第六十話
次の日、野上はモーター設計課の課長に辞表を提出した。当然のごとく止められた。
「ちょっと会議室へこい」と二人は会議室へ入った。
課長は熱心に野上を止めた。
「何を考えているんだ、野上? お前は、もうすぐ課長になるんだぞ!」
「申し訳ありません、課長。一身上の都合により退社させていただきます」
「一身上の都合って一体、何だ?」
「申し訳ありませんが言えません」
課長は更に止めた。
「なあ、野上。確かに、この会社は大企業とは言えない。だが俺は思う。この会社は、これからもっと成長すると。それにお前もだ。お前は課長で終わる男じゃないと思う。
部長、いやもっと上まで出世できるかも知れないんだぞ?!」
「申し訳ありませんが、課長。世の中には出世よりも大事なことがあるんです」
「何だ? それは?」
「はい、愛する家族と過ごす時間です」
課長は、少し沈黙した後に告げた。
「なるほど……。分かった……。なら一つ言わせてくれ」
「はい」
「これからは愛する家族と過ごす時間を、何よりも大切にしろ。この会社を辞めたことを後悔しないように」
野上は課長に、深く頭を下げた。
「はい、ありがとうございます」
それから野上は、野上ホテルを作るために全力を注いだ。
折り紙の塔の折り紙、回転するホテル。野上ホテルは、すべてが夕夏を自殺に見せかけて殺すために作られたホテルだった。
そして一昨日の午後十時半。野上はホテルから突き出た天空廊下を通って、折り紙の塔へ渡った。暗くなった午後七時から二時間かけて、宿泊客と従業員たちに気づかれないように、ゆっくりとホテルを百八十度、回転させていた。
夕方のニュースでは、夜に雨が降るという予想だった。そこで自分の部屋の奥のタンスの奥にあるコントロールパネルを操作して、ホテルを百八十度、回転させた。雨が降れば地面がぬかるんで、歩けば足跡が付くことになる。もし足跡がなければ誰も折り紙の塔へは行っていないということになる。
もし雨が降らなければ、また別の日に行動しようと考えていた。だが雨は降った。
今日やることは、いつもとは違う。そのため、変なところに指紋を残さないように皮手袋をした。夕夏の部屋に入ると、夕夏がまだ起きていたので野上は少しほっとした。もし寝ていたら殺すために起こさなければならないので、少し可哀そうだと思ったからだ。それに最後の話をしたかった。
夕夏は文庫本を読んでいた。読み終わると、それを忘れてまた最初から何度も読んだため本の表紙はボロボロになっていた。
その文庫本から視線を上げ、野上を見上げて夕夏は聞いた。
「あら、あなたはいつも私に食事を届けてくれる優しい人。今日はどうしたの? こんな夜遅くに」
「実は今日は、二年前に君と交わした約束を果たしにきたんだ」
「二年前? ごめんなさい。私ったら全然、憶えていないわ」
野上は告げた。
「いいんだ、それでも。僕は、ちゃんと憶えているから」
「そうなの? っていうか二年前の約束を果たしてくれるって、あなたは一体、誰なの?」
「今まで黙っていて、ごめん。実は僕は君の夫なんだ」
「え? 私の夫? ごめんなさい。私、全然、分からないわ」
野上は、すべてを包み込むような優しい目をして答えた。
「全然かまわないんだよ、それで」
「え? そうなの?」
「うん」と答え、野上はキッチンへ行った。そこでこの部屋の唯一の刃物、果物ナイフを手に取った。普通の包丁は危険なので、置いておかなかった。
夕夏が不思議そうな表情で聞いた。
「どうしたの、果物ナイフなんか持って? 今この部屋には果物なんか無いわよ」
「うん、実はこれは果物の皮をむくために用意したんじゃないんだ。確かに果物の皮をむいて君に果物を食べさせた時があったけど、本当の目的は違うんだ。君を殺すために、この時にために用意していたんだよ」
「え? 私を殺す? どうして?」
「それが二年前の約束だからだよ」と告げた後、野上は果物ナイフで夕夏の腹部を刺した。夕夏の腹部から血があふれ出てきた。
「い、痛い。どうしてあなたは私に、こんなひどいことをするの?」
「ごめん、夕夏。でもこれは本当の君との約束なんだ」
「本当の私?……」
野上は果物ナイフで夕夏を刺しながら、告げた。
「うん、ごめん。でも、もう少しで楽になるから。それまで寂しくないように、ずっとこうしているから」
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