第4話 スプライト1

 

 ショッピングモールは巨大な複合施設だった。

 広大な敷地内にさまざまな建物が立ち並び、公園やスポーツ施設なども併設されている。


 わたしと和弘さんの前に居並んでいるのは、先に塹壕から出た回収班の仲間だ。全員が一様に中身のない、ひしゃげたリュックを背負っているのが滑稽だった。

 みな微動だにせず立ち尽くし、駐車場の先を見ている。


 わたしたちはその視線を追い――同じように立ちすくんだ。


「何なの、これは……」

 背後で女性のつぶやく声がする。塹壕から出たばかりのショートカットだ。


 わたしたちのすぐ前には無人の駐車場が広がり、主のいない車が放置されていた。


 その先にそびえるのはモール最大の建物だ。

 照りつける太陽のもと、威容を見せる十階建てのショッピングビル。


 ――そのビルがねじれていた。


 まるで粘土細工のように上方が曲がり、歪んでいる。地面に向かって九十度に折れている箇所もあった。


 どうしてこれだけの応力がかかっているのに崩壊しないのだろう。


「空間が……歪んでいる」

 わたしの疑問に答えるかのように、先ほどの女性が声を漏らした。


 和弘さんが視線を向ける。

「あの歪んだところに入ったらどうなる?」


 ショートカットは身震いした。

「わかりません。どこかほかの場所につながってしまうのか、あるいは自分の背中を見るはめになるのかもしれません。折れ曲がったように見えるのは、見せかけです」


 青シャツさんが応ずる。

「上階には行かないほうが賢明だな」


 身体の変調を感じた。

 おかしい。

 わたしたちの右手、駐車場の奥だ。そこだけ空間が渦を巻くような感覚を覚える。

 神殿のときと同じだ。


「美紗紀、どうした?」


 和弘さんの声が遠くから聞こえる。右方の失調感に気持ちが引きずられ、集中できない。


「和弘さん……」

 わたしは力なくもたれかかる。


「美紗紀!」

 和弘さんの焦ったような声。


「妖魔だ!」

 だれかが叫んだ。


 ぼんやりした目を向ける。


 駐車場の先から長い腕をした妖魔が、目にも止まらぬスピードで駆け寄ってくる。くすんだ茶とグレーの入り混じった身体が、みるみるうちに大きくなる。


「建物のなかに逃げこめ!」

 青シャツさんのかけ声で一斉に走りだした。


「美紗紀、しっかりしろ!」

 和弘さんがわたしを抱えながら走る。


「和弘さん、置いて行って……」

 力なく訴えるが、わたしの相棒は答えない。いっそうの力をこめて走る。


 建物の前までたどり着いた。


 先に到着した数人が、ガラスの自動扉の隙間に手を差しこみ、左右から引っ張っていた。


 鈍い摩擦音をたてて扉が広がる。


「開いたぞ!」


 待ちかねていた人々が、どっと流れこむ。


 わたしはちらりと背後を振り返った。


 妖魔がまっすぐ突進してくる。

 進路上にあった車に激突した。

 金属がへこむ音してボンネットが破壊される。勢いよく車が弾かれ、半回転して隣の車に衝突した。


「なかに入るぞ!」

 和弘さんに抱えられながら扉を抜ける。


 もつれる脚を必死に踏んばる。切れぎれの思考を懸命にかき集め、この先のレイアウトを思い描く。

 入ってすぐは細長いホールになっており、右側に五基のエレベーターが並んでいるはず。

 エレベーターは使えない。まっすぐホールを抜けて――


「だめだ! 防火扉が下りている!」

 前方で絶望の叫びがあがった。


 天井から下りた金属のシャッターが行く手を阻んでいた。


 男性がシャッター横のボックス内にある赤いボタンを何度も叩いている。


 和弘さんがわたしを抱えながら怒鳴った。

「そんなことをしても無駄だ、電気は通じていない! 反対側の壁に手動の巻上げ機があるはずだ!」


 ひとりが飛びついてハンドルを回す。

