第2話 採取班の災禍2
頭のなかが恐怖で塗りつぶされた。
わたしは梯子の上で震えながらも観察を続ける。
妖魔の全身はくすんだ茶とグレーが入り混じった色だ。おそらく、樹木の色と同化するためだろう。
身体は細長く体毛はない。そのかわり、硬そうな甲殻で覆われている。
長い腕が二本、湾曲した脚が二本。
人間と同じだが、腕の先は長い三本の尖った指に続いている。
背中は、骨に沿って細くて長い繊毛のようなものが生えている。感覚器官なのだろうか、一つひとつがクラゲの触手のようにゆらゆらと揺れていた。
妖魔は身動きもせず、赤い目をわたしに据えている。口もとを保護するための
化け物の目が梯子に移った。
たしかめるように、三本の指をゆっくりと曲げ伸ばししている。
上るつもりだ!
妖魔が駆け寄るより早く、力を入れて木にしがみつき、足もとのステップを蹴とばす。
傾斜のある地面に置かれただけの梯子は難なく倒れ、がちゃんと音をたてて地面に転がった。
だが、わたしの体勢も頼りない。右のスニーカーのつま先をくぼみに突っこみ、両腕を幹にまわしているが、太すぎてつかみきれていない。
左足をさぐって足場をさがす。
引っかける適当な場所が見つからない。
しかたなく靴底を木の表面に当て、なんとか体勢を保とうとする。
樹皮がはがれ、ずるっと滑った。
あっと思ったときには手遅れだった。
身体が幹から離れ、両手が何もない空間をつかむ。
背中から真っ逆さまに落下する。生い繁った葉群れと青い空が視界に映った。
空中で一回転し、お腹を嫌というほど硬い何かにぶつける。ぐっと息が詰まり、激しい痛みに涙が出た。
だが、落下は止まってくれた。
うめきながら両手をついて上半身を起こす。
まだ樹上だった。運よく太い横枝の上に落ちたのだ。
顔に垂れてきた髪を払いのける。命を救ってくれた横枝に感謝しながら、腹ばいになって地上の様子をうかがう。
妖魔は木の根もとでこちらを見あげていた。
さすがに木のぼりが可能なほどの器用さはないようだった。
命は少し延びた。
だが、下りて逃げることはできない。
進退きわまった。
我慢くらべはわたしのほうが不利だ。食べものも飲み水もない。
もっと怖いのは眠気だ。いまはアドレナリンが身体をかけめぐっているので問題ないが、いずれ反動がやってくる。
まともに動けるうちに、事態を打開しなければならないが、その方法が思い浮かばない。
わたしは唇を噛んだ。
どうしたらいいだろう。
必死で考えをめぐらせていると、下生えを踏む音がした。脚を引きずっているような音だ。
妖魔がぴくりと動き、顔を振り向ける。
樹木の間から人が出てきた。
わたしの班の男性だ。梯子を支えてくれた人。
木の幹に片手をついて、よろけるようにして歩いてくる。
額から流れでた血が目に入り、よく見えないようだ。しきりに目をこすっている。
梯子の人が立ち止まった。何度もまばたきしたあと、ゆっくりとあたりを見まわし――
妖魔に目を止めた。
男性の顔色が変わる。
「ああ、くそ。一周まわって戻って来ちまった!」
きびすを返して走りだした。
濁った甲高い声をあげる妖魔は、あとを追いはじめる。わめき声をあげ、死にものぐるいで走る男性のすぐ後ろを、なぶるかのように追走する。
化け物の関心が新たな獲物に向いた今が逃げるチャンスだ。
枝の上で中腰になり、地面を見下ろす。
二メートルはある。飛び下りれば、怪我はまぬかれないだろう。動けなくなって、あいつが戻ってくるのを待つだけになるかもしれない。
だが、このままとどまっても先はない。
どうせ死ぬのなら!
意を決してジャンプしようとした瞬間、深みのある声が響いた。
「待て!」
驚きのあまり、バランスを崩す。つんのめって落ちそうになり、危ういところで踏みとどまった。
息を整え、声のするほうに目を向ける。
丈の高い茂みをかきわけて男の人が姿を見せた。三十歳くらい。短い髪、引き締まった、無駄な肉のなさそうな身体つき。
さっき集まった八人のうちのひとりだ。
アレグロと呼ばれている。もちろん本名ではない。
コロニー内で幾度か顔をあわせたことはあるが、言葉を交わしたのはこれがはじめてだった。
逃げなかったのか。
「無茶をするな。死んでしまうぞ」
言いながら、わたしのいる木の根もとまで歩み寄った。
倒れていた梯子を立てかける。
近くにあった麻袋の口留め用のロープを外し、木の幹にまわしたあと、両端をそれぞれ梯子の左右の支柱に結えつけた。
次いで、支柱を握って数回動かし、ぐらつかないことを確認してから、顔をあげる。
「これでいいだろう。ひとりで下りられるな」
「はい、ありがとうございます」
お礼を言ってから、急ぎつつも慎重に足を踏み下ろしていく。
自分の身体の脇から地上の様子が見えた。
アレグロさんは地面に転がっているクロスボウや鉄槍を拾いあげている。
「妖魔と戦うつもりですか?」
たくましい男性は小さく笑った。
「まさか。あっという間に殺されるのがおちだ」
矢筒を背負い、クロスボウと尖った鉄パイプを手に持ち、梯子を下りているわたしに視線を投げる。
「コロニーの方向はわかるな」
わたしはあわてた。ひとりでは心細い。
「一緒に逃げないんですか?」
「甘えるな、赤リボン。長生きしたいなら、ひとりで生き延びるすべを身につけろ」
言い放ち、走っていく。
わたしは茫然と後ろ姿を見送るが、すぐにわれに返る。
すぐにもあいつが戻ってくる。こんなことをしている暇はない。
急いで駆けだした。
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