妖魔の地、魔女の言葉、女神の魔法

北島宏海

第1章 女神のいるコロニー

第1話 採取班の災禍1

 梯子はしごの最上段は不安定だった。

 足もとがぐらつくが、左手を太い幹にまわして右手を伸ばす。


 赤い果実は避ける。りんごそっくりに見えるが危険なやつだ。大量に血を吐き、苦しみながら命を落としていった仲間を何人も目にしている。


 世界変異前に持っていた常識は役に立たないのだ。

 赤りんごを無視し、その隣の毒々しい色をした紫の果実をつかみとる。


 二メートル以上下の地面では、梯子を支える補助の男性がひとり、こちらを見守っている。隣には、収穫品を回収する麻袋を置いて待ち受ける女性。

 男性は二十代後半。女性は二十歳、世界変異が起こる前は社会人と大学生だったという。


 三人のなかでは、もっとも年少で体重の軽いわたしが梯子に乗り、もぎり役を担っている。


「落とします」


 手のひらを開き、慎重に果実を落下させる。続いて腰に下げた袋から同じものを取りだして落とす。

 地上で仲間がキャッチするのを確認し、再び視線を上に向けた。朝の光が目を刺す。


 食用果実はまだたくさんなっていた。この森では、栄養価の高い果実の木は少ない。取れるうちにできるだけ採取しておいたほうがよい。


 わたしは同じ枝から下がっている赤と紫のふたつの実をあらためて見た。

 外観も色もまったく違う。赤はりんごそっくりの形状で、表面はつるつるとしている。小ぶりの紫は、細かいうぶ毛が生えている。


 同じ木に別種の実がなるのは、以前とはまったく違う感覚だ。ここが日本とは到底思えない。

 あれから一年半も経つが、いまだに慣れないでいる。こんな状態のまま、これからも生きていくのだろうか。


 頭を振ってつまらぬ思考を振り払う。

 そんなことを考えてもしかたない。どう望んでも以前の世界には戻れないのだ。

 目の前の作業に集中しよう。


 紫の果実めがけ、再び右手を伸ばす。

 あと少しのところで届かない。

 一旦大ぶりの枝まで退避し、梯子を動かしてもらおう。

 下に声をかけようとしたとき、ざくざくと葉を踏んで駆け寄る音が聞こえた。

 地上のふたりがさっと目を向ける。


 見張り役の男性だった。クロスボウを手にしている。

 わたしの顔から血の気が引いた。

 ふたりの表情もこわばる。

 補助の男性は梯子を支えながら、新参の男に声をかけた。


「来たのか?」


 クロスボウを手にした見張り役は、緊張した顔になっている。

「近づいている音が聞こえた」


「近づいているって……」


 震える女性の声を梯子の男がさえぎる。


「妖魔に決まっているだろう!」


「まさか、こんな近くで出るなんて。今までなかったのに……」

 受け入れられないのか、ひとりごとのようなつぶやきを漏らす。


「そんなこと言っている場合か!」


 梯子の男性は怒鳴りつけたあと、顔をあげてわたしのほうを見た。


「赤リボン、早く下りて来い!」


「はい……」

 自分の声も震えているのがわかった。


 梯子に両手をかけて降りようとしたときだった。オウムの雄叫びのような、甲高く濁った鳴き声が森を切り裂く。

 同時に男の絶叫する声が響いた。


「くそ、やられた!」

 見張りがうわずった声になる。クロスボウが震えていた。


 わたしは急いで降りようとするが、震えて脚もとがおぼつかない。

 再びあがる別の悲鳴。今度は女性だ。

 甲高い悲鳴は切れぎれに続き、突然やむ。


 支えていることなど忘れたかのように男性が手を放す。足もとがぐらりと揺れ、あわてて木の幹にしがみついた。


 見張りが叫ぶ。

「三班だ! あいつに一番近いところにいた!」


 わたしたちの班の女性が半泣きになった。

「だから首長には、見張りの人数を増やしてほしいと言ったのに。銃を扱える人もつけてくれって頼んだのに。クロスボウ二挺なんかじゃ足りないって……」


