虚空の一点を見つめた。

 小さな悲鳴をあげはじめる。

 悲鳴は段々と大きくなっていった。


「いや! 来ないで、来ないで!」


 何かを防ぐように左手を顔の前に上げ、いやいやをするように首を振る。


 女性の視線の先には何もなかった。


 まわりの人間は怯えたように見守っている。


「どうなってるんです!」

 壁に張りついたままの黒縁メガネが叫んだ。


「幻覚だ! スプライトを攻撃しなければおさまる!」


「いやあ!」

 半狂乱になったショートカットが右手のスプレーガンを掲げる。


「よせ!」

 青シャツさんの声。


「美紗紀、ここにいろ!」

 言い置いて和弘さんが飛びだす。


 女性が引き金を引いた。


 溶剤が勢いよく噴射され、スプライトの群れを突き抜ける。レザージャケットの男性の顔に吹きかかった。


 男が顔を押さえ、悲鳴をあげる。

「おれの目が!」


 正気を失っている女は、立て続けに引き金を引く。


 タンパク質を溶かす危険な溶液がシャワーのように噴出した。


 痛みに苦しんでいる男の上に、さらに水酸化ナトリウムがかかる。

 男は苦痛から逃れようと、わめきながら床を転げまわった。


 周囲の者が声をあげて女性から身を引く。

 女と男性が取り残された。

 新入りは片隅で座りこみ、腕を押さえている。


 幻覚にとらわれた女性は悲鳴をあげ、引き金を引き続けた。

 浮遊する緑の群体にもかかり、一部が力なく落下する。


 タイミングを測っていた和弘さんは、動きが止まった瞬間に飛びこんだ。

 狂気の女に正面から体当たりする。


 女が野獣のような声をあげた。

 構わず、勢いのまま壁に向かって押しやる。

 スプレーガンを握る手を左でつかみ、右手は喉輪にして壁面に叩きつけた。


「何をする!」


 逆上した黒縁メガネが駆け寄ろうとする。

 青シャツさんがすばやく身体を割りこませ、相手の顎にフックを見舞った。

 まともにパンチを食らった黒縁は崩れ落ちる。


「ばかやろう! おまえの女を押さえなければ人が死ぬんだ!」

 青シャツさんが怒鳴りつける。


 空間がぐにゃりと歪んだ。

 わたしはこめかみに指先をあてる。

 さっきと同じだ。

 スプライトに視線を走らせた。

 微小生命体が凝縮と拡散を繰り返している。緑の色が濃くなったり薄くなったりした。


 何かが起こる!


「和弘さん、逃げて!」


 わたしの声に身を放した。

 壁を蹴り、反転しながら床に向かってダイブする。


 女の身体から巨大な火柱が立った。持っていた噴霧器のボトルが爆発し、あたりに炎を飛び散らせる。

 全身から炎を吹きあげたショートカットは、悲鳴をあげながら倒れこんだ。

 火はすぐに止み、あとにはくすぶる黒い炭だけが残った。


 わたしは急いで和弘さんのもとに駆け寄り、ひざまずく。


「怪我はありませんか!」


 自分が涙ぐんでいるのがわかったが、止められなかった。

 涙が頬を伝い、顎まで達している。


「大丈夫だ、何ともない」


 身を起こした和弘さんが、わたしのありさまに気づいた。


「どうした。何を泣いている」


 わたしは頬をぬぐう。

「泣いてなんかいません」


「そうか、そうだな」

 和弘さんはやさしく言う。

「心配をかけてすまなかった」


 こらえきれず、その胸に飛びこんだ。

 和弘さんの腕が背中にまわる。

 抱きしめられながら声をあげて泣きじゃくった。


 しばらくそうしていたが、やがてそっと声をかけられる。

「もう泣くな」


「はい」


 わたしは顔を上げた。

 やさしい顔とその向こう側にいる男たちの後ろ姿が見える。

 涙でぼやける視界に、負傷者を取り巻く人たちの姿が映っていた。


 スプライトはどこかに消えている。


「おまえ!」

 だれかが大声をあげた。


 その場の目が一斉に向く。


 黒縁だ。立ちあがり、両手でつくった握りこぶしを震わせている。

 恨みのこもった目で和弘さんを睨みつけた。


「おまえが殺したんだぞ! おまえが彼女を押さえつけなければ、あの小さな化け物にはやられなかった!」


 わたしはかっとなった。

 和弘さんはみんなのために、危険を承知で飛びこんだのに!

