5 野沢の異変

 緑山大学陸上部は、毎年この時期、黒姫高原を拠点に合宿を行っている。

 この日は笹ヶ峰高原までの走り込み練習をしていた。距離は20キロに満たないが殆どが上り坂であるため、ハードな練習になる。後導車に乗っていた野口監督は、前を走っている選手を注意深く見守っていた。選手に異変が起きていないか、観察しているのだ。

 二台のサポートカーは、宿舎がある黒姫高原を選手より先に出発し、杉野沢の登り口で待機して、合宿に参加している一軍の全選手二十名が通過するのを見送った。

 ここまでは順調に来ている。ほぼ実力どおりの順番で通過していた。この先は車道が狭くなっていくので、一台は先導、もう一台は後導という形で分かれ、野口は後導車に乗車している。


 異変が起きたのは、笹ヶ峰高原まで残り5キロの地点だった。トップを引っ張っていた筈の野沢徹が後退して来て、最後尾にいた選手にも抜かれてしまったのだ。

 明らかに状態がおかしかった。かろうじて走ってはいるが、そのスピードは、市民ランナーのジョギング並みに落ちていた。明らかなブレーキ……

「おかしいな、止めよう」

 野口がぼそりと呟いた。

 助手席の窓をあげて、「徹、止まれ!」、と叫ぶ。

 徹は、それでも走り続けた。

 しかしフラフラと蛇行し始めると、やがて立ち止まり、次の瞬間、崩れるようにしゃがみこんだ。顔面は蒼白で息遣いが激しい。野沢の身体に異変が起きているのは間違いなかった。


 普段は静かな合宿所のロビーが、緑山大学の陸上部員で騒然となった。徹の異変が発生した事を受け、この日の練習は急遽中止となり、合宿所のバスで送迎されてきた選手が戻ってきたところだった。

 徹は、監督と女子マネージャに付き添われ、長野市内の病院に救急車で運ばれた。監督からの一報によると、命に別状はないそうだが、意識レベルが低いという。

 追い込んだ練習をしているランナーであれば、こういう状況に陥る事はたまにある。脱水症状、熱中症、稀に低体温症に陥る選手も居る。大学陸上界のトップを牽引する緑山大学の選手は、練習であってもギリギリまで自らを追い込む。それは崖っぷちギリギリのところでブレーキを踏むチキンレースのようなもので、一歩間違えれば、転落すると言う危ういトレーニングを積み重ねて鍛錬しているのだ。

 ただ野口が心配だったのは、それが徹の身に起きてしまった、という事だった。

 徹は、自己管理を徹底する完璧主義者だ。これまでも与えられた全てのメニューを消化し、足りない部分は自分で補強するほど綿密にトレーニングを行う。

 練習のみならず、食生活、睡眠、休息、身体のケアに至るまで、出来うる事を全て完璧にこなす全部員の手本となる存在だった。そんな徹が、あの程度の練習で倒れるなんて、とても考えられないし、もしも疲労などによりコンディションが整っていなかったのならば、自らの身体と対話をして調整できた筈だ。

 野口は、徹についてひとつ気がかりな事があった。それは、今回の合宿において、徹は与えられたメニューを全て想定タイムで消化していた。しかし終わった後の余裕が、いつもほどには感じられなかったと言う事だ。

 春の学生陸上界を席巻した徹は、当然、部内でも頭ひとつ抜けた存在だ。他の部員が消化できるメニューならば、当然そこには余裕がなければいけない。それなのに徹が目立つ事はなかった。

 単なる疲労であれば良いのだが…… 野口は内心そう思っていたが、何か得も言われぬ不吉な予感に襲われていた。


 二日後、体調を回復させて退院した徹は、マネージャと共に北陸新幹線で、東京へ向かっていた。退院した徹は、合宿への復帰を嘆願したが、野口監督はそれを許さず、帰京させた。都内の病院で精密検査を受けさせる事にしたのだ。

 合宿からの離脱を言い渡された徹は、気持ちが塞ぎ込んでいた。夏合宿からの離脱は駅伝の選考に影響しかねない。ここまで順調に来ていて、この夏を越えれば、大学三大駅伝が待っている。エースとして緑山大学を引っ張っていくのだ、という自負があった。それなのに、その目論みが頓挫してしまったのだから、落ち込むのは当然だ。

 しかし、心に大きな影を落としていたのは、それだけではなかった。合宿を離脱しただけならば、その後、結果を残していけば、チャンスはいくらでもある。要は体調さえ立て直せば良いのだ。だが、体調さえ立て直せば、という響きが、心の奥底に、得体の知れない不安の巣を作っていた。

 何かがおかしい、徹は自らの異変に気付いている。その異変を隠し通して前へ進むつもりだったが、そうは行かない現実を突きつけられた。何かとんでもない事が起きてしまいそうな予感が、徹を出口の見えないトンネルへと誘って行く。

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