「あいつがおれたちの命を気にしてくれるもんか!」

 梯子の男性が八つ当たり気味に言う。

 次いで、足もとに置いてあった鉄パイプを拾いあげた。先端を斜めに切断し、槍のようにして殺傷力を高めている。


「どっちに逃げればいい?」


 見張りの男性が指さす。

「東だ! こっちなら風下になる。コロニーへは遠まわりになるが、しかたない」


 そのとき、近くの茂みががさがさと鳴った。

 わたしは思わず幹にしがみつく。

 女性が小さな悲鳴をあげ、弾かれたように駆けだした。


「待て、ばらばらに動くとやられる!」


 女性の耳には届いていないようだった。あっという間に樹間に消える。


 見張り役はクロスボウを構えている。


 下生えをかきわけて出てきたのは仲間だった。息を切らしている。

 男性が四人、女性がふたり。ひとりは三十歳くらい、ほかは二十歳を少し過ぎた年齢だ。

 二班と三班だった。男性のほうは、みんな鉄槍を握っている。


 見張りが飛び道具を構えたままたずねる。

「化け物はどこへ行った!」


「わからない。後ろから追いかけてくるのがわかったけれど、気づいたら気配が消えていたの」

 身を震わせながら三班の生き残りが答える。


 悲鳴があがった。

 さっき逃げたばかりの女性だ。


「近いぞ!」


 男たちが武器を構え、きょろきょろとあたりを見まわす。


 わたしは幹に両手をまわしたまま震えている。足場が悪く、これ以上下りるのは無理だ。


 地上の八人は、わたしのことなど頭のなかから消えているようだった。目を血走らせ、浅い呼吸を繰り返している。


 大樹の陰から、くすんだ茶とグレーの入り混じった人影が飛びだした。人間の大人よりひとまわりも大きい。


 警告の声をあげる間もなかった。

 仲間の男性が側面から飛びかかられた。

 自分よりも重い相手の直撃を受けた男性が草むらに倒れこむ。妖魔の長い腕が一度ひらめき、鋭く尖った指先が胸をえぐるのがわかった。


 茶とグレーに彩られた化け物が跳躍して樹間に姿を隠す。

 遅れてクロスボウの矢がひらめくが、薄暗がりのなかに吸いこまれただけだった。


 男性はぴくりとも動かない。


 仲間のひとりがかすれた声をだす。

「一撃だ。一撃でやられた……」


「逃げるぞ!」

 ひとりが妖魔の消えた方角と反対方向に駆けだした。


 それを契機に残りの五人が走りだす。みんな逃走の邪魔になる武器を投げ捨てていた。


 女性がわたしの乗っている梯子をかすめる。ぐらりと揺れ、思わず悲鳴が漏れた。


 蒼白な顔の女性は一瞬顔をあげ、わたしに視線を向ける。何も言わずに顔を戻し、仲間のあとを追いかけていく。


 わたしは急いで地上に下りることにする。

 片足をかけ、支える者のいなくなった梯子が倒れないよう注意しながら、手の位置を下げる。


 みんなの逃げた方角から叫び声があがった。男性だ。


 続いて女性のすすり泣く声。

「やめて、やめて!」

 ひときわ大きな悲鳴があがり、すぐに消えた。


 早く降りないと!


 地上で甲高い音がした。

 自動車のエンジンのベルトが摩耗したときに起こるような、キュルキュルという不快な音だ。


 梯子につかまりながら首をねじり、その正体を確認する。


 妖魔だった。


 湾曲した脚を曲げ、長い腕をだらりと垂らしている。顔をあげ、巨大な赤い目をこちらに向けていた。


 わたしは不安定な姿勢でぴたりと止まる。妖魔の悪夢のような顔から目が離せなかった。


 化け物の尖った耳の下、左右の顎のつけ根から、三本ずつ計六本の蟹の脚のようなものが中央に向かって伸びている。顎脚がっきゃくだ。

 関節を有するその顎脚は、口のあたりを覆いながら、本物の蟹の脚のように動いていた。

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