 つかつかと歩み寄り、力いっぱい頬を張る。

 ホールに鳴り響く音に、みんな一様に驚いた顔を見せる。


「人のせいにするのはよしなさい! あなたの恋人はね、自分自身のせいで命を落としたのよ!」


「何だと!」

 いきりたった顔で詰め寄られるが、怒りのあまり、少しも恐怖を感じない。


「あなたがたは、青シャツさんの警告を聞いていなかったの! 余計な動きをしないようにとも、刺激を与えるなとも言ったわ。それを無視して走ろうとしたのは、あなたの恋人よ! 彼女はみずからの行為で死を招いたの!」


 黒縁がわめいた。

「おれたちはスプライトなんて見たこともなかったんだ! しかたないだろう!」


「塹壕でも言われたわよね、あなたたちは今まで幸運なだけだったって。一体なにを聞いていたの! 青シャツさんの言ったことを真剣に聞いていれば、もっと慎重になっていたはずよ! ここはピクニックの場じゃないわ!」


 黒縁の男は押し黙った。燃えあがるような目でわたしを睨みつけている。


 わたしたちはしばらく睨みあった。


 だれかにやさしく肩を叩かれた。

 見なくてもわかる。


「美紗紀、放っておけ。扉が開いたぞ」


 和弘さんが肩に手をまわしてきた。

 わたしはこの世で一番信頼する人の身体にもたれかかった。


 ふたりして動きはじめた隊列の最後尾につく。

 負傷したレザージャケットの男性は、身体の大きな人に背負われていた。新入りは腕を押さえながら歩いている。


 扉の横に青シャツさんの姿があった。

 全員が入るのを見届けている。


 そばを通るとき、にやにや笑いとからかいの声が飛んできた。

「赤リボン、胸のすくような啖呵たんかだったぞ」


 わたしは顔を赤らめた。

「すみません。つい、感情的になっちゃいました」


「おれは良いと思ったぞ。そうだろう、アレグロ?」


「おれたちでは、あんな弁は立たないからな」

 和弘さんは唸るように言う。


 青シャツさんが明るく笑った。

「胸のうちを代弁してくれたな」


 顔から火が出るほど恥ずかしい。


「和弘さんも、青シャツさんも意地悪です」

 弱々しく抗議する。


 ふたりが笑ったとき、奥から呼び声がかかった。


「青シャツ、来てくれ」


 リーダーが先に立って声のするほうへ向かう。

 和弘さんとわたしはそのあとに従った。


 わたしたちのいる一階のフロアはスポーツ関係の商品を扱っている。その一角にレザージャケットの男性が寝かされていた。

 フィットネスのコーナーだ。スポーツマットを積み重ね、ベッド代わりにしている。


 周囲には負傷者を見守る仲間がいた。みな古参のメンバーだ。

 新顔の住人は離れた場所で、新入りと一緒にいる。


 青シャツさんは古参の一団に歩み寄った。


 怪我人に屈みこんでいるひとりが目をあげる。

「溶液を浴びた皮膚や目は可能なかぎり水で洗い流した。あとは鎮痛剤が必要だ」


 彼の周囲には大量のペットボトルが並べてあった。売り場に陳列されていたものだろう。


 青シャツさんは、わたしたちを振り返る。

「頼めるか?」


「もちろん」

 和弘さんは短く応ずる。


「できればトランシーバーもほしい。二チームに分けたいんだ」


「そっちも引き受けた」


 相棒はわたしに目を向けた。

「美紗紀、行くぞ」


 当然のように言ってくれるのが嬉しい。


「はい!」

 わたしは勇んで返事をした。

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