第五十九話
野上は顔面蒼白になった。だが何とか言い訳をした。
「ああ、そうだったね、ごめんごめん。今朝、出社する時、急いじゃって。どうやって付けたのか僕もよく憶えていないんだけど。とにかく、ごめん」
夕夏の表情が曇った。
「何を言っているの、あなた。排泄物が塗られていたのは昨日よ」
「ああ、そうだったね。昨日だったね、ごめんごめん。昨日は残業をしてきて疲れていたからなあ……」
「あなた……。排泄物が塗られていたのは、昨日の朝だったんだけど……」
野上は苦しい言い訳を続けた。
「ああ、そうだったね。さっきも言った通り今度、課長になるだろ。その準備で忙しくてさあ。色々と思い違いをしていたんだよ」と右の耳をかいた。
夕夏は野上の目を真っすぐに見つめて聞いた。
「あなた、何か隠しているわね……。言って、本当のことを……」
「何を言っているんだ、そんなことないよ。隠し事なんてないよ」と再び右の耳をかいた。
夕夏は、ため息をついた後に聞いた。
「あなたは気づいていないかも知れないけど、あなたは噓をついて動揺すると必ず右の耳をかくの。必ず」
「え?」と野上は、また右の耳をかいた。それに気づいた野上は、うつむいてしまった。
夕夏は優しく聞いた。
「ひょっとして、あの排泄物を塗ったのは私なの?」
「そんな、まさか!」と、野上の右手は右の耳に向かった。そしてそれに気づいた野上は、左手で右腕をつかみ無理やり右手を止めた。
夕夏は再び聞いた。
「教えて、あなた。これは大事なことなの」
夕夏の真っすぐな視線に耐え切れず、野上は答えた。
「そうだ、排泄物を塗ったのは君だ……」
「私は、いつからそんなことを、するようになったの?」
「半年前からだ。病院へ行ったら若年性アルツハイマー型認知症だと診断された……」
夕夏は信じられない、という表情で聞いた。
「認知症? 私が?」
「そうだ。病気のせいで君は病気になったことすら、理解できないんだ。たまに今日のように調子が良い時もあるけど……」
「そう、ありがとう、本当のことを言ってくれて。私は、あなたのそんな優しいところが大好きなの」
だが野上は何も答えることは出来なかった。診察を受けてから夕夏の症状は日に日に悪化した。夜中にマンションの周りを徘徊し、『不審者がいる!』と通報されて警察の世話になったことも一度や二度ではなかった。
しかし一番つらかったのは、トイレの中が排泄物で汚されることだった。あんなに美しくて野上の自慢の妻だった夕夏が、あんなことをするだなんて……。
だが野上はそんな時もトイレの掃除をして、夕夏の面倒を見ていた。しかし一昨日は課長に昇進する話が出てきているので、つい仕事をし過ぎて疲れてしまい、すべての排泄物を掃除することが出来なかった。
憔悴しきった野上を見て、夕夏は告げた。
「あなた、私を殺して」
「え?」と野上は夕夏を見つめた。
「私はあなたに、あんな負担はかけたくないの。あんな負担をかけるくらいなら、死んだほうがまし」
野上は、夕夏の目を真っすぐに見つめて告げた。
「よく聞いてくれ、夕夏。僕は君を愛している、心から。だから君の世話をすることを負担だなんて思っていない、本当だ!」
「ありがとう」と答えた後、夕夏は告げた。
「でも、これは私の問題なの。あなたはもうすぐ課長になる。そしたら会社で今まで以上に活躍すると思うわ。それなのに私の世話をすることで、あなたに負担をかけたくないの」
野上の声がつい、大きくなった。
「だから言っているだろう! 負担だなんて思っていないって!」
夕夏の目から涙があふれ出した。そして訴えた。
「私、自分が信じられないの! トイレの壁に排泄物を塗るだなんて! こんな私は私じゃない! ねえ、殺して、私を。私がまだ私でいる間に!」
その言葉を聞いて野上は夕夏を抱きしめた、強く。それが答えだった。それが分かったから夕夏は答えた。
「ありがとう、あなた。やっぱりあなたは優しい人だわ」
だが野上は告げた。
「でも、ちょっと待ってくれ。そうだな、二年くらい。君を殺しても僕が捕まらないようにするためには、ちょっと準備をしなくちゃいけないから。
君を殺して僕が捕まったら意味がない。君の葬式で喪主を務められないし、仏壇に毎朝、君が好きな緑茶を供えることも出来ないし」
夕夏は素直に喜んだ。
「ありがとう。毎朝、仏壇に私の好きな緑茶を供えてくれるの? 嬉しいわ、あなたが淹れてくれる緑茶は美味しいから」
野上は毎日、朝食に緑茶を淹れた。夕夏はそれを毎日、美味しく飲んでいた。
「約束するよ。毎朝、供える。だから二年、待ってくれ」
「分かったわ、待ってる。あなたが私を殺してくれるのを」
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