14 徹の魂

 航は、耳の奥で、鈴の音が鳴っているのを感じていた。

その鈴の音は、初めは心地よいものだった。しかし、音が近づいくるにつれ、段々と耳障りな音に変わっていく。そして、その音が耳元で鳴り止んだ。その瞬間、目が覚める。


 熊鈴の持ち主は、中野だった。航が気を失って、眠りに落ちている間に、中野は戸隠高原エイドステーションに到着していた。

 目が覚めた航は、自分が置かれている状況を飲み込めなかった。

 なぜ毛布を被って寝ているのか?

 ここがどこなのか?

 今、自分は何をしているのか?

 ひとつひとつ、疑問が浮かび、その答えをまさぐっているうちに、記憶が蘇ってきた。

「まだレースは終わっていない」

 その事を悟った。

 航は身体に掛けられていた毛布を剥がして、立ち上がろうとした。

 次の瞬間、視界が歪んで見える。

 レースに復帰しなければ、という強い信念に突き動かされ、歩き出そうとしてみるが、身体にうまく力が伝わらない。

 それでも足をふらつかせながら、救護テントの外へ出てみた。

 すると、爽夏と諏訪、それに中野が立ち話をしている様子が目に飛び込んできた。 

 その輪へ加わろうとしたが、まっすぐに歩く事ができない。

「航、起きちゃ駄目、まだ寝ていて」

 航に気づいた爽夏が声を掛けた

「早くレースに復帰しなきゃ! 爽夏、ザックを出してくれ」

 掠れた声を絞りながら、航は爽夏の元へ歩み寄ろうとした

「その状態じゃ無理よ。ここで終わりにしよう。もう充分頑張ったわ……」

 母親が子どもを諭すように、爽夏は言った。

「いや、まだレースは終わってない。ここで終わらせるわけにはいかないよ」

「まっすぐ歩く事もできないのに、この先の山をどうやって越えると言うの。無理しないで。また次の機会に備えましょう」

 爽夏が説得しようとすると、航は思いつめたような目つきで爽夏を見つめた。

 そして静かに口を開く。

「次なんてないよ…… 三人で作り上げてきたスーパートレイルは、これっきりじゃないか。俺たちの思い出をこんな形で終わらせられない。最後の合宿で徹が倒れたのは、この戸隠高原なんだ。徹の時計は、ここで止まったままなんだよ。目の前の瑪瑙山を超えない限り、時計の針が動き出す事はないんだ。だから行くしかないだろ!」

 航の口調は、次第に熱を帯び、最後は爽夏の手を握りしめて、興奮気味に懇願していた。


 爽夏は困り果てた。航の気持ちは痛いほど分かる。

 行かせてあげたいのは、山々だ。しかし、この状態を無視して行かせるわけにはいかない。何とか、航の状態を回復させる事はできないものかと、思いを巡らせる。

 でもそんなものあるはずがない。

 ふと、中野へ視線を向けた。

 すると、中野は大会のオフィシャルエイドから、湯気が立ち上る容器を両手に持って、こちらへ歩いていた。

「あったかい物でも食って、元気出せ。食ったら行くぞ!」

 中野が持ってきたのは、ここのエイドの名物メニューになっている戸隠蕎麦だった。

「走ることに集中し過ぎて、食べる事を忘れたんだろ。航の症状はハンガーノックだ。食べる事ができれば何とかなる。100マイルって言うのは、走りの中に日常を溶け込ませなきゃ駄目なんだ。食べること、排泄すること、ときには眠ること。今までお前が走ってきたレースの様に、片手間で終わらせられるレースじゃねぇんだ!」


 中野の話を聞きながら、航は蕎麦を抱え込むようにして啜った。

 目眩に襲われたとき、食べ物はもう受け付けられないと思っていたのだが、そばつゆの香りに誘われたのか、中野の発した言葉に触発されたのか、不思議なほど食欲が湧いてきた。

 極限状態に陥ると、たったひとかけらの飴玉でも体力を回復させる事がある。

 航は極限状態から脱しようとしていた。


 航は、中野が持ってきたそばを二杯、汁さえ残さずに食べきった。

 航の体に力が漲る。その急な回復ぶりに、爽夏は呆然としていた。

 気を失って、倒れこんでしまうほど憔悴していた者が、僅かな時間で起き上がり、蕎麦を抱え込むようにして啜り、青白かった顔色には、徐々に赤みが差し始めた。身体の震えは治まり、目の力も強くなっている。


 爽夏は、航の驚異的な回復力と、中野の持つ底知れないパワーに驚嘆した。

「中野は強い、強すぎる。いくら才能がある航でも、この男を前にしたら、子ども同然だ。航に勝ち目はない」

 爽夏は心の中でそう思った。だけど、そんな屈強な男へ、航は真剣勝負を挑もうとしている。これまでの航は、そういうタイプの男ではなかった。強さを見せ付けられればあっさりと負けを認め、いつか訪れるチャンスに希望を繋ぐ。そういう男だったし、爽夏は、物事に執着しない、そんな航が嫌いじゃなかった。

 でも目の前の航は、何かに取り憑かれたように立ち向かっている。

「徹だ!」

 爽夏は航の中に、徹を見た気がした。

 徹の思いが、航を突き動かしている。爽夏の胸に熱いものが込み上げてきた。

 もはや、航を止めると言う選択肢は無い。


「もうエイドは無いから、次に会えるのはゴールだね。待ってるよ……」

 航は、爽夏から差し出されたザックを受け取る。

 そして、爽夏の身体を力いっぱい抱きしめた。

「ゴールで会おうぜ!」

 耳元でそう囁くと、中野の背中を追って、闇が広がる森の中へ消えていった。

 残された爽夏は、自分の姿を見て、笑みをこぼした。

 航に抱きしめられた白いシャツが、泥で汚れていたからだ。

 爽夏は、こみ上げてきた笑いを抑えられず、にやにやと唇をほぐし、やがて声をあげて大笑いした。

「航、がんばれー!」

 闇に向かって叫んだ爽夏の声が、森の中に、木魂した。

 深夜二時三十分、静まり返った森が、二人の男を飲み込んでいく。

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