 頑丈なシャッターが少しずつ上がっていく。


 わたしの目の前にいるショートカットの女性が後ろに視線を送った。


「もう間に合いません!」

 悲鳴があがる。


 妖魔がガラス扉を走り抜けたところだった。

 口もとにある蟹の脚のような六本の顎脚がうごめいている。赤い瞳をこちらに向け、光らせる。


 わたしたちは口ぐちに叫び声をあげた。


 武器を手にしていることも忘れ、必死で壁に背中を押しつける。そうすれば建物のなかに潜りこめるとでもいうように。


 わたしの視界が影で覆われた。

 和弘さんが身体でかばっている!


「和弘さん、嫌です!」

 わたしは絶叫した。


 和弘さんは動かない。


 ぶあつい胸板を叩くが、びくともしなかった。

 無言でわたしを抱きしめ、盾になる。


 泣きながらもがいた。

「お願い!」


 肩越しに迫り来る妖魔の姿が映る。

 和弘さんの背中に向かってまっすぐ走ってきた。

 化け物が膝を折りたたみ、跳躍する。


 もう、だめだ!


 妖魔の身体が空中でかき消えた。


「えっ?」

 思わず声をあげる。


 たった今まで妖魔が存在していた空間に、薄い緑色をした花粉のようなものが舞っていた。まるで緑茶の粉をばらまいたかのようだ。

 緑の色味が鮮やかに空中を彩る。

 かすかに光っている様子さえ見てとれた。


「和弘さん」

 震える声で名を呼ぶ。


 命を捨てて守ろうとしてくれた男性が、ゆっくりと顔をあげた。

 瞳に戸惑いの色が浮かんでいる。


「妖魔が……来ないな」

 覚悟していた死が訪れなかったことに気が抜けたのか、ぼんやりとした口調だった。


 わたしは震える手を伸ばし、薄緑の花粉を指差した。

「見てください」


 和弘さんが半身を後ろにねじる。

「スプライトか」


「はい」


 顔を戻すが、わたしを抱きしめたまま離れない。

「まだ油断はできないぞ」


「わかっています」

 広い胸のなかでくぐもった返事をする。


 スプライトはゆっくり広がり、わたしたちに向かって漂ってきた。


「何なんだ、あれは? 妖魔じゃないのか?」


 防火扉の前で新顔のひとりが緑色に光る花粉を見つめている。

 彼らのまわりにもスプライトが漂っていた。


「スプライトだ。動くなよ」


 青シャツさんは壁にへばりついた姿勢のまま動かない。

 視線だけを動かし、薄緑色の花粉の行方を追っている。


 スプライトがわたしたちの顔のあたりに達した。

 視界が緑の花粉に包まれる。


「スプライトって何だ?」

 さっき質問した男が言った。

 彼らのところには、まだ舞っていない。


「微小生命体だ。普段はおとなしい。何もしなければな」

 緑の花粉を見つめる青シャツさんの身体が緊張で強張っている。


 スプライトがわたしの鼻や耳のなかに入ってきた。


「我慢しろよ」

 頭上から和弘さんの声が降る。


「はい」


 鼻の奥にまで入りこんだ生物が、喉を通り抜け、身体の内部に広がっているのが感じられる。


 青シャツさんも全身を緑の生命体に包まれているが、微動だにしない。


 古参メンバーは緊張して動きを止めている。

 新顔たちは戸惑い顔だった。


 新入りが近づくスプライトに向かって、一歩踏みだす。


「おれたちは、こんなちっぽけなホタルに怯えていたってのかよ!」


 青シャツさんがあわてた。

「待て! 刺激するな!」


 聞く耳を持たない新入りは緑の花粉のなかで鉄槍を振りまわす。


 空気が破裂する音がした。


 新入りが武器を落とし、絶叫する。


 右手で反対の腕を押さえていた。

 左腕が血まみれだった。無数の細かい穴が空き、真っ赤な血が流れ落ちている。

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